世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

今朝の朝焼け

2022-07-31 08:20:20 | 日記

今朝目を覚ますと、やや規模の大きい朝焼けである。雨でも降る前兆であろうか?

連日35℃以上の猛暑が続いている。いい加減に雨が降って欲しいのだが、予報では降りそうもない。今日も一日暑い日になりそうだ。

<了>

 


京・祇園前祭りの後

2022-07-29 08:31:30 | 京都

祇園祭は八坂神社の祭り、7月1日から1ヶ月かけて行われる。京都三大祭りのひとつ。平安初期、京都に蔓延した疫病を鎮めるため、卜部日良麿が当時の国の数である66本の矛と神輿3基により牛頭天王を祀って御霊会を行ったのがその起源といわれる。970年から毎年行われ、途中の中断もあるが現在まで続いている。

京都の滞在は7月18-20日の3日間。ちょうど前祭り(さきまつり)の後で、多少なりとも余韻を残していた。

三条通りは通行止めで鉾がたっている。四条通りの御旅所は伝承とおり3基の神輿が鎮座している。

前祭りの期間中に京都へとも思ったが、疫病封じの御霊会でコロナ感染すれば洒落にもならない。と云うことで来年はなんとかコロナ終息して欲しいのだが。

<了>

 

 


浄化されたチェンマイのメーカー運河

2022-07-28 08:34:56 | チェンマイ

過日、Chiangmai Newsを見ていると、チェンマイも豊かになり市街地の整備が進んでいる様子がわかる。特に道路網の整備は進展し、片側3車線・4車線は当たり前になり、交差点は立体交差化が進んでいる。今回のニュースは運河の浄化が進み、合わせて草花を植栽するなどして美化が進んでいると云う。

チェンマイニュースは、市街地南側のメーカー運河ラカーン橋の写真を掲載していた。その下の写真は、グーグル・ストリートビューからのラカーン橋である。ストリートビューは期待通り?ドブ川のままである。少なくとも5-6年以上前のメーカー運河を御存知の方は、ドブ川で悪臭が絶えなかったことを御存知であろう。それが写真のように見違える姿に変貌している。

以下、チェンマイニュースの要約である。”チェンマイ市のピン川の西で旧市街との間を流れるメーカー運河。市は浄化と美化の整備事業をすすめ、今般第1期整備事業が終了した。2023年度にはカレー橋から北へ約100メートル、ガッドゲートから南へ約300メートルのゾウクロール墓地まで、第2期整備事業が進められる。チェンマイ市は、メーカー運河の景観を合計4キロメートルにわたって再形成し、環境にやさしく、フィットネスやレクリエーションのエリアとして一般の人々が使用できるようにすることを目指していると云う。”

写真をみるとホンマかいなと思える。過去はドブ川であったが、下水道が整備され変われば変わるものだ。北タイも豊かになり、美化事業に財政投資ができるようになったのは、喜ばしいかぎりである・・・と云うことで、チェンマイ市民にとっては嬉しいニュースであろう。

<了>

 


装飾古墳は語る(3)・王塚古墳

2022-07-27 08:43:08 | 装飾古墳

不定期連載シリーズの3回目は、王塚古墳について掲載する。日本で装飾古墳と云えば、王塚古墳の文言が出るほど著名であり、色彩は6色で日本最多である。

<壁画系装飾古墳>王塚古墳 福岡県桂川町 6世紀中頃

王塚古墳については、語ることは山ほどあるが、先ず所在地から紹介する。

全長約86m、後円部径約56m、後円部高約9.5m、前方部幅約60m、墳丘は二段築成で黒色と赭土色(あかつちいろ)の粘質土を交互に積み上げ版築状に造り上げている。斜面には円礫の葺石が葺かれていて、円形埴輪も確認されている。二重の周濠が巡らされている。

出土品は鞍、輪鐙、杏葉などの馬具類、銅鏡、管玉、棗玉、切子玉、小玉、耳環、銀鈴、鉄製大刀、鉾、刀子、鏃、挂甲の小札、土師器、須恵器など。

(以下、掲載の写真の品々はレプリカで、実物は京都国立博物館の蔵品となっている。)

(これらの馬具は金銅製で、当時は煌びやかに輝いていたであろう品々である。騎馬民族やその末裔につながるのであろうか。下の青銅鏡は変形神獣鏡である。)

壁画は赤・黄色・緑・黒・白・灰の彩色(因みに6色は王塚古墳のみ)で、騎馬像、同心円文、三角文、双脚輪状文、蕨手文、靫、大刀、盾が描かれている。

(玄室には被葬者の枕も形成されていた。手前が妃なのか、首長なのか、知る由もないが(考古学的には解明済?)2体埋葬されていたことがわかる。そこには鋸歯文や蕨手文で装飾されていた。)

(天井には、多くの星が描かれている。黄泉の世界とも受け取れるが、それは黄泉の地下世界ではなく、常世と考えたほうがよさそうだ。)

以下、王塚古墳に関する文様の解説や、種々の見解を箇条書きで示す。

  • 馬や武人、双脚輪状文、朱色に塗られた玄室の天井には白い星が描かれ、その下には赤や緑や黒の鋸歯文が幾重にも並ぶ。遺体の床には二人分の枕の窪みがある。それを守るように奥や左右に盾や靫が整列している。
  • 小さな人が馬に乗っている。実際の大小の比率とかかわりなく描かれている。
  • 前室から奥室に入る両側に馬の絵が描かれている。被葬者の来世への乗り物であろうか? 右側には赤と黒、左側に黒・赤・黒と五匹の馬である。いずれも小さく描かれた人物が乗っている。馬の背後には蕨手文と双脚輪状文が描かれている。奥室はすべて魔除けの文様で埋め尽くされている。それに対して前室の奥壁の馬は、魔除けでは説明できない。
  • 部屋の上半部は、ベンガラで赤く塗られ、そこに黄色粘土で小さい円文が多数配されている。その小さい円文は星を示しているであろう。つまり小宇宙とも云うべき夜の世界であろう(これについては先ほど常世であろうと、当該ブロガーの見解を記した)
  • 連続三角文(鋸歯文)とともに靫(ゆぎ)や盾、さらには大刀や弓も描かれている。このような武器・武具は被葬者を護るためのものである。前期終りころの古墳では、盾や靫の形象埴輪が被葬者を護るように、古墳の墳頂部に並べられているのと同様な意味を持っている。
  • 3番目の見解に関連して、描かれている馬は魔除けでは説明できない・・・とある。竹原古墳の馬(馬か天馬か、はたまた龍か?)のような存在でもなさそうだ。王塚古墳の馬だけでは意味不詳である。熊本県山鹿市の弁慶ケ穴古墳の壁画を見ると船の絵が描かれている。上の船は柩でそこには鳥がとまっている。その下の船は馬が乗っているものと思われる。船が被葬者を来世に送るものとすれば、馬もまた来世への乗物との理解が可能であろう・・・とすれば、王塚古墳の馬の絵も、被葬の魂を他界に運ぶ役割を果たすものであったかと思われる。
  • 梅原末治氏、小林行雄氏による京都大学・学術調査報告書によると、埴輪が出土したと記されているが、王塚装飾古墳館にその展示をみることはできなかった。合わせて鉄地金銅張剣菱形杏葉、鉄地金銅張環状鏡板、鉄地金銅張f字形轡(くつわ)鏡板や金銅製鞍金具などの馬具が出土している。これだけの馬具を副葬できるのは、筑紫でも最上位かと思われる首長であったと思わせる。
  • 玄室(奥室)の東北壁面の一枚石の巨石に、上下三段に盾を数十描いている。その反対側の西南壁面にも巨石を据えて石室を構築しているが、そこには黒と赤で色分けした靫が描かれている。東北の壁面には盾、西南の壁面には靫という武具を全面に描き連ねる空間に、三角文や刀の文様もある。これらの武具・武器は、埋葬された人の霊魂を護る意識が強かったためと思われる。

いずれにしても、副葬品に馬具・武具・武器を見ることができ、被葬者は半島南部の百済・新羅からの渡来人ないしはその末裔、あるいは、それに繋がる人物と考えられ、彼の地における葬送観念との繫がりを調査・研究する必要があろう。

<不定期連載にて次回へ続く>


鳥取・岡益の石堂(おかますのいしんどう)

2022-07-26 08:21:13 | 因伯二州

古代の鳥取は面白そうだ。

過日、京都から鳥取経由にて帰宅。鳥取市国府町岡益に謎の石造物があるという。そこは絵画系装飾古墳である梶山古墳から至近距離である。梶山古墳を見たついでに訪れてみたが、アプローチには閉口した。そこは、階段が200段以上で丘の上である。別に眺望がよいわけでもなく、石造物が存在するだけである。よほど物好きでなければ・・・と、思った次第である。

岡益の石堂(いしんどう・いしどう)は、別名安徳天皇宇部野陵墓参考地で囲いがあり、内部に立ち入ることはできない。そこで垣根越に写したのが、下掲の写真である。

写真の石柱がエンタシスであると云うが、素人目にはハッキリ分からない。以下、Wikipediaに掲載されていた、岡益の石堂解説である。

岡益の石堂は、鳥取市国府町岡益にある石塔。建築者・建築年代・建築目的とも不明のため、地元では「謎の石堂(いしんどう)」とも呼ばれる。

宮内庁により「宇倍野陵墓参考地」(被葬候補者:第81代安徳天皇)として陵墓参考地に治定されている。

岡益の石堂は岡益集落にある長通寺という寺の背後の小高い丘にある。古墳の切石のような巨石を用いた巨大な石塔で、山陰地方最古の建造物と考えられている。石堂は一辺6.6m、高さ1mの基壇の上に、厚さ40cmの一枚岩でできた壁石6枚で側面を囲んでいる。さらに中央に高さ2m近くの心柱を立て、その上に四角形の中台石を載せ、さらに塔の笠石を重ねている。基壇や壁石は凝灰岩の精巧な切石である。

心柱はふくらみをもったエンタシスであり、中台石の裏側には忍冬渦巻蓮弁放射文(にんどううずまきれんべんほうしゃもん:いわゆるパルメット文)が刻まれている。このような石造物は日本には例がないが、日本最古の木造建築物である法隆寺の柱が、このエンタシスによって作られていることが知られている。さらに法隆寺の壁画にも、忍冬渦巻蓮弁放射文様が描かれている。外国では、北朝鮮の双楹塚(そうえいづか)古墳が、石堂とまったく同じ形態で作られており、中国大同の石穹(せききゅう)内にも同形の文様が刻まれている。さらに古代ギリシアの神殿がエンタシスの柱で建築され、忍冬渦巻蓮華放射文様が描かれている。新羅・百済の古石塔の影響やギリシアの文化の影響まで偲ばせる謎の石塔である。

石堂の周辺は白鳳期の岡益廃寺の跡といわれ、明治の頃までは古代寺院の礎石や瓦が散乱していたという。石堂と廃寺は同一地域にあるため、「何らかの関連があることは間違いなく、石堂と廃寺が同一の時代に存在したとすれば、一体となって信仰の場を作りだしていた」とする見方もある。

岡益廃寺および石堂の崇拝の主体は武内宿禰とも、この地の豪族・伊福部(いおきべ)氏の祖先とも言われるが詳細は不明。岡益廃寺は9世紀には廃絶したと考えられている。 その後、室町時代になって薬師如来を安置した寺として再興されたとする説がある。

安徳天皇陵墓参考地に指定されてからは、陵墓としての威厳を表すために基壇の周囲が掘り下げられ、古代の面影は失われてしまった。礎石の一部は周辺の雑木林の中に残り、出土した瓦は長通寺に保存されている・・・以上のようにWikipediaは記載している。

古来、当地(岡益)は新羅・伽耶系と繫がりがありそうである。『和名抄(わみょうしょう)』によると、因幡国法美郡(後の岩美郡)の一番目に「大草於保加也(おおくさおおかや)郷」が記されている。これは「大伽耶」に他ならず、続いて罵城・度岐・度木(いずれもどき)郷とある。“度木(どき)”とは渡り来るとの意味で、半島渡来と受け取られる。今回、時間の関係で参拝しなかったが、当地(岡益)の太田神社には大多羅大明神を祀るという。要約すれば、当地は新羅・伽耶系渡来人の集住地であった。そこに、岡益の石堂が存在するのである。この石堂についてWikipediaは、北朝鮮の双楹塚(そうえいづか)古墳と同じ形態と記しているが、森浩一氏は、横穴式石室で高句麗古墳の係累である可能性を指摘しておられる・・・とすれば、被葬者と考えられている当地の豪族・伊福部氏(いおきべうじ・いふくべうじ)は渡来系の氏族の可能性が高いと考えられる。岡益の石堂では心柱のエンタシス、忍冬文やレンゲ文、側壁のS字文を見るが、これらは仏教文化につながるものである。文化は大和から地方へ拡散したであろうが、必ずしも大和からばかりではなかったのである。

<了>