世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

ธง(トゥン:旗・幟)とは何ぞや

2022-03-03 09:18:51 | 北タイの風土・慣習

どうでも良いことが気になる。訪問頂いた各位にも、どうでも良いことのように思われ誠に恐縮である。

日本で幟状の旗指物をタイではトゥン(ธง)と呼ぶ。今回はこのトゥンが何物か、種々調べてみた。しかしながらおぼろげには分かったものの、確かな学術論文に辿り着けない。多分タイ語の論文は存在するとは思うものの、それに辿り着いてもタイ語の羅列ではどうにもならない。トゥンとは幟ではあるが、それが何の目的や役割で存在するのか、朧気で明確ではない。ご存知の方がいらっしゃるなら、是非ご教示願いたいものである。

日本の幟も何なのか? 鎮守の神様の春祭りや秋祭りの幟は何なのか? 単に祭りがありますよ・・・との印なのか?・・・これには、深い理由がありそうだ。先ず、トゥンについて、現在までにおぼろげながら分かっていることを記してみたい。

以下は、ローイクラトン(ローイカトン)前のガティン祭り(収穫儀礼祭)のトゥンが下の写真である。

トゥンには、ムカデの絵が描かれている。これは、これで意味があるのだが、今回のテーマと関係ないので、ここでは触れずにおく。他にワニが描かれたトゥンなども存在する。このムカデのトゥンは布地の前がありそうだ。

岩田慶治氏は、昭和40-50年代に北タイやラオス、カンボジアで少数民族の民俗調査をされていた。その時の記録が残っている。タイ族の収穫儀礼の場面である。そこの挿絵をスケッチしたので掲げておく。

収穫を終えた田んぼの一画にケーン・ピーを立てて、稲の精霊に感謝する儀礼を行っていたという。竹の枌(へぎ)で編んだものが、布製のトゥン登場以前のトゥンと呼ぶべきものであろう。これが今日のチェンマイのガティン祭りに繋がっている。

チェンマイで一般的にみるトゥンは、タイ正月(ソンクラーン)の時に寺院で見る機会が多い。砂を用いて作る須弥山を意味する、砂の段や砂の山に刺した紙製のトゥンである。

(写真の須弥山にトゥンはソンクラーンではなく、ターぺー門での儀式の際のもの)

あるいは、祭礼の際のトゥンである。下の写真は、サオ・インターキン(チェンマイ市街の安泰を祈念する祭礼)の時のものである。

見てもわかるように、幟には寺院とか仏塔が織り込まれているが、今回のテーマは、上述のようなトゥンを紹介するブログではなく、トゥンとは何ぞや・・・これが主題である。

紹介したように、祭礼・儀礼に用いられるトゥン。特に寺院に掲げられるトゥンは、干支が描かれている。それには、『先祖供養』の意味合いが込められ、まだ昇天できない迷い霊を改めて空へ送るという役割があると云う。

また、死者を弔ったり、寺院の祭礼の時に掲げられる寺、仏塔、木(菩提樹か?)、供花、ナーガ、象、馬、などの動物、人が載った船などの模様が描かれるとのことである・・・これについて、寺院や仏塔、干支の動物や象、ナーガなどは見た経験があるが、鳥や人が載った船は、当該ブロガーが実見しておらず、真偽のほどがハッキリしないが、実際にこれらを見た人の記述である①。

・・・以上である。北タイでみるトゥンには、おぼろげながら上述の役割がありそうである。引き続き学術的な見解を調べてみたい。・・・では、日本の旗や幟にはどのような意味があるのか。別途検討してみたい。

  関連blog:北タイ陶磁の魚文様(前編)

  参照①ラオス祈りの織物(ココ参照)

<了>


北タイ・パヤオのブンナーク遺跡

2022-02-11 07:34:00 | 北タイの風土・慣習

タイ芸術局第7支所の発掘情報である。

”Wiang Nam Tao (パヤオ・ピタヤコム学校)北へ約1200メートル、ワット・パーデーン・ルアンドンチャイ・ブンナークという70ライ以上の土地を持つ寺院があります。元来、同じ地域に2つの寺院がありました。この地域はブンナーク寺院に統合され、1974年に寺院が改修されました。現在の寺院地域には、まだ発掘されていない最大25の古代関連のモニュメントがあります。

ワット・パーデーン・ブンナークは現在、元の基礎の上に新しい寺院とチェディーが建てられており、寺院の軸は東西に並んでいます。古代のブンナーク寺院は南側に200メートル離れたところにあり、寺院の軸は南北線に沿って配置されていました。ワット・ブンナークで重要なのは、3層構造であるスコータイスタイルのベル型のチェディーです(ただし、修理されています)。1917年8月29日、チェデイーは盗掘され合金の仏像が持ち去られたが、犯人は逮捕されました。仏像は1926年、ルアンポルナクと呼ばれる博物館に寄贈されました。仏像の台座に碑文があります。それによるとティローカラート王の晩年の治世中の西暦1398年にこの仏像が鋳造されたと記されています(これは年代が合わない、チェンマイ年代記ではティロ―カラート王の在位は、1442-1487年となっている)。

ティローカラート王がパヤオを支配するようになった時は、スコータイとアユタヤの作風が影響しています。チェディと寺院の発掘調査は1988年に行われ、1989年に修復されました。

チェディの南側、約30メートル離れたところに、大きな塚があります。そこからは、ワット・プラヤルアンのプラマハセラティカプラヤというメッセージが書かれた碑文が出土しました。仏暦 2099年に、プラヤ・ルアンが奉献したものです。このブンナーク寺院はプラヤユディシュティラによって建てられた寺院であったことは確かであるが、当該寺院は、一般的にワット・プラヤルアンとして知られています。また、96cmの高さの大きな石鉢(壺)が発見されました。これは、Phiphat Sattaya(バラモン神)のために聖水を入れる場所であると考えられています。これまで古代の遺跡でそのような遺物を見たことがありません。精舎(ワット・ブンナーク)は、おそらく西暦前2世紀頃に建てられました。

2005年、タイ芸術局第7支所(当時在ナーン)は、発掘調査を実施しました。この古代遺跡発掘調査から幅約17メートル、長さ35メートルの長方形の建物を見つけました。この建物は丘の斜面に沿って配置されていました。聖域の土台は丘の斜面に沿ったレンガ造りの段で、建物の正面と背面の床の高さの差は120 cmです。精舎の上の床は、石のスラブで覆われています。これは、この精舎のみで、現在見つかっている他の古代遺跡でみることはできません。建物の外観は壁のないホールの建物です。柱の根元は平均約55cmの丸い砂岩であることがわかりました。その後、レンガで円形の柱を形成しました。上部は粘土瓦を使用していた。これはスコータイとランナーで広く使用されていました。建物の前にゲージがあります。正面に続く3つの階段があり、真ん中の階段にはレンガで舗装された通路があり、寺院の壁の出入り口まで続いています。

出土した蓮の土台に沿った支えは、赤く塗られさまざまなパターンが金色で彩られており、それは漆によるものでした。レンガとモルタルの仏像。長さ約50 cmや170cmの手やお守りの一部が埋葬層で見つかりました。

発掘調査中に、さまざまなサイズの仏像が見つかりました。すべてが粉々になった状態です。パヤオ県産の砂岩から作られています。芸術的なスタイルから、この建物で見つかった仏像のほとんどが、スコータイアートの影響を受けて作られました。また、長さ130cmのセマの葉のような石のスラブを見つけました。小さな象の彫刻も出土しました。それは高さ70cmの砂岩でできていました。発掘調査の結果、壁と同様に西側の建物の柱に沿ってレンガが並べられ、柱の周りを囲んでいることがわかりました。ここは、建物の場所と外観から、寺院として使用されたと考えられています。このワット・ブンナークは寺院の主軸を南北の線に沿って整列させます。これは、東西線に沿って位置するパヤオの一般的な寺院とは異なります。スコータイでは、南は縁起の良い方向であるとされています。”・・・以上である。

仏頭などを見ていると、勝手な推測ながらランナー王朝前期の遺跡であろう。

<了>


仏暦19世紀以前のランパーン(ケーランナコン)

2022-02-10 08:43:46 | 北タイの風土・慣習

久々にタイ芸術局第7支所(在・チェンマイ)のSNS情報を今回と次回に紹介する。仏暦19世紀とは、西暦13世紀ー14世紀に相当する。その西暦13-14世紀以前、現在のランパーンはケーランナコンと呼ばれていた。

”ランパーン平野は、ワン川が流れる大きな平野です。先史時代から人間の居住地の痕跡があります。ランパーン県のコカ地区で、約160万年~180万年前の人の頭蓋骨の一部が発見されました。

ランパーン県のメーモー地区から3200~2900年前のプラトゥファー遺跡が発見され、タイで最大の先史時代の約1000種類の絵画が出現しました。さまざまな様式の絵画が発見され、それと同じ場所に、まだ無傷の埋葬地の遺跡が発見されました。以上のことから、ランパーン平野は人間の居住地に適していることがわかります。

(約3000年前の岸壁絵画:保護施設も何もない)

その後、ワン川沿いにケーランナコンの建設とともに、都市コミュニティ(都市社会)の集落が出現しました。ハリプンチャイ王国はランパーンを拠点の一つにしました。伝説に示されているように、チャマティーウイ女王の息子が統治するために、ランパーンのマチ(街)を建設しました。

ワン川の北側に位置する最初の時代のウィアン・ケーランナコン。街の中心にはワット・プラケーオドンタオスチャーダーラムがあります。土の堤防を囲む1層の堀があり、6つの門構をみます。

2007年にランパーン林業機構の職員が住んでいた地域の第1時代、ウィアン・ケーランナコンでの考古学的発掘調査から、甕(壺)の蓋など、ドヴァーラヴァティー文化の古代遺物の多くが発見されました。土鍋の残骸の年代は仏暦16〜17世紀頃でした。

(この動物肖形の土器の蓋が、上述の甕の蓋?・・・そうであろう。)

熱ルミネッセンス法(TL Dating)の時代値は760±130年前でした。仏暦19世紀の仏教時代、ランパーンはランナー王国の一部として併合されました。ランナー王国の57のクニの中で最も重要な都市の1つです”・・・以上である。

約3000年前の壁画と云えば国宝物、スリランカのシーギリヤ・ロックもそうだが、ここも自然のままで保護施設は無い。

(シーギリア・ロックに描かれているシーギリア・レディー:保護施設も何もない。しかし手で触る不心得者はいなかった。)

大丈夫か?とも思うが、これも土地柄であろう。高松塚の壁画、数十億円をかけて保護施設を作ったが、結局カビがはえて剝ぎ取らざるを得なくなった。文化庁のおそまつに比べれば、なにもしないタイ芸術局が理に適っているか?

<了>


ランプーン県・古代製鐵所跡の発掘と実験考古学

2021-12-21 07:53:23 | 北タイの風土・慣習

タイ芸術局第7支所(在・チェンマイ)は、SNS情報を頻繁に更新している。今回は最近の情報のなかから、ホンマかいなと思われる情報である。ホンマかいなと記載したが、疑問に思うものの考古学者の知見は北タイで2000年前の製鐵跡を発見し、実験考古学の立場から製鐵の再現実験をおこなったと云う。以下、第7支所記載の要旨である。

”2000年前の製鉄所の発見からコミュニティ参加による大規模な実験考古学をタイ芸術局第7支所(在・チェンマイ)が報告する。2019年第7支所は、コミュニティリーダーと協力して、ランプーン県のプレーンズ盆地のリー地区の古代鉄製錬所跡を発掘調査し、古代法にのっとり鉄の精錬と作刀をおこなった。

直径90〜100センチ、高さ約180センチの直円筒炉(シャフト炉)を用い、摂氏1150〜1300度の熱を利用した直接法(直接鉄製錬法)による鋼の製造を行った。構造から炉内でらせん状の空気を作り出すことができる。

鋼塊の取り出し後、鋼の品質をさらに向上させる。製錬で得られた鋼塊等級分けし、それを鍛造して鋼中の不純物を取り除き、鋼内の元素をより均一に分散させることによって。刀剣材料を入手した。

技術者は鋼塊から目的の形状を形成する前に、加熱と交互に鋼を鍛錬する。刀の形状に鍛造後、刻印技術者はノミを使って刀の名前を刻み、それが作られた年を刻んだ。その後、刀は磨かれ、研ぎ澄まされた。この刀は現在、ランプーン県のリー地区事務所で保存されている。”・・・以上である。

残念なことに製鐵原料は何であるのか記載されていない。砂鉄なのか鉄鉱石なのか?・・・肝心なことを記載して欲しいものだ。

それにしても2000年前とは本当か?・・・弥生時代に相当する。日本では製鐵が始まるかどうか微妙な時期に、北タイにシャフト炉が存在していたのか。存在していたのであれば相当なる先進文化で、北の方中国ではなく西方インド渡来文化の影響であろう。

発掘されたシャフト炉の写真が?フェイクとまでは云わないが、発掘後の手が入っているように見える。発掘そのままの写真を掲載して欲しい。日本の初期の製鐵炉は単なる坩堝炉にすぎない。倭の時代よりも進んだ製鐵技術であろう。

<了>

 


ウィアンクムカーム出土の景徳鎮磁器

2021-12-07 07:34:07 | 北タイの風土・慣習

〇ウィアンクムカーム出土の景徳鎮磁器

最近、タイ芸術局第7支所(在・チェンマイ)はSNS情報発信に熱心だ。どうも一時の気まぐれでもなさそうだ。今回と次回の2回連続で、最近の情報を紹介する。チェンマイ好き人間にとって、次回訪問時の話題が得られることは結構なことである。今回は、ウィアンクムカーム出土の景徳鎮陶磁に関する情報からである。

尚、ウィアンクムカームについては、以下のブログを参照願いたい。小生が説明するより、よっぽど分かりやすくガイドされている。

今のチェンマイ建都前の王都「ウィアンクムカーム」遺跡群完全ガイド (chiangmai-life.net)

ウィアンクムカームの過去を解明するのに役立つ最初の重要な証拠は、1954年の航空写真である。写真から、水路はウィアンクムカームの北を流れ、南東側を下って曲がっている。 ウィアンクムカームはピン川の氾濫により埋没したが、土壌堆積の深さはさまざまである。 1.5〜2.5メートルの深さでバラツキがある。

そこからは、写真の中国・青花磁器が出土している。いずれも景徳鎮陶磁で、染付の色合いや文様から元染めではなく、明青花磁器と思えるが、中国陶磁については節穴で、間違っておればゴメンナサイのレベルであることをお断りしておく。

メンライ王は、1296年(仏暦1839年)チェンマイに建都し、チェンマイ王朝がスタートするが、その2年前にウィアンクムカームに都を築いた。その発掘記事である。

その当時の中国は元王朝の時代である。従って出土する陶磁器は、元染めであっても何の違和感もないが、どういう訳か明青花磁器が出土しているようだ。

その理由は、1558年から始まるビルマ支配時代のピン川氾濫により、ウィアンクムカームが埋没するまで、住民が暮らしていた痕跡であろう。しかし当時の住民が明青花陶磁を購買できる暮らしをしていたかどうか、多分に疑問が残る。住民は中国磁器ではなく、北タイの陶器を用いていたと考えられ、これらの青花磁器はランナー王家の離宮ないしは行宮先がウィアンクムカームに存在していたと考えられる。

写真をみていると、壊れた磁器よりも完器が多く、いずれチェンマイ国立博物館に展示されるであろう。是非見てみたいものだ。

<了>