世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

Ban Champoo古窯址訪問記・#1

2015-11-25 10:17:37 | 窯址・タイ
<続き>

パーン市街を経由し、そこから10km走ると国道1号の両側に家並が見え、行く手には横断歩道橋が見えた。そこを右折すると、バン・チャンプーまで3kmの道路標識が掲げられていた。直進してその突き当りに在る、ワット・チャロエンムアンを左に曲がって、道なりに進むとバン・チャムプーの集落である。当然ながらバン・バンチャンプー古窯址など分からない、そこでバイクで通りかかった人に尋ねると、その窯址の地主を知っているとのことでTELして頂いた。
尋ねた場所から200m北上しその地主を尋ねると、既にバイクに乗って準備完了であった。地主のバイクを追走すると、小高い丘をのぼり寺院(ワット・パープッタ二ミット)に突き当たり、そこを左折して道なりに走ると、丘の下りになり田園の平地にでた。そこを尚400-500m北上すると、左手の田んぼにこんもりした林が見えた、そこが窯址であった。


             (写真の寺院を見たらそこを左折した)
写真のこんもりとした処が窯址で、右の人が案内して頂いた地主である。畦道を伝って現地に建つと、殆ど崩壊しているが、煉瓦の基礎部分と散乱する陶片から、窯址と認識することができた。

了解のもと3-4点の陶片を採取した。それにしても村人の案内がなければ、到達できないうえにラッキーなことに地主に出会えたのである。
地主によれば、西の山塊の麓の田園の中にまだ窯址があるとのことであったが、そこはパスし去ることにした。上の写真の辺りとのことであった。




                                  <続く>

Mon Ohm古窯址訪問記・#2

2015-11-24 10:11:16 | 窯址・タイ
<続き>

トウモロコシ畑の窯址らしき辺りを見回すと、所々に陶片が現認されたが極まばらで、探すのも一苦労で大きな陶片はなく、多少なりともがっかりであった。
何の変哲もないカワラケのようなもので、よく見ると釉薬は長年の土中によりカセている。

黒褐釉をもつ陶片の表裏写真である。陶片の形から何らかの壺片である。もしかしたら二重口縁壺か?

白化粧され鍔付き口縁を持つ青磁盤片である。表の青磁釉は翠色で、濃淡がある褐色釉や黒褐釉が主体の中で、やや異色の存在である。また外面は約束通りの黒褐色である。

二重口縁壺のまさに二重口縁部の陶片を探し当てた。胎土は赤土のようである。このモン・オーム一帯は赤土土壌で、下の未舗装道路のような色合いをしている。

 話は変わる。「陶磁器・パヤオ」によれば、下写真のサンカンペーン印花双魚文盤を掲載し、これがモン・オーム窯から出土したと記載している。これは何を物語るのか?
モン・オーム窯は、サンカンペーン陶磁を参考に、印花双魚文盤を焼成したであろうか?
それとも、サンカンペーンの陶工が当地に移動してきたのであろうか?
いずれにしても、鎬文をもつ印花双魚文盤片を発見することはできなかったので、想像の域を超えるものではない。

                                <続く>

<予告>
 次回からパーンの窯址訪問記を掲載したい。

Mon Ohm古窯址訪問記・#1

2015-11-23 10:23:14 | 窯址・タイ
<続き>

待ちに待ったMon Ohm窯である。当該窯は所謂「パヤオ窯」では、Gao Ma-Fuang窯と並び双璧である。先ずMon Ohm窯の代表的な盤をタイ語書籍「陶磁器・パヤオ」から紹介する。
この盤と同様な盤を所蔵しているのは、日本では京都・東南アジア陶磁館で、このような盤を青磁劃花唐草文盤としている。また福岡市美術館の松永コレクションはこれを青磁刻花唐草文盤としているが、いずれも妥当な表現とは思えず、いわゆる掻き落とし文様である。横道にそれたが、当該盤はMon Ohm窯の代表的な焼造品である。これの陶片に出会えるだろう・・・として、勇躍でかけたが・・・・、
「陶磁器・パヤオ」掲載(上の写真位置)位置に出かけた。バン・ブアの集落から南へ約4kmの位置で、民家は1軒もない。1本道のようだが、実際はダートで、あちこちに分かれ道が在る。結局道に迷った、途中農夫が作業中であったが、それを遣り過した、挙句の果ての迷いである。
結局、農夫のもとにもどり、車に同乗してもらい、途中から徒歩で向かった。車から降りると、そこは生易しいものでなく、灌木、雑草とジャングル状態、農夫の山刀にどれだけ助けられたことか。
この小高い丘の反対側とのことである。この丘の麓まで、前述のように苦労した。この先とのことに、期待が膨らむ。
農夫に案内されたのは、写真のトウモロコシ畑であった。窯体がないので尋ねると、既に破壊されてしまったとのこと、辺りを見渡すとなるほど陶片が散乱している。
う~ん残念。気をとりなおして陶片を採取したが、上記の掻き落とし文の破片は、結局探し出すことはできなかった。
後になって分かったことだが、アプローチしたのは裏側で、正面からアプローチすれば、広い整地された道から可能で、トウモロコシ農園の端の丘の麓であった。上の写真の丘の麓がそれである。
<位置>
  北緯19°01′17″ 東経99°57′27″ 付近

採集陶片については、次回紹介する。尚、個人的見解では、当該Mon Ohm窯の窯址探査は行っても益なしと思われる。


                                <続く>

イースティン・タンからの眺め・2

2015-11-23 10:17:50 | チェンマイ
イースティン・タンは9階建てである。8階9階は2BDRとペントハウスで占められており、7階より下が1BDRやSTUDIOである。その7階の東向きの部屋に入居しており、朝日が差し込み気分爽快である。
その東向きの部屋から、東の遠方を望むとクンタン山脈を望むことができる。その山脈の左手に見えるのが、山脈中の最高峰ドイ・メートー(2031m)で独立峰のような形である。
写真中央がドイ・メートーで、その位置は北からチェンライ県、東からランパーン県とチェンマイ県が交差する県境の山である。写真の左奥がチェンライ県、右奥がランパーン県である。タイ国鉄でランパーンへ行くには、当該山脈のドイ・クンターン・トンネルを通過する。
西を望めばドイ・ステープの山塊である。その山塊には三つの頂があり、最高峰はドイ・プーイで1685mである。さらに著名なドイ・ステープは1080mで、その頂にはドイ・ステープ寺院が鎮座している。残る一つはドイ・ブアの山頂である。暫くした1月初旬にはヒマラヤ桜が満開となる。
写真でビルの真上がドイ・プーイ、赤色屋根の上がドイ・ステープである。
そのドイ・ステープの寺院を遠望したのが、上の写真で黄金色に輝くチェディーを望むことができる。
これだけでは、分かりにくいがチェンマイは盆地で、これらの山脈や山塊に取り囲まれている。それがここイースティン・タンから、実感することができる眺めである。


Po-Ui Taeng古窯址訪問記

2015-11-22 10:33:59 | 窯址・タイ
<続き>

今回は、Gao Ma-Fuang古窯址 から約300mと程近いPo-Ui Taeng古窯址を紹介する。民家の庭先から40-50m程、丘陵地を上った処に窯址はあった。

<位置>
  北緯19°02′03,94″  東経99°57′36,72″
アプローチが大変である。背の高い雑草や木々に阻まれ、山刀で払いのけねば辿り着けない。後学の方々がアプローチされる場合、それなりの備えが必要である。
窯址は立派な覆屋に、単独で1基が鎮座していた。比較的良い状態で保管されており、目分量ではGao Ma-Fuang窯と同じで、全長5m前後と思われ、サンカンペーン・ワット・チェンセーン窯より一回り大きい。
周囲から採集した陶片を以下紹介する。散乱している陶片の数も少なく、次の予定もある事から、下の3点を収集したに過ぎない。




高台は、サンカンペーンのそれと比較し、しっかり削り込まれ畳付のの幅も広い。


カベットに鎬文様が施された陶片である。鎬文はサンカンペーン、パヤオ共通であるが、その表現方法は多岐に渡り、当該陶片は平丸彫刻刀のような工具でそぎ落としている。その様子は、下の写真で伺うことができる。
                            <続く>

<次回予告>
待ちに待ったモンオーム古窯址を紹介する。待ちに待ったが結果は、やや期待外れでもあった。