・・・・ 最後のコロッケ ・・・・
コロッケは庶民的な惣菜の代表だが、フランス料理の「蟹クリームコロッケ」はホテルで食べればお高い。コロッケは安くても揚げたてはオイシイ。でも私は食べないことにしている。これ以上太りたくないからだ。蒸したジャガイモにパン粉をまぶし油で揚げたコロッケは
炭水化物と脂肪が凝縮しタンパク質が少ない。還暦すぎたらコロッケは不健康な惣菜ではないか。美味しい食べ物が溢れている今、とくにコロッケを食べなくてもいいのだ。
12月1日、朝日歌壇の時評は斉藤斉藤の 「最後のコロッケ」 こんな歌からはじまる。
❤ 死ぬまでに食べる最後のコロッケもおいしいなあって思うと思う 服部恵典
作者は学生らしい。東大生が中心の「本郷短歌会」の会員。この5月に創刊の短歌同人誌 「羽根と根」 の会員でもある。斉藤斉藤はこの1首を次のように解説している。
~ 言葉のつながりが不思議な歌だ。「死ぬまでに食べるコロッケ」に急に「最後の」が割り込んでくる。それはおそらくこういうことだ。コロッケが好きな人が、コロッケを食べながらふと、死ぬまでにいくつのコロッケを食べられるだろう、と思う。そのどれかは最後のコロッケになるわけで、いま食べているこれがそれになる可能性も、なくはないんだよなあ、とも思う。そして最後のコロッケを私は、これが最後と気づかずに、いつものように「おいしいなあ」って思うのかもな、と思う。それにしても、このこのコロッケはおいしいなあ。~
コロッケと「死」はいかにもミスマッチだ。大学生の作者には「死」は遙か彼方のこと。だからコロッケを食べながらノンキなことを考えられるのだ。食欲の旺盛な若者にはコロッケはさぞ美味しいことだろう。「死」からはじまり思うと思うで終わる。まことに長閑な1首だ。
♠ これが最後となるかもしれぬ我の食むコロッケより北の大地ひろがる 松井多絵子
今夜、わたしがコロッケを食べたらこんな1首を詠むかもしれない。服部恵典さんに比べて深刻だ、「死」への距離の違いであろう。コロッケは北海道の旅の思い出を引き寄せる。東京に生まれ育って終焉の地となるであろ高層の森のわたしの東京。おなじ日本でも異国のような北海道を思いながら、これが最後となるコロッケを食べようかしら。 今夜。
12月2日 松井多絵子