一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

北沢方邦の伊豆高原日記【35】

2007-12-12 09:57:53 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【35】
Kitazawa, Masakuni  

 枯葉の舞いのなかで、庭の隅に張られたいくつかのクモの巣が風にゆれて光り、中心では、ジョロウグモがまだ寒さに耐えて頑張っている。夕べの紫色の海に、イカ釣り漁船の漁り火がまたたく季節となった。真冬にかけて、夕暮れの美しい日々がつづく。

東洋人のパターン認識 

 NHKBS1で、韓国のドキュメンタリー番組「儒教Ⅲ礼」を見た。8人8列64名が一糸乱れず舞う、まぼろしの八佾〔はちいつ〕の舞いの文舞〔ぶんぶ〕(武舞に対応する)など、孔子廟や宗廟、あるいは皇帝や王のまえで舞う豪華な舞が、おそらく韓国国楽院の出演であろうが、絢爛と繰り広げられるなど、視覚的にも楽しめる番組であった。

 こうした演出だけではなく、韓国の田舎にいまでも残っている古式ゆかしい儒教のさまざまな宗教儀礼(日本に儒教とりわけ朱子学の影響はあったが、宗教としての儒教は輸入されなかった)や、都市でいまも行われる伝統衣裳に身を包んだ男子・女子の儒教成人儀礼など、李王朝以来の韓国の儒教が、いかにひとびとのあいだに深く浸透しているかを物語っていた。

 いまわれわれ現代社会に不可欠のITやさまざまなディジタル機器を動かす原理である0と1との2進法(00の次は01、次に11となり、次に進むと一桁上って100となるという方式)つまり2進数値(バイナリーディジット略してビット)は、ライプニッツが発明したとされるが、彼自身宣教師に教えられて、『易経』(周易ともよばれる)の64卦が、2000年もまえに発明された2進法(0と1の代わりに陰と陽)であることを知り、愕然としたという挿話など、教えられることが多かった。

 そのなかでも興味深かったのは、アメリカの大学でのある心理実験であった。担当した教授の名は失念してしまったが、彼自身はかつて、人類の心理構造は普遍的であると信じてきたが、私流にいえば、西洋人と東洋人との「パターン認識」がまったく違うことを発見し、心理構造に種族の差があることを確信するにいたったというのだ。

 たとえば、牛と鶏と草の描かれた絵を示して、このなかからもっとも関係の深い二つを選べ、という問いをあたえると、西洋人被験者は例外なく牛と鶏を選ぶのに対して、東洋人被験者は例外なく牛と草を選ぶという。結果を知らされるまえに、私も一瞬の判断であったが、鶏も草をついばむことなきにしもあらずだが、やはり牛と草だろうと考えた。つまり典型的な東洋人であったのだ。

 西洋人といっても白人種であるだろうが、彼らは動物対植物というカテゴリー概念で牛と鶏を選ぶが、東洋人おそらくモンゴロイドは、動物の生態をまず考え、牛と草を選ぶのだ。いまはやりのエコロジー的な発想である。

 もうひとつの実験は、魚の泳ぐ水槽であるが、それを観察した結果を報告させると、西洋人は例外なく、そこに泳ぐ魚の種別や形、模様などを記憶するが、東洋人は水草のゆらめきや石の配置、泡の上昇などと、それをめぐって泳ぐ魚たちという認識パターンを示すという。つまり東洋人は水槽全体を、ひとつの動く風景としてとらえるのだ。

 このドキュメンタリーでは、この心理実験を東洋画に結びつけて説明し、そこでは人物もこの実験の魚同様、風景の一要素としてのみ認識されているとし、人間を中心としてみる西洋人にとって東洋画が理解し難いのは、この認識の違いにあるとする。もちろんそのことは正しいが、問題はこの「パターン認識」の差異がなにに由来するかであるだろう。

パターン認識と世界観の差異 

 それは結局、むずかしくいえば世界観、要するに世界の見方に由来する。われわれ東洋人にとって、生きとし生けるものすべてに仏性があるとする仏教が典型であるように、世界は万物相互が密接にかかわりあう「共生」の宇宙であり、人間といえどもその一要素でしかない。世界はその全体性で眺められる。

 ところが西洋では、人間が神に選ばれた万物に優る生き物とするキリスト教が、古くから人間中心主義を貫いてきたし、とりわけ近代では、個の尊厳とその「主観性」が認識の中心と考えられてきたがため、いわば透明なガラス箱であるこの主観性を通じてしか、ひとは事物を認識できなくなってしまった。主観性は蓄積した知識やそれを無意識に分類するカテゴリーで世界を判断する。

 西欧の絵画はこの人間中心主義を反映しているし、十八世紀に興隆した風景画といえども、描くものの主観性としての感情が投影されている。私が十九世紀の画家カミーユ・コローの絵を好きなのは、ひとつは樹木の描き方などきわめて東洋的であり、中国画の影響を受けているのかと思われることもあるが、そこに淡い褐色を主体として投影されている感情が、自然と一体化したかのようにきわめておだやかであり、心が癒されるからである。同じフォンテーヌブロー派の、他の画家たちの風景画にはまったくないものである。

 モネやゴッホなど印象派の「革命」は、まさにこの主観性の殻を打ち破ろうとした点にある。彼らは自己の主観性を超え、自然そのもののもつ潜在的な力を、光りと影のうつろいのなかで、大胆な色彩やかたちとして表現しようとしたのだ。ゴッホの晩年の絵は、宇宙や自然そのものの妖しいゆらめきであり、モネの最後期の「睡蓮連作」は、瞑想のなかに宇宙を映しだす、まさにウパニシャド(インドの哲学書)の世界である。

 だが彼らの「革命」は、浮世絵ショックともいうべきできごとから生じた。日本からの輸入陶磁器の包装紙に使われていた大量の浮世絵が、驚くべき絵として彼らに衝撃をあたえたのだ。たとえばのちにドビュッシーが自作の交響詩『海』の表紙に使用した北斎の相模沖の波涛の絵は、波の描写のたんなる誇張ではない。北斎は天にも届かんとする波涛の力と、翻弄される釣り舟のひとびとを描くことによって、宇宙に充満するエネルギーまたは「気」を表現しようとしたのだ。印象派の画家たちは、そこに主観性の小さな枠を打ち砕くなにものかを感じ取った。世界は主観・客観を超えたところにある、と。

 このメッセージはいまこそ重要である。地球温暖化による環境危機のさなか、大自然全体の「共生」(生物学的意味でのシンバイオシス)をまず感じ、人間をその点景としてとらえる東洋哲学や芸術の視座を復権させなくてはならない。われわれは日本人である以上に、東洋人である自覚とアイデンティティを回復し、危機の克服に寄与すべきである。キリスト教徒でもないのにクリスマスを盛大に祝うが、伝統行事をほとんど忘却した西洋崇拝・白人崇拝の日本人を、いったいだれがつくりだしてしまったのだろう。

お知らせ
遅くなりましたが、
北沢方邦『ヨーガ入門―自分と世界を変える方法』平凡社新書は、
来年2月に発売されることになりました。
ご一読いただければ幸いです。
また、新年1月20日(日曜日)夜9時からのN響アワー
青木やよひが出演し、
ネルロ・サンティ指揮によるベートーヴェン『交響曲第八番ヘ長調』にまつわり、
ベートーヴェンの大曲のなかであ唯一献呈者のいないこの曲の謎を語る予定です。
これもお聴きいただければ幸いです。