世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

東京さ行って来た

2017-08-31 08:50:03 | 旅行

8月29日、30日の1泊2日で東京さ行って来た。目的は町田市立博物館で開催中の「黄金の地と南の海からー東南アジア陶磁の名品ー」展を観るためである。昨今、ネット・オークションでコピーを見続けていたので、精神衛生は極度に悪化していたが、当該博物館で観た陶磁は、看板に偽りなく名品揃いで、大いに満足した。

8月29日、出雲空港12:15発のJAL280便で羽田に向かった。

富士山は靄ってもう一つ。定刻、羽田着。バスにて町田バスセンターへ行くことにして、バス・チケットカウンターにて購入。14:10発のバスに乗車。午後3時過ぎに町田バスセンターに到着。このまま町田市立博物館へ行けばよいが、閉館時間は午後4:30なので、時間を気にしながらの展観(見学)はかなわない。明日の見学にすることにし、ホテルへチェックイン。昨8月30日、開館と同時に入館し見学開始。町田市立博物館蔵品は、2011年5月に瀬戸市美術館で開催された「東南アジアのやきもの」展で87点程を観て来たが、今回は175点の展示であり、愛好家には溜飲が下がる展示であった。

予想以上に時間を要し、上野の東博に寄る予定であったが、時間が確保できない。代わりと云えば何だが、高島屋で開催の「日本民芸館創設80周年記念展」を見学。それに合わせて1階で、リーチと浜田庄司の弟子の作品即売会を覗いた。帰る時間が迫る。羽田17:10発JAL285便に搭乗するのだが、15分のディレート。夕闇迫る三瓶山を左手にみて、間もなくランディング。満足のいく1日であった。町田市立博物館は望外にも、写真撮影okであった。後日、数々の名品をご紹介したい。

 


萩市須佐歴史民俗資料館・#2

2017-08-29 16:59:18 | 博物館・山口県

<続き>

「みこと館」

展示物で2番目に眼に付いたのは、須佐唐津焼と呼ぶ1600年頃に開窯された焼物である。これも撮影禁止なので写真は写せなかったが、公式ブログに掲載されているので、それをご覧頂きたい。見るとなかなか立派な焼物で、当時の優品が10点以上展示されており、図録を是非発行して欲しいものである。

「益田館」

ここは撮影許可されている。先ず益田氏領国の7箇村の絵地図(コピー)である。山がちな地形で1万2千石とは恐れ入る。

現屋敷は、明治になってからの建築とのことで、江戸期からのものでは無いようだ。しかし所々に上級武士屋敷の匂いを感じた。

建物内部には、民俗資料が展示されていたが、北前船の模型以外は省略する。

須佐にも廻船問屋が存在したそうであるが、規模は小さかったかと思われる。

本日は出雲から羽田経由町田に遣って来た。明日は町田市立博物館で開催の「黄金の地&南海夢想ー東南アジア陶磁の名品ー」展を展観というか見学予定である。

 

                          <了>

 


萩市須佐歴史民俗資料館・#1

2017-08-28 07:35:31 | 博物館・山口県

昨8月27日、所用にて県西部へ行った。所要が終了したのは中途半端な時間で、持て遊ぶと云えば語弊があるが、時間がそれなりにあったので、そこから27kmの萩市須佐町の萩市須佐歴史民俗資料館へ行ってみた。そこは本館の「みこと館」と別館の「益田館」で構成されていた。「みこと館」から紹介するが、そこは写真撮影禁止で「益田館」は、撮影okという奇妙な取り合わせであった。従って「みこと館」の展示内容は、パンフレットでしか紹介できないが、2葉のみ、公式ブログより借用した。

パンフレットでは、良くわからない。当該ブロガーの興味にそって展示内容を紹介する。当該歴史民俗資料館が建つのは、毛利家永代家老益田家敷地である。この益田家で個人的に興味があるのは、20代元祥(もとよし)と幕末の33代親施(ちかのぶ)である。

益田家は藤原鎌足17代を始祖とし、益田(島根県)七尾城の城主であったが、戦国時代に至り益田家20代元祥(もとよし)は、毛利に加担することにした。慶長5年(1600)関ケ原の戦いに敗れた毛利輝元は、中国8ケ国から防長2ケ国に移封された。家康から元祥(もとよし)に対し旧領安堵し、大名に取り立てるとの誘いを断り、毛利氏に従って須佐に移り、近隣7ケ村1万2千石の領主となった。益田家は毛利一門八家に数えられ、萩藩の藩政に重きをなすことになる。元祥は毛利藩の筆頭家老として、萩城の築城や財政の安定等、藩の建て直しに力を尽くし、それ以来、益田家は毛利藩の家老を代々勤めた。

 

中央は毛利元就肖像画、右端に途切れて写っているのが元祥(もとよし)の騎乗像である。


幕末最後の家老33代親施(ちかのぶ)は、京都禁門の変(蛤御門の役)の後、第1次長州征伐が起きて、その責任が毛利藩主に及ぼうとしたので、その責任を負って元治元年(1864)11月12日、徳山の惣持院で切腹し、悲劇的な最期をとげることとなった。高杉晋作は例外的に上級武士であるが、明治の元勲はおしなべて下級武士の出自である。それらの元勲にはスポットがあたるが、親施(ちかのぶ)のような上級武士の存在なしには、幕末・維新は語れない。薩摩では上級武士の犠牲者はいないであろう。長州は耐えに耐えよくやった。”あっぱれ”。

                            <続く>
 


気になるT×I×W×××さん

2017-08-27 06:37:22 | 日記

どうでも良いが、T×I×W×××さんのネット・オークションの入札状況が気になる。多分、我楽苦多の山を築いておられるのでは・・・と、気になっている。本日締め切りで残り17時間の時点で、◎ー52カンボジア・クメール黒褐釉双鳥形壺12~13世紀を55,620円で入札。知人のK氏はクメール専門なので、瞬時に真贋判定できるが、当該ブロガーはど素人なので真贋判定は難しい。55,000円も投じるのなら、信頼のおけるアンティーク商から直接購入されることをお薦めする。

◎ー51安南染付蜻蛉文碗16~17世紀、入札額22,680円・・・、誰が観ても今出来のように思いますよ。

これの、どこに16~17世紀の時代感を感じますか?  あと数点出品されているが、それらについては記載省略。T×I×W×××さんは、まだ当該ブログの存在をご存知ないようで、誠に残念である。今後も同様なことが繰り返されそうなので、なんとか覚醒して欲しいのだが・・・。今回をもって、当件に関する事柄は完全に黙秘する。記している小生も精神衛生上良くないので・・・。

 


沖縄県立博物館・#1

2017-08-26 06:59:28 | 博物館・沖縄県

従来の沖縄県立博物館は、龍譚池の畔に存在していた。これも沖縄振興予算・年3000億円の賜物であろうか、那覇市おもろまちを新都心と呼ぶそうだがそこに移転していた。なるほど高層ビルが並んでいる。その一角に新しい県立博物館は建っていた。

那覇空港で”ゆいレール”と呼ぶモノレールの1日乗車券をゲット。そのモノレールでおもろまち駅にて下車。

おもろまちの駅から県立博物館まで徒歩20分を要したであろうか、途中で写真の火焔樹の花を見た。これから行くタイで見る花樹である。タイへの想いを馳せる瞬間であった。博物館は美術館との併設ではあるが、建物はグスクを連想させる大きな建物である。

今回は立派な博物館を紹介した。ここも写真撮影okだったので、展示物は次回以降紹介する。

                         <続く>