「まっちゃん」日記~「市民が主役の鹿沼」をめざして

「市民が主役の鹿沼をつくる」ことを目指して、私の所見や活動近況等をお知らせさせていただきます。

「生きて帰還出来てよかった」

2017-09-17 09:04:54 | Weblog
昨日は、鹿沼市で戦争体験を語り継ぐ会実行委員会主催の「戦争体験を語り継ぎ会」が行われ、私も参加してきました。市内在住の94歳、池田鍈亮さんの第二次大戦下における「南方軍総司令部」の体験についてでした。池田さんは、大学在学当時招集され、当時学徒は「内地」、「満州」、「南方」の3方向への派遣を命じられましたが、その中でも一番過酷な「南方」への派遣となったそうです。ジャワ島やルバング島、ガダルカナル島等の戦地では、多くの兵士が犠牲になりました。池田さんは宇都宮中学(現在の宇都宮高校)出身ですが、当時、同級生183名のうち、戦死した同級生は19名いたそうです。軍艦「足柄」に乗船したそうですが、戦争によりこの軍艦は東シナ海に沈没することとなり、当時、池田さんたちは、海に飛び込み、5時間程泳いで避難したとのことでした。当時、旧日本軍の軍艦等は684隻沈没したそうで、その位置図も拝見しましたが、とてつもない光景でした。後に東京裁判でA級戦犯の裁判が行われますが、A級B級C級についても説明がありました。当時の犯罪分類ですが、A級は平和、B級は戦争、C級は人道的な犯罪を犯したとの分類だったそうです。池田さんは、戦後昭和21年5月に復員されました。復員の際には、一人500円の手当を貰い、その後体の消毒等を受け、再び大学に戻ったそうです。エピソードとして、鹿沼市には「川上澄夫美術館」がありますが、中学1年~2年の当時、川上澄夫先生に英語を教わったそうです。このほか、非常に生々しい話、当時の現地参謀はひどかった話などありましたが、省略いたします。池田さんの「生きて生還出来てよかった」という言葉は、本当にそう思いました。戦後72年が経過する今日、鹿沼市では、こうした市民活動を通じて、戦争体験を聞き、そして、記録に残していく活動が宿ったこと、私も戦争未体験のひとりとして感謝しています。当時の状況をつぶさに学習し、戦争の悲惨さ、尊さを後世に伝えていくこと、このことが「平和都市宣言」を宣言している鹿沼市民の役割でもあると痛感しました。
コメント (1)
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