一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

楽しい映画と美しいオペラ―その7

2007-10-02 11:51:45 | 楽しい映画と美しいオペラ
楽しい映画と美しいオペラ――その7

イングマール・ベルイマン追悼――『ファニーとアレクサンデル』

 7月30日、ベルイマンが死んだ。スウェーデンの映画監督、イングマール・ベルイマンである。1960年代の後半に学生時代を過ごした私たちには、心に強く残る映画監督のひとりである。

 たまたま先日、あることを調べていて、昔購入した本をひもとくことがあった。そしてその本の中ほどの頁に、しおり代わりに使っていたのだろう、映画館のラインナップを記した小片を見つけた。新宿の、確か伊勢丹の前にあった小さな映画館、日活名画座のしおりである。3日交代で2本立ての映画が公開されていたらしく、ベルイマンの『沈黙』(1963)と『鏡の中にある如く』(1961)が、10月16曰から18日に上映されていたことがわかる。それらのタイトルの横には、〇印が付されている。さらにしおりのはさまれていた本の奥付の頁には、‘68、9/6と、購入された日付が記されていて、私のはじめてのベルイマン体験が、おそらく、68年の10月であったろうことが推測されるのである。

 その後は、『野いちご』(1957)、『処女の泉』(1960)、『ある結婚の風景』(1974)、『魔笛』(1975)、『秋のソナタ』(1978)を観たくらいで、ベルイマンのいい観客では必ずしもなかったけれど、神と性、そして夫婦のあり方を執ように問いかけるその姿勢と、モノクロームの、暗く静かな、しかし、大胆な構図の映像ともども、彼は忘れ去ってはならない映画監督であり続けてきた。

 7月の訃報に接して、初期の『不良少女モニカ』(1953)と『夏の夜は三たび微笑む』(1955)、70年代の『叫びとささやき』(1973)、80年代の『ファニーとアレクサンデル』(1982)の4本を、立て続けに観た。今回は、ベルイマン最後の映画作品、『ファニーとアレクサンデル』について書こうと思う。どうやらこの作品には、ベルイマン映画のあらゆる要素が盛り込まれているような気がするのである。

 『ファニーとアレクサンデル』は、私のベルイマン映画に対する先入観を完全に覆すものだった。「神」というベルイマンの終生のテーマがこの映画の1つの核であるにせよ、全編にユーモアが溢れ、猥雑さが垣間見え、まるでフェリーニの映画を観ているような気分に陥った。モーツァルトのオペラを映画化した『魔笛』と、『夏の夜は三たび微笑む』からは、ベルイマンの巧まざるユーモアのセンスが感じとれるけれども、これらはやはり例外であろう。「深遠な哲学的映像作家」の最後の映画作品ということで、いささか身構えて鑑賞に臨んだのだが、その思いはものの見事にはぐらかされることとなった。しかし私は、この偉大な「喜劇」を大いに楽しんだのだった。

 物語は、10歳の少年アレクサンデルと、その一族エークダール家を中心に展開する。この少年と祖母ヘレーナの、2つの視点が交錯する壮麗な家庭劇である。

 優れた芸術作品は人生を正確に反映するが、この映画もその例に洩れず、エピソード一つひとつはかなり悲惨である。にもかかわらず不思議な明るさに満たされているのは、ヘレーナの存在故であろう。聡明で包容力があり、老いてなお瑞々しい感性の持ち主である。元女優の彼女は広壮な邸宅の女主人であるばかりではなく、成長した3人の息子の精神的支柱でもある。長男オスカル(アレクサンデルの父)は劇場主で俳優、次男カールは大学教授、三男グスタフはレストラン主。この3人の息子は、アレクサンデルと同じく、ベルイマンの分身と言っていいだろう。

 無類の女好きの三男グスタフは、この作品に、ユーモアと祝祭的気分を与えている。クリスマスの、一家挙げてのパーティのあと、妻が待っているにもかかわらず、召使の一人の部屋に忍び入ったりする。これらの行為が一族皆の公認というのもおかしいが、この世を生きる力の源泉のひとつが、エロスであることを伝えている。

 次男カールは、グスタフとは対照的である。理由は定かではないが、暖炉に焚く薪もないほどの困窮ぶりで、人生に絶望している。ささいなことで妻を非難し苛むが、結局は彼女なしでは生きていくことができない。不眠症で、被害妄想、そして自省的な鬱病。これもベルイマンのひとつの側面であろう。

 実直な劇場主、長男オスカルは、舞台人であるというだけでも、ベルイマンの分身の資格を持つ(ベルイマンは終生舞台の演出をし続けた)。彼は『ハムレット』のリハーサルの最中に倒れ、やがて死ぬ。そして物語は、ここから悲劇へと転回する。未亡人となったオスカルの妻エーミリーは孤独に耐え切れず、アレクサンデルとファニーを連れて、主教ヴェルゲールスと再婚する。このヴェルゲールスとアレクサンデルとの対立が、この映画のハイライトである。「神」というベルイマンの生涯のテーマが展開されることになる。

 主教という仮面を自分の顔からはがすことができないこの原理的宗教家は、おそらく、牧師であったベルイマンの父親のある側面を反映しているのだろう。「わが家の教育は、主として罪、告白、罰、許し、そして赦免といった概念から成り立っていて、それは同時に父と子ならびに神との関係における具体的な要素でもあった」とベルイマンは自伝で述べている。

 アレクサンデルは主教に徹底的に反抗する。それに対して主教は、神の名の下に強圧する。頬を打ち、尻を棒で叩き、挙句の果てに格子窓の部屋に閉じ込める。当然、アレクサンデルにとっての神は、「クズみたいな存在」となる。

 アレクサンデルは、10歳のベルイマンそのものであろう。気が弱いくせに反抗的で、夢想癖があり、大人の本質を見抜く力を持っている。また、しばしば幽霊を見る。特に父親の幽霊が、彼のことを心配してよく現れる。彼は抗議する、「ただ見守っているだけなら、早く天国へ行ってよ。そこに本当に神様はいるの?」。

 ベルイマンにとって、神とは、いったい何だったのだろう。少女を犯し殺害する男たちとその復讐に殺人をためらわない父親(『処女の泉』)、精神を病み弟との近親相姦に陥る娘(『鏡の中にある如く』)、行きずりの男と獣のようなセックスを繰り返す女(『沈黙』)、死してなお死の恐怖から逃れられない敬虔なキリスト者(『叫びとささやき』)。神は沈黙するばかりである。

  「賢明で寛大で公平」を自認する主教からアレクサンデルとファニーを救い出すのは、祖母ヘレーナの恋人、ユダヤ人の骨董商イーサクである。主教館に衣装箱を買いに行き、そこに2人を入れて奪還するのだが、この場面は傑作である(主教はこのあと、焼死という悲惨な最期をとげる。その死にはアレクサンデルの「祈り」が深くかかわっているが、このテーマについては稿を改めたい)。このイーサクとヘレーナの、何十年と続いている恋人関係がなかなかにいい。ヘレーナが熱く何かをしゃべっているとき、イーサクは居眠りをしてしまう。しかし、彼女が、時の哀しさに涙を流すと、そっと抱きしめる。

  救いはどこにあるのか? ベルイマンは神を見出したのだろうか? 私にはわからない。しかし、ヘレーナとイーサクの、一見何気ない関係のなかに、ホッと安堵するものがあることは事実である。救いは、結局は、ささやかな、普段は意識にものぼらないような、日常的な存在のなかにこそあるのではないだろうか。ヘレーナにとりイーサクであり、イーサクにとってヘレーナであるように。死の恐怖で死ぬこともできない『叫びとささやき』の中年女を救うのも、謹厳な牧師などではなく、心優しい召使なのだ。姉と妹が恐れをなして近寄ることができない死者を、召使は豊かな胸をはだけて抱きしめる。

 ヘレーナが寝室で、ストリンドベルイの新作『夢の国』の台本を読むところで、この映画は終わる。「あらゆることが起こる。起りうる。時間も空間も存在せぬ。浅薄な現実を土台にして、空想が新しい模様をつむぎ出してゆく……」。アレクサンデルが、祖母の膝に頭をのせ、じっと聞き入っている。

1982年●スウェーデン・西ドイツ・フランス
監督:イングマール・ベルイマン
出演:バッテル・グーヴェ(アレクサンデル)、ペルニッラ・アルヴィーン(ファニー)、グン・ヴォルグレーン(ヘレーナ)、アラン・エードヴァル(オスカル)、エーヴァ・フレーリング(エーミリー))、ボルイェ・アールステッド(カール)、ヤーク・クッレ(グスタフ)、ヤーン・マルムシェー(ヴェルゲールス)、エールランド・ユーセフソン(イーサク)

2007年9月22日 j-mosa