- 松永史談会 -

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東京国文社と玉置源太郎

2016年10月20日 | 河本亀之助と東京洛陽堂




明治33年に東京国文社を創業する玉置源太郎は官軍に加わった芸備旧藩士




玉藻集〔国文社社主玉置源太郎の古希記念誌、芸備譜代家臣で官軍に加わり羽越に転戦、明治維新後印刷業に〕 
著者名 大滝由次郎・高木恒吉他編 序:梅原卓三郎 跋:鈴木善建 口絵揮毫:浅野長勲・末松謙澄・島田三郎・井上角五郎
出版社 大滝由次郎 ★玉置源太郎詠歌・小照(肖像写真)・小伝含★
発行年 大正6
詳細 非売品 初版 和装 原題箋 表紙少経年ヤケ 本文袋綴経年ヤケ 題字4+4+2+口絵16+132+口絵1+7頁



東京国文社刊の書籍・・・社主玉置源太郎の嗜好そのままに一昔前の国風・国学信奉を貫き、大正期にあってなお、和綴じ本を各種出版している。


印刷並に製本

印刷製本界の現状

印刷業は文明の先駆として国民教育の普及言論の発達に連れ益々発展し一面美術思想の発達と共に技術も精巧に且優美に進み活版より銅版更に石版に移り而して邦文より欧文に移る物漸次増加し技術の困難なる外印刷料金の競争日々激甚を極め日露戦役前後の幼稚なる時代は各印刷業者の得る利益多かりしも昨今は同業者の競争地方同業の発達東京大阪の対抗的競争激烈なる為め当業者の得る利益愈減退し当業者の新陳代謝亦頻々を極む然れどの需要の激増と競争の激烈なるとにて其発達実に著大なるものあり今昨年末現在における市内同業の現状を調査するに石版並に活版印刷に従事せる当業者二百八十九その中会社組織のもの二十八個人組織のもの二百七十一亦工場組織の下に動力を使用せる工場二百二十二無動力工場六十七而してこれ等工場に据付居れる器機は輪転機二台ハンド百七十九台四十二頁ロールの一台を始め以下二頁ロールを合算し千四百八十七台手摺三台カステング五十一台製本器四台罫線器七台亦これに従事せる職工は男工千八百二十五名女工百七十五名合計二千名を算す而して亦製本に従事せるもの百五六十戸この職工五百人を下らず以上工場の一ケ年生産活版印刷約十億枚この金額三百五十五万円石版其他の印刷百二十万円製本活字製造二百五六十万円合計七百二三十万円に達すべし

生産力発達著大

大阪の印刷並に製本業は地方同業の発達に連れ漸次勢力範囲を発展さるる如きも決して然らず新聞雑誌書籍を始め各種日用の諸印刷類の増加は実に驚くべき勢いを以て進み従来幼稚なる当時は市内及び近府県の注文に過ぎざりしもの一般需要増加し技術乃至印刷費競争の激甚なるに連れ却って大口物は大阪東京に吸収され現に大阪の印刷は市内六歩地方四歩と言う標準にて関西各地は勿論台湾朝鮮満州方面よりの注文日に増加をなしつつある状態なるより当地の斯業は日露戦役後非常に発達を遂げたり左に過去十年間の生産趨勢を示さん

[図表あり 省略]

右は純粋の営業者が生産せるものなれば市内十数社の発行せる日刊新聞の生産額を加算せば或は八百万円以上を算すべく兎に角過去十年間に七倍という激増を示せる工業は他に殆ど類例なかるべし而して印刷物の割合は新聞雑誌書籍三普通印刷物七と言う標準なりと

大阪印刷業の特長

大阪の印刷は年々長足の進歩を為し活版は素より石版におていも殆んど東京に譲らずとは各当業者の自負する所なるも技術の優美精巧ちょう点に於ては未だ及ばず又印刷費用の点においても精巧且つ大口の出版物類に至っては到底東京と競争の余地なく唯だ新聞雑誌と言う粗雑の印刷においては東京よりは遙かに低廉且つ便宜の組織となり居れる為めに国定教科書類の如きは東京七部大阪三歩と言う割当なるもその実大概東京に委しその代り粗雑なる印刷物の吸収に全力を傾注し東西相応じ各々特長を以て発達し居るも技術進歩と共に将来は両地の対抗競争を免れざるべしと


坂正臣と鈴木善建についてはB級本だが・・・・・
タイトル
東京名古屋現代人物誌
著者
長江銈太郎 著
出版者
柳城書院
出版年月日
大正5


わたしには高島が鈴木テル(高島の子供を出産、その子供は高島の母方親族の養子とされた)との結婚を取りやめ、テルより2歳若い黒田壽子を妻として迎え入れた背景には高島のなにがしかの打算もそこに働いていたのかなと思われるのだ。

一番の理由は西澤之助が創業した国光社が国学・国風を重んじる指向性が強く、爲に高島はそれからある程度、距離置こうとの考えがあったのだと思う。黒田壽子の兄太久馬著書「書斎の述懐」、明治23)は明治政府によって招聘されたフランス人法律家ボアソナードの薫陶をうけた言語研究者。黒田太久馬の妹を妻に迎えることは当時の高島の活躍ぶりとそれによって勝ち取った名声、そして高島の一番の弱点=語学力の不足を克服し、さらなる西欧的な教養の摂取面でそうすることが高島平三郎にとって得策だと自らもそして周囲の人々も判断したのだろうか。
その点旧広島藩士玉置源太郎は今回紹介した『玉藻集』を見れば解るように国学、国風嗜好ー旧態依然のままだったようだ。『玉藻集』において詠揮会(和歌)の先生として登場する鈴木善建は『高島壽子追悼録』,大正11年にも挽歌を寄せていた目次参照
村上純祥(尾道で開業した生名島出身の医師、東京帝大医科卒、森鴎外の2年後輩、年齢は6歳上)も和歌8首を寄せていた。

【後日談】後年河本亀之助の夫人となった鈴木テルは高島夫婦と連れだって功成り名遂げた高島念願の伊勢参りを果たしている。河本亀之助・テル夫婦は実子には恵まれず亀之助の妹婿の紅露長三の三女の房江を9歳の時に養女に迎えているが、その彼女は高島と鈴木テルとの間に出来た子・謙一(猪瀬謙一=顔立ちは高島そっくりだった)の後妻として結婚させられていた(猪瀬謙一には3人の子があったが、後妻房江との間には子供はなかった)。なお、謙一の縁談話を進めたのは高島寿子だったようだが、寿子自身は謙一の結婚式と相前後する時期に病没している。高島は養子に出した謙一少年とは子供時代から作文を自分の関わる「雑誌」に掲載したりしており、特別に可愛がっていた。謙一の子供3人は自分たちのお祖父さんとお祖母さんが高島と河本テルだということを弁えていた。
荒井
。この辺で銀座の話に移りましょう
あの頃、今の銀座はレジャーや服飾の町となってしまいましたが
。の銀座は文明開化のお先棒でした

、(活版(当時でいう銀座には福音印刷、年の銀座を見ると 6 大正活(集栄堂)、銅版・石版(栗山堂)、写凸(美山堂)、石版(大塚印刷現在の銀座の範。工場がありました 6 の)石版(三間印刷所)、版活(当時の西紺屋町には大日本印刷の前身である秀英舎、囲で見ると弓町には三、軒 2 の)石版(と右田印刷所)オフセット・石版・版(活版(文玉舎)、活版(金芳舎)、活版(千代田印刷)、活版(協印刷所と東京造画)彫刻・石版・活版(宗十郎町には東京国文社、軒 4 の滝山町には東京製、軒 1 鎗屋町には細川活版所、軒 2 の)石版(館コ(審美書院)、活版(新肴町には集栄堂、軒 2 の)活字(中心堂、本八官町に、軒 3 の)写真製版(明治製版所)、木版、石版、ロタイプ日吉町、軒 2 の)活字鋳造(民友社活版製造所)、活字(は忠愛社、軒で 1)石版(山城町にも彩雲堂、軒 1 が)活版(に民友社印刷所。工場がありました 31 結局現在でいう銀座にはそれでも京橋に、強制加入でしたが、当時の東京印刷同業組合は下谷、29 本所、41 芝、50 浅草、57 日本橋、116 神田に、社 147、6 麻布、8 深川、9 四谷、12 小石川、15 牛込、22 本郷、23 麹町、28・・・・」

猪瀬房枝が最晩年に河本千代子に送った一通の手紙を千代子の娘婿:医者村上某が1990年頃の松永沼隈医師会機関誌「松韻」1990年を掲載していた。
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