- 松永史談会 -

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今津村の木村さんあれこれ

2019年03月10日 | 断想および雑談
お墓参り方々、いろいろ調べごとをしてみた。

兄貴杉谷国太郎の3回忌に建てた墓に刻まれた弟福松の歌「きよらかな兄の心の奥深く秘めし切なさ知る人ぞ知る」。杉谷は6歳で父親と死別したようだが、大正7年に28歳の妻を失い、失意の中で7か月後の大正8年4月に31歳で病死していた。弟の歌はいささか文学的な感興に乏しいものだが、いばらの道を歩まざるを得なかった兄ではあったが、家業面でもそれをうまく軌道に乗せこれからというところだったか。福松は父親代わりのような国太郎の人柄に惹かれるものがあったのだろ。この杉谷国太郎さんは明治28年歿の太田屋初代・杉谷善助の息子に当たり、太田屋という呉服店を経営していた。

こちらはその近くに並び立つ明治の蕉風俳句/地方俳壇の宗匠福田桃洲とその弟子石井瓢水のお墓。演出されたほほえましい師弟愛というか息子石井亮吉の粋な計らいに拍手

前置きはこれくらいにして本題に入ろう。
大正3年当時、今津村372番地屋敷に居住した木村茂十(❶)。


その場所は三藤六平→明治31年三藤熊太郎→明治35矢野善助(矢野天哉の親父)が買得。どうも三藤六平以前は373番地の地権者:工藤文七(今津村757番屋敷居住の藤江屋工藤巳之助の親)がここも所有していたらしい。地租改正段階にはここを矢野善兵衛が買得。373番地は工藤文七→三藤喜三兵衛→明治29年三藤亦三郎→昭和17三藤克己→昭和24矢野寛次郎(若木屋)。
ってことは最初に挙げた372番屋敷に居住した木村茂十というのは矢野善助家の間借り人か借家人だったことになる。



その372番地とは九州往還沿いの吾妻橋東詰め、堤防下の地所を指した。

この地方で木村姓が多いのは近くでは芦品郡の福田や有地だが、木村茂十の場合他所から転住してきた家筋?
結論的に言えばNO!今津宿の旧家だったのだ。

すなわち沼隈郡今津村で古くからあった木村姓の世帯はと言えば726番地 木村駒吉(❷)only。この726番地は今津宿の旧問屋場(幕末明治初年には村上重右衛門→明治25年熊田佐助→明治27年天野又兵衛→明治33年橋本吉兵衛→明治34年沖村喜助→大正4年沖村徳三郎)の東隣。駒吉屋敷は明治41年に木村恒松(1882‐1930)・木村定吉→昭和9年木村理人(1917-1979)→同年・井上義郎(柿渋屋・倉庫として利用)へと地権者が移動していた。

1962年の住宅地に登場する木村は沖浜(α)と柳ノ内(β=寄高商店の裏手)の2軒だけ。後者の木村は場所的には372番地屋敷とは目と鼻の先ではあるが、前者の木村と同様に典型的な路地裏の居住者だった。
木村茂十は大正5年12月24 日に69歳で殁っしていた(合葬者の行年36歳の女性は大正5年11月15日殁)。この茂十一家の本家に当たる木村駒吉ー恒松ーー理人一家が恒松の死後何らかの事情で自宅を売り払い路地裏住まい(α)を余儀なくされていたことが、今回の調査で、判明した。合わせてこの一族のSK(1937-‐1974、実は私生児)は苦学して公立大に進学し、教師になっていたが若くして病死(本当は自殺)していたことを今回の墓石調査などで知った。そういえば高校時代の進学就職問題で悩んでいた時、SKが一度わたしの家をたずねて来て進学を進めたという親父の話を今でも思い出す。
なお、今回発見した木村家墓地内に木村茂十の孫「光善童子」のお墓を探したが見つからなかった。木村家の墓地は我が家の新墓地の近辺に立地するがいつも綺麗に除草されている。

てな状況で未だに木村浅次郎さんの出自に関しては把握しきれていない。
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