- 松永史談会 -

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高島平三郎が敬愛した恩師門田重長のお墓探し

2019年03月02日 | 断想および雑談
史料取りを終え、歩いて駅まで引き返したが、膝の調子が悪いため、タクシーで高島平三郎の生家があった木之庄町へ(徒歩でも10数分程度の距離)。そこの通称仁伍墓地(木之庄町字尾ノ上)へ。高島は帰省(正確に言えば来福)した時は恩師門田重長のお墓参りをしていたらしい。
下車したところに興味深い墓石を発見高島平三郎の家は曹洞宗だったので、もしかしたらと思い写真に収めた。13時2分に付近で見つけた河村秀行翁(1853-1918、蚕病消毒用の河村式噴霧器の考案者、福山市住吉町、画家鎌田呉陽第二子))墓。 この河村氏を捉えて、墓地が近接することから、次に紹介する上有地出身の河村の一族だと誤解するところだったが、両者はまったく異なった系譜関係を有する人たちだった。T.ギロビッチ(『人間 この信じやすきもの-迷信・誤信はどうして生まれるか-』、新曜社)流の言い方をすればとかく人間は誤りやすく信じやすい。前後関係と因果関係を取り違えたり,ランダムデータに規則性を読み取ってしまったり,願望から事実を歪めて解釈したりする。2つの河村氏を十分吟味もせず、お墓が隣接しているからという理由だけで同族だと見なしてしまうといった誤謬は前後関係と因果関係の取り違えとか願望や期待が多き過ぎると惹起されやすくなる認知的とか動機的とか言った類の誤解に当たるのだろ。
墓誌を書いた平川良坪は山路機谷のところに厄介になっていた森田節斎の弟子平川鴨里のこと。

ちょっと離れた処(城見町の本行寺管理の墓地の中)にあった河村墓。こちらには出身地上有地の記載があった。


13時9分




13時18分 門田重長(1831-1915)墓(Y)を発見。この門田は森戸辰男の恩師でもあった人だがすでに無縁墓状態だった。ちょっと気の毒  安部諭吉は高島の両親の墓とこの門田のお墓を「ほど近き」(安部諭吉「晴洲高島平三郎先生」、『高島先生 教育報国60年』、昭和16、188-192頁)と説明しているので賢斎夫婦墓も同じ仁伍地区にあったのだろ。
参考)洞林寺境内の北条悔堂墓



13時43分。墓地全体をブラブラしていて思いがけなく福田禄太郎墓(昭和12年建立)発見。禄太郎(1865-1931)は昭和6年歿、享年66歳。墓石には69歳で亡くなった夫人(1872-1941)と55歳(1898--1953)・32歳(1927-1959)で没した子息と孫2名+昭和60年歿寿実子(孫娘、1920-1985)享年65歳とあった。福田家の家族関係・家族状況が透かし見えてきそうな佇まいだ。

福山市木之庄町尾ノ上共用墓地。奥津城と書いた神道墓もたくさん見かけた。

東京帝大・生理学教室教授永井潜の弟・達夫が養子に行った河相保四郎家の墓地だ。仁伍墓地ではひときわ目立つ。白壁の塀に囲まれ、「河相保四郎一族之墓」と書かれた墓石が一基あるのみ(木之庄村字尾ノ上421番地、大正11年西町河相達夫名義で買得
。この土地は同年福山市へ移管。河相は大正12年に449番-2,450番の山畑も買得。こちらは農地解放で人手に渡る)。整理整頓が行き届いていた。河相達夫(1889-1966)は外務次官まで上り詰めた外務官僚だったが、10歳年下だった同郷の池田勇人(大蔵官僚→首相)とはなんとなくそりが合わなかったようだ。
達夫の婿入り先(明治期に最も栄えていた千田村庄屋河相家の分家筋:河相源三郎家の分家)が、幼少期からの知己で終生永井潜と家族付き合いしていた高島平三郎の御膝元であったとは・・・・。達夫の嫁は河相保四郎の養女となった、姪:河相トミ。



一応所期の目的を達したので、駅まで引き返す。高島平三郎の親父賢斎墓(明治25年歿)の傍には桜の木を植えたと書かれていた。空中写真ではその判読は難しいので、もし次に行く機会があったら木之庄~北吉津(實相寺)地区の墓地でその点(樹齢120年の桜木)を捜索をしてみよう。

古第三紀暁新世 の堆積物だろうか。福山城の立地する常興寺丘陵と同じ。











14時14分。所要70分間の門田重長墓探し旅であった。わりと今回も簡単だった。さてA~Dは何だったでしょ?
いま高島の生家のあった場所に関して、高島が残した文章からわたしが勝手に推察して水野勝俊墓のある日蓮宗の妙政寺墓地からA/Bにかけての丘陵部と睨んでいるのだが・・・・。さてさて実際はどうだったのだろ。

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