一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

北沢方邦の伊豆高原日記【33】

2007-10-29 21:19:25 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【33】
Kitazawa, Masakuni
 

 季節の移り変わりが早い。多忙だったせいもあるかもしれないが、樹々が色づきはじめ、モズの高鳴きが森に木魂し、澄み渡った空に秋らしい陽射しがまばゆい、といった典型的な「日本の秋」はほとんどなく、夏が終わったと思うや、すでに肌寒い初冬のきざしである。それどころか、今日は季節はずれの台風で、激しい風雨に樹々がどよめいている。地球温暖化による異常気象をまざまざと実感する。

 ここまで書いて、風邪で寝こんでしまった。熱はほとんどないのに、耳下腺が腫れ、喉が痛む。ヨーガをやっていても、ヴィールスやバクテリアなどの感染は妨げられない。ただ回復が早いことはたしかである。今日は秋の陽射しがまばゆく、樹間にみえる海が青い。

西村朗氏との対話 

 『洪水』という詩と芸術の雑誌に依頼され、ヴィラ・マーヤで作曲家の西村朗氏と対談した。『洪水』とはまた恐ろしい題名だと思ったが、編集長の池田康氏によれば、バングラデシュの「洪水」に霊感をえた詩人白石かずこ氏の命名だという。たしかに急流の多いわが国では、洪水は恐ろしいイメージだが、ガンジスやインダス、あるいはラインやドナウといった大陸の大河の洪水は、ゆったりと増水し、引いたあとには、ゆたかな泥土を残していく。古代エジプトのナイルも、文明をはぐくむ母なる大河であった。それにこの「洪水」は、芸術の領域の狭い枠を超える意味もあるという。

 それはともかく、この対談は私にとっても実りゆたかであった。なぜならすぐれた作曲家が、いかに深く広い内面世界、いいかえれば「哲学」から作品を創造しているか、その内奥をかいまみることができたからである。

 とりわけ戦後、日本の音楽界を支配してきた根強い「神話」がある。それは、古典派からロマン派にいたる近代音楽は、作曲者の個人的な感情を表現してきたのであり、それに反逆する「現代音楽」は感情を排除し、純粋なモノとしての音の構築に専心すべきである、というものである。古典やロマン派の音楽の演奏ですらこうした神話に支配され、いっさいの感情を排除し、総譜の音を流麗に、構築的に表現すればいいのだ、という流行が生まれるにいたった。ヘルベルト・フォン・カラヤンやその無数の亜流がそれである。

 音楽から「意味」や「思想」を追放する「絶対音楽」の神話といいかえてもよい。

 作曲のコンクールでも、精密な総譜を書き、大オーケストラを咆哮させる技術をもちながらも、新奇な音を羅列させるだけでなんのメッセージ性もない作品が溢れ、私を辟易させるばかりであった。

 だが本来の作曲はこうしたものではない。たとえばベートーヴェンは動乱の時代を生きながら、たえず内面で思想的な格闘をつづけ、それを音として表出しようとしていた。1814年から書きはじめた『日記』には、その苦闘のあとが記され、世界観にいたっては『ウパニシャド』をはじめとするインド哲学まで探求されている。彼の晩年の作品は、音としてのこうした「思想」抜きには語れない。

 西村朗(以下敬称略)の作品は、圧倒的なメッセージ性に溢れている。ときにはわれわれは、腕づくで異世界に曳きさらわれる。それはまさに「洪水」である。彼の作曲技法はひとくちに「ヘテロフォニー」とよばれる。それは異質な音響が微妙にふれあい、交錯しながら持続することを意味するが、同時に西欧の近代音楽が打ちたててきた「音楽原理」そのものへの「ヘテロ(異質)」な原理を意味する。つまり作曲家個人の主観性を、主題やその展開、あるいは和声といった形式や技法で表現してきた「原理」を、「洪水」のように超え、その枠組みを解体したところに成立するヘテロフォニーである。

 ベートーヴェンと比較したのも、彼の世界観や思想の根本に『ウパニシャド』があるからである。正確にいえば、仏教をも包括するウパニシャド的世界観というべきであろう。古代インドの経典『リグヴェーダ』の注釈書である『ウパニシャド』は数十冊に昇るが、その根本思想は共通である。すなわち人間の個我(アートマン)を取り巻く世界は、神々がつくりだしたマーヤー(幻影)の世界である、いいかえれば主観性にもとづく世界は幻影にすぎないとする。だがもし人間が、なんらかの修行や知恵によって幻影の世界の帳を破り、宇宙の根本であるブラフマン(宇宙我)と一致すれば、そこに光り輝く真理の世界があらわれる。それが幻影の世界からの解放、または解脱(ムクティ、モクシャ)である。

 インド古典音楽が、ラーガやターラとその霊妙な変換によって、このアートマンとブラフマンの一如の状態を導こうとするとすれば、西村朗の音楽は、大オーケストラや近代楽器、ときにはアジアや日本の楽器によってそれを行おうとしている。

 かつて西欧の異端の大哲学者スピノーザは、この主観性が消失し、宇宙と一体となる世界を「実体」と名づけ、それを神そのものの実現としたが、西村朗の作品は、この「実体」の目眩めく音の大洋にわれわれを沐浴させてくれる。

予告
対談の掲載される『洪水』(アジア文化社)は、12月に発行される予定です。
また来年(2008年)4月19日(土曜日)には、
北沢と西村の対話を含む『世界音楽入門』(昼の部)『西村朗の世界』(夜の部)が、
セシオン杉並で、ドビュッシー、バルトーク、西村朗などの作品の演奏とともに開催されます。
詳細はいずれこのブログに掲載します。以上ご期待ください。