おいしい本が読みたい●第八話 童心に帰れるかな?
「こんなに言い訳してもたりないというのなら、ぼくはこの本を、子供時代のこの大人にささげたいと思う。大人はだれしも最初は子供だった(それをおぼえている人はすくないけれど)。ということで、ぼくはこの本をささげることばをこう直そう:子供のときのレオン・ヴェルトにささぐ」
見覚えのある一文ではないだろうか。そう、かの『星の王子さま』の献辞を締めくくる部分である。名文家サン・テグジュペリならではの見事な一節だと思う(拙訳では原文の流麗さは味わえないだろうが)。
木と花と虫と魚と蛙と鳥と鼠と狼と熊と山姥と神さまが、みんな隣にいる時代はいっそう思い出しにくくなっている。いや、忘れられているだけではない。はじめて海を見た少年が「うわぁ、海がきた、海どんどん!」といえば、すかさず親が「海じゃないだろ、波どんどん、だろ」と、“適切な”標準表現へと修正を迫られ、それとともに子供の視線を喪失してゆく。
ゆがんだ視線を直すには童話(児童文学)にかぎる。わたし好みでいうと小川未明の『金の輪』や有島武郎の『一房の葡萄』、そして作者は忘れたが『銀のおおかみ』だ。この順番はわたしの年齢をさかのぼる配列で、それぞれ大学生、中学生、季節保育所時代(人口三百人のわたしの村では農繁期などにのみ開設された)となる。『銀のおおかみ』は表紙がぼろぼろになるほど繰り返し読んだ。熱心だったというより、雪が降り続いて外遊びができないときは、それくらいしか暇つぶしの手段がなかったといったほうが当たっている。ともかく、再読、再々読々のおかげで表紙の図柄とストーリーは今も鮮明だし、なにがしの感受性を与えられた気がする。しかし、やはり忘れていた。
おぼろげになっていた幼年時代の感覚を取り戻させてくれたのが、『小さなお城』(文:サムイル・マルシャーク、絵:ユーリー・ワスネツォフ、訳:片岡みい子)である。家人が留守のとき(ちょっと気恥ずかしいから)、音読してみた。不思議なものだ。あの頃の故里の山河がよみがえるではないか。ついでに、三・四年のあいだ毎晩娘を寝かしつけるときに読み語っていた、自分の若きお父さん感覚も。このお父さん役のときは、父親の役割はもちろん意識していたが、同時に、子供と同じ目線でも語っていたのだった。だから、この絵本を手にしたら子供に読ませるのではなく、ぜひとも語ってもらいたいと思う。わたしの好きなハリネズミを筆頭に、すばらしい絵の味わいも忘れずに。
むさしまる