宿泊先のCOZY NESTを出発したのは、予め定めた朝8時より早めの7時40分であった。一路北上パーン市街を経由し、そこから10kmも走ったであろうか。
国道1号の両側に家並が見え、行く手には横断歩道橋が見えた。そこを右折すると、バン・チャンプーまで3kmの道路標識が掲げられていた。直進してその突き当りに在る、ワット・チャロエンムアンを左に曲がって、道なりに進むとバン・チャムーの集落である。当然ながらパーン・バンチャンプー古窯址など分からない、そこでバイクで通りかかった人に尋ねると、その窯址の地主を知っているとのことでTELして頂いた。
尋ねた場所から200m北上しその地主を尋ねると、既にバイクに乗って準備完了であった。地主のバイクを追走すると、小高い丘をのぼり寺院(ワット・パープッタ二ミット)に突き当たり、そこを左折して道なりに走ると、丘の下りになり田園の平地にでた。そこを尚400-500m北上すると、左手の田んぼにこんもりした林が見えた、そこが窯址であった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/10/1a26c306e14d8f5fa6522eaf64f3cecd.jpg)
そこを失礼し国道にでて、2-3km走ったであろうか?行く手左側に何とも奇天烈、キンキラキン極彩色の寺が見えてきた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/1d/5fb8d21b5860ac63b7e4d8bcb622cc33.jpg)
ワット・フェイサイカーオと呼ぶらしい。トイレ休憩を兼ねて立ち寄ることにした。
再び北上である。2-3kmも走ったであろうか?再び家並が見えてきた。徐行するとバン・ノーンパックジックの道路標識のところを左折し、パーン・ポンデーン古窯址である。1kmも進んだであろうか?住居前に人をみたので、場所を尋ねると要領を得ない。更に近くにいた人にも尋ねるが、知らないようである。行ってみたいが、2人以外に尋ねる人もいない、チェンマイ国博の前庭に移築復元されていることもあり、残念だがあきらめることにした。
いよいよ最後はバン・ノンパックジックの家並の手前にある、窯址群の探索である。国道1号左折地点より3kmも走ったであろうか、丘を下って平地に出た地点に小川が流れており、そこを右折したまではよかったが、そのどこに窯址があるというのだ?
運が良いのは重なるのか?たまたまバイクで通りかかった農夫に尋ねると、自分の所有地に在るので、ついて来いとのこと。追走すること1.5-2kmで小川が左へターンするところが目的地であった。何とラッキーなことであろう。
そこは、周囲が田んぼで、半径150m程のこんもりと木々が茂る林の中で、半分はラムヤイ(竜眼)の果樹が植わっている。
入るといきなり左手に高さが1.5m、長さが5-6mのこんもりした封土がある。そこが窯址のようで、陶片が散乱していたが、窯の概要は分からない。
そこから、150-200m進んで林の南端で田んぼとの境界付近に、比較的窯体が残る場所に案内された。そこはタイ芸術局が過去に発掘調査したようで、立て看板が残っていた。しかし、そこには窯名称はなく、案内して頂いた地主にもたずなるが、窯の名前は無いという。そこはサイカーオ地区なので、勝手にパーン・サイカーオ古窯址と命名した。残念ながらそこの窯址は、タイ芸術局の調査とともに陶片も全て回収されていた。
上の写真の木々の繁み一帯が窯址群であるが、下の写真以外は破壊されており、窯址と認識はできない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/d7/c075365fce221cf07e89be407ca22a4f.jpg)
煙突部らしき構築物と焼成室の基盤部分の煉瓦が残るが、焼成室幅が2mほどであったので、全長は5-6mと推測された。
帰途、ラムヤイ畑のなかは陶片の散乱物が無数に在る。当該ブロガーが物色をはじめると、地主も一緒に探してくれる。陶片6枚、焼成支柱1個を頂戴し、御礼を差し出し後にした。
今回の窯址訪問は幸運に恵まれた。モンオームでは人家から4km以上も離れ途方にくれたが、たまたま農夫を見かけ聞くと、地主だという。各所で地主に遭遇した。やはり日本語通訳に同行願ったことが、地主を探し出す一因と思われる。有意義な窯址紀行であった。
<予告>
次回から窯址訪問記と題し、詳細なレポートと共に、収集した陶片も紹介したいと考えている。乞うご期待。
国道1号の両側に家並が見え、行く手には横断歩道橋が見えた。そこを右折すると、バン・チャンプーまで3kmの道路標識が掲げられていた。直進してその突き当りに在る、ワット・チャロエンムアンを左に曲がって、道なりに進むとバン・チャムーの集落である。当然ながらパーン・バンチャンプー古窯址など分からない、そこでバイクで通りかかった人に尋ねると、その窯址の地主を知っているとのことでTELして頂いた。
尋ねた場所から200m北上しその地主を尋ねると、既にバイクに乗って準備完了であった。地主のバイクを追走すると、小高い丘をのぼり寺院(ワット・パープッタ二ミット)に突き当たり、そこを左折して道なりに走ると、丘の下りになり田園の平地にでた。そこを尚400-500m北上すると、左手の田んぼにこんもりした林が見えた、そこが窯址であった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/10/1a26c306e14d8f5fa6522eaf64f3cecd.jpg)
(写真の寺院を見たらそこを左折した) ![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/af/111017aafd9530a7f88e742290250c66.jpg)
写真のこんもりとした処が窯址で、右の人が案内して頂いた地主である。畦道を伝って現地に建つと、殆ど崩壊しているが、煉瓦の基礎部分と散乱する陶片から、窯址と認識することができた。了解のもと3-4点の陶片を採取した。当然のこととしてチップが必要である。それにしても村人の案内がなければ、到達できないうえにラッキーなことに地主に出会えたのである。![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/af/111017aafd9530a7f88e742290250c66.jpg)
そこを失礼し国道にでて、2-3km走ったであろうか?行く手左側に何とも奇天烈、キンキラキン極彩色の寺が見えてきた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/1d/5fb8d21b5860ac63b7e4d8bcb622cc33.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/c9/73253f8d1f58eb6cd1284bddd112aa3f.jpg)
再び北上である。2-3kmも走ったであろうか?再び家並が見えてきた。徐行するとバン・ノーンパックジックの道路標識のところを左折し、パーン・ポンデーン古窯址である。1kmも進んだであろうか?住居前に人をみたので、場所を尋ねると要領を得ない。更に近くにいた人にも尋ねるが、知らないようである。行ってみたいが、2人以外に尋ねる人もいない、チェンマイ国博の前庭に移築復元されていることもあり、残念だがあきらめることにした。
いよいよ最後はバン・ノンパックジックの家並の手前にある、窯址群の探索である。国道1号左折地点より3kmも走ったであろうか、丘を下って平地に出た地点に小川が流れており、そこを右折したまではよかったが、そのどこに窯址があるというのだ?
運が良いのは重なるのか?たまたまバイクで通りかかった農夫に尋ねると、自分の所有地に在るので、ついて来いとのこと。追走すること1.5-2kmで小川が左へターンするところが目的地であった。何とラッキーなことであろう。
そこは、周囲が田んぼで、半径150m程のこんもりと木々が茂る林の中で、半分はラムヤイ(竜眼)の果樹が植わっている。
入るといきなり左手に高さが1.5m、長さが5-6mのこんもりした封土がある。そこが窯址のようで、陶片が散乱していたが、窯の概要は分からない。
そこから、150-200m進んで林の南端で田んぼとの境界付近に、比較的窯体が残る場所に案内された。そこはタイ芸術局が過去に発掘調査したようで、立て看板が残っていた。しかし、そこには窯名称はなく、案内して頂いた地主にもたずなるが、窯の名前は無いという。そこはサイカーオ地区なので、勝手にパーン・サイカーオ古窯址と命名した。残念ながらそこの窯址は、タイ芸術局の調査とともに陶片も全て回収されていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/ce/401c22ea89ac297a1e0f1a4e996c31a0.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/d7/c075365fce221cf07e89be407ca22a4f.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/4a/902532e0bd5d5ff4101381f46a763381.jpg)
帰途、ラムヤイ畑のなかは陶片の散乱物が無数に在る。当該ブロガーが物色をはじめると、地主も一緒に探してくれる。陶片6枚、焼成支柱1個を頂戴し、御礼を差し出し後にした。
今回の窯址訪問は幸運に恵まれた。モンオームでは人家から4km以上も離れ途方にくれたが、たまたま農夫を見かけ聞くと、地主だという。各所で地主に遭遇した。やはり日本語通訳に同行願ったことが、地主を探し出す一因と思われる。有意義な窯址紀行であった。
<予告>
次回から窯址訪問記と題し、詳細なレポートと共に、収集した陶片も紹介したいと考えている。乞うご期待。