世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

シリーズ⑨:サンカローク陶器博物館:その2

2016-10-31 08:41:22 | 博物館・タイ
<続き>

スコータイ近在から出土したクメール陶磁(ブリラム陶)が、博物館入り口付近に展示されていたので、先ずそれから紹介する。
写真にある灰釉と黒褐釉陶磁6点がそれである。6点いずれもクメール陶の特徴をもったものである。
(黒褐釉櫛歯波状文燈明)
旧東南アジア陶磁館(現・富山市佐藤記念美術館)所蔵の敢木丁コレクションに、同類の燈明がある。それは胴裾の部分に波状文をみるが、当該燈明は胴すべてに波状文が施され、実に手が込んでおり、器形の大きさもあり堂々としている。
(黒褐釉象形壺)
象の頭部に載る人物の頭部は、残念ながら欠け落ちているが、これも堂々とした姿形である。中にはどのようなものを保存したのであろうか?酒瓶であっただろうと勝手に想像している。
(黒褐釉人面合掌瓶)
釉薬がところどころ剥落ち、痛たましい姿である。顔は特徴的で目が吊り上がり、何か怒っているように見える。
(黒褐釉把持付刻線文平形水注)
このような器形は平壺が多く、クメール陶としてポピュラーであるが、当該水注は、それに取っ手と注ぎ口を付け足している。
(黄(灰)釉刻線文兎形壺)
鉄彩で兎の眼が表現されている愛らしい壺である。耳は誇張され尻尾は巻いて胴についている。灰釉の発色が美しい。
別のケースにも、クメール陶が数点展示してあったので、以下それを紹介する。つぎの陶磁は何であろうか?初見である。
それは写真真ん中の器物で、灯火器であろうか?・・・素人には分からないが、手の込み行った装飾がなされている。
(黒褐釉鳥口把持付平形水注)
先に紹介した水注に似ている。この手の水注は、敢木丁コレクションに多くコレクションされている。
以下、感慨である。やはり現地に行かなければ分らないことである。スコータイやシーサッチャナーライからクメール陶が出土していたという事実である。シーサッチャナーライ窯の最下層から、所謂モン(Mon)陶が出土する。このモン陶には、クメール陶に極似した黒褐釉陶磁が存在する。クメール族かモン族の仕業であろうか?・・・興味は尽きない。

次回からスコータイ、シーサッチャナーライ陶磁を紹介したい。




                                  <続く>


シリーズ⑨:サンカローク陶器博物館:その1

2016-10-30 10:04:33 | 博物館・タイ
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スコータイ・ムアン・マイ(スコータイ新市街)にサンカローク陶器博物館がある。今回の訪タイ目的の一つである。

入館料は100Bで、日本語パンフレットは冊子二つで100B。白色表紙が1階部分の説明資料、黄色表紙が2階部分の説明資料である。




スコータイ陶磁、シーサッチャナーライ陶磁には魚文、なかでも北タイと異なり、単魚文の絵付けが多い。ラームカムヘーン王碑文には、次の有名な文言が刻まれている。それは、ในน้ำมีปลาในนามีข้าว(ナイ・ナーム・ミー・プラー、ナイ・ナー・ミー・カーオ:川の中には魚あり、田圃の中には稲があり)との文言である。数多い種類と沢山の魚が泳ぎ、住民の食材になっていたと思われる。
入口の目立つ処に、スコータイのトゥリアン窯と云われている家屋の鉄絵盤が、展示されている。
キャップションによると、スコータイ時代のタイ人家屋とあるが、タイ族かモン族か・・・見分ける方法があるのであろうか?タイ族も高床式住居であるので、可能性は否定できないが、素人の考察領域を超えており、キャップションとおりタイ族住居としておく。
当該博物館は、展示品豊富かつ優品が多い。一度や二度で紹介できないので、数次にわけて紹介したいと考えている。




                                   <続く>


シリーズ⑧:タ・パ・カオハイ窯址

2016-10-29 08:19:29 | 窯址・タイ
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これから訪問してみようと思われる後学の方々のために、所在地から紹介したい。ピサヌロークの北部郊外に位置している。
赤丸と朱記したタイ字が、ワット・タ・パ・カオハイとタ・パ・カオハイ窯址をしめしている。先ずワット・タ・パ・カオハイと、行先をタクシーに示して向かうことになる。
寺院入口の山門である。この山門を潜り境内を横断すると、ナーン川沿いの土手道に至る。
寺院と窯址の位置関係については、上のグーグルアースに示した。寺院の境内を奥に進むとナーン川沿いの土手道にでる。そこを北に20m程度であろうか、窯址の覆屋が見える。そこが窯址である。



窯体に比して煙道が大きい窯で、全長は目分量で8m程度の楕円形をしている、横焔式単室窯で地上式の煉瓦構築である。窯の中に土砂が流れ込み、障焔壁の高さが、どれほどか?・・・現認できなかったのが残念である。
写真では見にくいが、矢印が雨季末期の増水したナーン河畔である。従って川土手を降りて、陶片を探す芸当はできない。そこで仕方なく土手を探索するが、期待した陶片に出会わない。なんとか2点収集した。
右が灰釉か黒褐釉が掛かった、瓶か壺の陶片で左は無釉陶片である。これでは当該タ・パ・カオハイ窯で、どのような焼物が焼成されていたかは分らない。
幸いであろうか寺院の境内の一角に、線香や蝋燭、蓮花などを販売する売店があり、そこのショウケースに数点の陶磁器が展示されていた。そこのおばちゃんに聞くと、窯址の周辺から出土したとのことだが、出自が記録されていない為、今一つとの感は拭えないが、まさか遠隔地から持ち込んだとは思えず、タ・パ・カオハイ窯の焼成品であろうと思われる。

焼締めと灰釉陶磁であった。鉄絵の鉢はスコータイか当該タ・パ・カオハイ窯か不明である。先のチンナラート国立博物館は、地元のタ・パ・カオハイ窯の焼成品を展示する、なかば義務があると考えるが、そのような展示はなく、結局どのような陶磁を焼成していたのかとの確証を、何も得ることができなかった。
境内の一角にラーフー神像を見た。上の像がそれである。どうもタイ全土にあるようだ。

                                <続く>


シリーズ⑦:ワット・ヤイ&チンナラート国立博物館

2016-10-28 08:26:52 | 博物館・タイ
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ピサヌロークで寺院と云えばワット・ヤイ、先月の9月28日に参拝した。14世紀の1357年に建立された寺院と云う。時はアユタヤ時代後期に該当する。ここの仏塔はプラーンと呼ぶクメール様式で、高さは36mとのことである。
(プラーンの上部は金色のタイルが貼られている。14世紀の中世キンキラキンであったのであろうか?)
本堂内に安置されている本尊は、14世紀の創建時に奉納され、チンナラート仏と呼ばれており、高さ3.5mでタイで最も美しいと云われているが、どうであろうか?
博物館見学の前に境内を一周した。ラテライトの柱が残っているので、中世の建立時に何かの堂塔があったであろう処に、仏立像があるがペンキで彩られ、違和感満載である。タイ人のこの感覚は不思議の一つである。
上写真の後方のプラーン。種々の像が刻まれている。中央はガルーダであろうか?
タイ中部のピサノルークで、クメールの影響を受けたプラーンを見たが、中世のこの地はアンコール(クメール)の影響下にあったことになる。

チンナラート国立博物館は、ワット・ヤイの境内に佇んでいたが、南国の太陽に照らされまぶしいかぎりである。

館内には仏像が鎮座している。ここは御堂なのか博物館なのか・・・ケースに種々展示品が並べられているので博物館であろう。
キャップションによると、シンブリーのワット・プラプラーン窯の16-18世紀、無釉焼締め両耳壺とある。
キャップションによるとサワンカローク陶でスコータイと表示されている。中味をみると、スコータイと共にシーサッチャナーライ陶磁も展示してある。象使いが騎乗する象の大型肖形は、シーサッチャナーライ陶磁で立派なものであるが、展示数が限られており、やや期待外れであった。
博物館を出ると正面に新しい建物が建っている。聞くと新しい博物館で、そこに移転するとのことであった。移転のあかつきには、新しい展示物も追加され拡充した博物館になるであろう?。




                                   <続く>


シリーズ⑥:タノンブトラ・スクール付属博物館

2016-10-27 09:54:25 | 博物館・タイ

<再開>
一時中断していたが、ブリラム・中北部:遺跡・窯址・博物館紀行シリーズを再開する。再開一回目は、先月の9月27日に訪れた、タノンブトラ・スクール付属博物館である。ニックネームのペック氏に直々に案内してもらったが、当日は中国陶磁特集とのことでタイ陶磁は極少なく、多少なりともガッカリした。
多くの中国陶磁および、その陶片が展示されていたが、中国陶磁に興味のない当該ブロガーにとっては、関心があるもののみカメラに収めた。その一部を紹介したい。尚、展示されている陶磁の多くが、アユタヤの河揚りとの説明であった。
キャップシュンには14世紀・福建省とあるが、所謂同安窯系青磁の流れを汲んでいるのであろう。見込みの釉剥ぎは安南陶磁に影響を与えたであろう。その末端をパヤオ陶磁にもみることができる。
そして見込みの釉剥ぎとともに、その中央に印花文を見ることができる。これらの源流はもっと北の景徳鎮・龍泉等々にあろうが、それらの技法を継承し、南へ伝えたであろうと、勝手に想像した次第である。
御存知の元染の陶片で見込みは瓜、カべットは檜扇(ひおうぎ)文で、元染ではよくみる文様である。
キャップションによれば、14-15世紀の龍泉窯とある。中央の小さな盤は、カベットに鎬をもち見込み中央には花卉の劃花文をもつ。これなどはシーサッチャナーライの青磁盤を思わせる。
14-15世紀の江西省贛州(かんしゅう)の七里鎮窯の褐色釉陶磁とのこと。左の胴が無釉で貼花というより、劃花で手の込んだ文様をもつ瓶、更には同様な技法の装飾をもつ中央の盒子。初見である。う~ん中国陶磁も奥が深い。
15世紀、景徳鎮の麒麟文をもつ染付盤である。この手の盤はタイでも北から南まで、多く輸入されたようで、各地で出土している。
時代はやや下り16世紀の景徳鎮藍釉碗である。それなりの発色をしている。以下、明代の染付盤と呉須赤絵の盤を掲げておく。


最後にラオス帰りの謎の壺と、メモ忘れたがシンブリーないしはメナム・ノイの壺を掲載しておく。
ペック氏は当該壺はラオ産と云っていたが、陶片がラオスの窯址より出土しておらず、北タイ産と考えている。しかし、北タイのどこであるか絞り切れていないものの、これについてはサンカンペーンと考えている。但し、断言できるほどの確証はない。
シンブリーないしはメナム・ノイの広口壺で胴中央より下は無釉である。尚、タイ陶磁の特集展示は年明けからとのことであった。行ってみる機会が作れるのか?

                                 <続く>