世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

古代関連博物館と驚いた展示物3種4点

2021-06-30 09:05:52 | 古代と中世

過日、所用にて京都へ、その往路を寄り道して古代関連博物館や資料館を訪れた。予定していたのは下掲したGoogle Earthにプロットした施設。実際は時間の関係で鳥取県埋蔵文化財センターと安満遺跡公園はパスした。

訪問した博物館で、意外にも驚きをもって観た3種4点の考古遺物ないしはそのレプリカがある。それを以下に紹介する。

堺市博物館展示の黄金(実際は金メッキ)に輝く金銅製甲冑である。仁徳天皇陵から出土したもので、まさか仁徳天皇が身に着けていたわけではなかろうが、相当身分の高い人物が着用していたものと思われる。実際の戦闘場面でこのような甲冑を着用しておれば、目立ちすぎて身に危険が及ぶ。従って儀礼の際に用いたものと思われるが、現在でもそうだが、権力とは恐ろしいものだ。

次の青谷上寺地遺跡出土の銅鐸の鰭である。何の変哲もなさそうだが、その文様に深い意味がある。まずご覧いただきたいとは云うもののコントラストがイマイチで、文様がご覧いただけるかどうか?

余程、眼を凝らして頂かないと分からないかもしれない。二重円圏に内接する4箇所を頂点に内側に弧を描く文様である。これを『七宝文』と呼ぶ。この4箇所の頂点が8箇所あって、同様に弧を描く文様をもつ銅鏡を内行花文鏡と呼んでいる。

この七宝文をもつ銅鐸の鰭に意味がある。銅鐸はご存知のように弥生後期に突然姿を消す。銅鐸を祭祀に用いないエイリアンが突然来襲したのか?・・・この手の話は置いておくとして、銅鐸の消滅は銅鐸工人の行方が気になる。

どこの遺跡から出土したか失念したが、この七宝文を主文様とした銅鏡が存在する。つまり職を失った銅鐸工人は、銅鏡製作工人に転職しいた可能性を示す銅鐸の鰭である。相当苦労したであろうとの察しがつく。銅鐸の文様は流水文や稚拙な人物や動物の線画である。ところが道鏡は中国的な複雑なモチーフが多い。いつの世も転職は苦労する。

3種目は京都大学総合博物館展示の家形埴輪である。家形埴輪と云えば、寄棟造り・入母屋造りが相場だ。しかし、三重県伊賀市・石山古墳(4世紀末)出土の家形埴輪は屋根が片流れ式である。このような屋根の埴輪は初見で、古墳時代に至り、種々の家屋が存在したであろうこがうかがわれ、必ずしも金太郎飴でなかったことが嬉しかった。

家形埴輪はバラエティーに富んでいる。別途紹介したい。

<了>

 


ヤリスの燃費・天井は?

2021-06-29 05:03:48 | 日記

田舎と京都を往復。当然ながら中国道を利用して写真の燃費となった。リセット間平均34km/Lである。尚、リセット間距離は4000km以上となっている。

100km走行して3Lでお釣りがくる。そろそろ天井が来ていると思うが、どこまで上昇することやら。

<了>


アルバム整理:ドイ・インターノン頂上のシャクナゲ

2021-06-28 05:11:50 | 日記

過日、アルバムの廃棄。整理中に見た写真でコレは、と思うものを何点かスキャナーで電子データ化した。その中の何点かがドイ・インターノン頂上の写真である。

チェンマイ・チェットトン朝第7代・インタウィチャヤーノン王(19世紀末ー20世紀初頭)の祠というか墓碑である。娘でラーマ5世王の妃であったダーラー・ラッサミー妃により建立された。妃は自ら遺骨を抱いて歩いて運んだと云われている。

主として1980年代に、タークやオムコイの山の頂や稜線の墓地から、多くの陶磁が盗掘された。この墓地を巡りそれなりの論争が続いている。どの民族の墓地なのかと・・・。ダーラー・ラッサミー妃の事例をみているとタイ族と思えなくもないが、やはりタイ族以外の民族であろう・・・ということで印象に残る墓碑である。

頂上には、何とシャクナゲが咲いていた。それは照葉樹であり、東亜半月弧の最南端であろう。照葉樹林帯文化は日本の文化と共通する。これも印象深かった。

頂上下にはラーマ9世(プミポン国王)とシリキット王妃の各60歳の誕生日を祈念した仏塔がそびえている。

当該ブロガーにとっては、印象深い写真である。尚、鮮明度が悪く見づらい点、お断り申し上げる。

<了>


陰陽道的古代出雲世界

2021-06-25 08:16:33 | 古代出雲

以下、数字の数合わせの如き話で信憑性については、疑問であることをお断りしておく。

漢代から三国時代にかけて、朝鮮半島基部で中国東北部や中原の文化が混淆し、竪穴式方形の墓制がそこを祖国とする人々により、古代出雲にもたらされたかと思われる(古代出雲人が彼方へ出かけ、それを習得して戻った可能性もあろうかと思うが、やはり彼方からの渡来人がもたらしたと考えるのが自然であろう)。それは古代出雲を中心とする日本海側の貼石墓の出現も、その影響下であったとも考えられる。

その朝鮮半島基部からは、陰陽道的思想も伝播したかと思われる。陰陽五行説は戦国時代に始まると云われている。戦国時代は、秦始皇26年(前221年)に秦が斉を滅ぼし終りを告げた。その戦国時代に陰陽五行説は誕生したのである。

古代出雲的世界観とは、四という数字がとりまく世界観である。以下の話は噺で、時代観が必ずしも一致しない欠陥をもっている。先ず古代出雲と云えば大国主命の国譲りと共に、八束水臣津野命による国土創生の『国引き神話』がある。そこでは志羅紀の御崎・北門の佐伎の国・北門の良波の国・都都の三埼という四つの方角からの国引きが語られている。古代の潟湖である宍道湖を囲む四つの神名火山、弥生期の墓制で有名な四隅突出墳丘墓、更には神庭荒神谷から出土した銅剣埋納の四列配置である。

(出雲国風土記所載の神名火山と国引き神話で綱の杭となった大山と三瓶山。これは四隅突出墳丘墓のモチーフ以外の何物でもない。大船山の先をのばすと新羅の迎日湾へ朝日山の先は能登半島へ)

(出雲・西谷四隅突出墳丘墓群)

(荒神谷遺跡:銅剣埋納状態 左端の四列目はクニグニへの配布が始まったものの何らかの事態により埋納されたであろうか)

この四という数字は、四神すなわち朝鮮半島壁画古墳の四神図に繋がる。四神とは東の青龍・西の白虎・南方の朱雀・北方の玄武である。このようなことから当時の古代出雲には、そのような思想感が伝播してきたであろうと想定される。

古代出雲は陰陽道的世界観が存在したであろう。その四という数字、とりわけ方位である四方の世界観、なかでも出雲はその中心という、中華思想であろう。

銅剣の四列埋納は、中心出雲から四方のクニに配布されるはずのものが、何らかの事情で隠匿されたものと考えられる。国引き神話は四方からの国土を中心である出雲に引き寄せたのである。

妄想は発展する。四つの方角で重要すべきは玄武つまり北の方角である。引き寄せた国々は出雲の北の方角にあたる島根半島がそれである。北は朝鮮半島基部から渡海してきた人々の祖国である。先に記したように北とは玄武、玄武とは蛇と亀である。

出雲は弥生前期から中期にかけて、呉越の地から稲作を携えた人々が来航し、縄文人と交わって弥生期出雲人が誕生したであろうと勝手に想像している。その出雲世界に弥生時代後期から古墳時代にかけて、半島から人々が幾度となく渡海してきたものと考えている。そのような経緯で四の世界観が形成され、なかでも北に重きをおく世界観になったものと想定している。先にも記したが、北は玄武の方角で蛇を重要視する。それが古代出雲に現れている。須佐之男命は北の方位である新羅から渡海して、出雲と石見の国境付近に上陸した。須佐之男命と云えば『八岐大蛇退治』である。

そして新羅の国の象徴は蛇神である。『三国遺事』によれば新羅初代・赫居世(かくきょせ:前69年―後4年)が死去7日後に、遺体が地に落ちて散乱した。人々がそれを集めて葬ろうとしたが、大蛇に阻まれたため、散乱した五体をそれぞれに葬って五陵とした。後世ではあるが、景文王(在位:861-875)にも蛇に関する逸話が残されている。『三国遺事』に記録される蛇は、王を守護する存在として記録されている。

(新羅 飾り蓋 5世紀 慶州月城路出土)

出雲の神在月には海上から神の使いとして海蛇が遣ってくる。出雲大社の神事に海蛇、かたや新羅の蛇神。偶然の一致か、関連性があると考えるのか。

(島根県立古代出雲歴史博物館にて)

出雲は現在でもやたらと荒神が鎮座する。荒神には藁蛇が捲きついている。

(出雲都我利神社の荒神の事例で出雲は荒神があちこちに鎮座する)

以上、やや牽強付会の感が無きにしも非ずだが、陰陽道的世界観の噺であった。

<了>

 


安来市立歴史資料館(5)

2021-06-24 08:41:01 | 博物館・島根県

<続き>

今回は須恵器と土師器を紹介する。量的には貧弱であるが、全国的に分布するそれらの器が安来平野の古墳からも出土している。先ずは須恵器から。

弥生時代ー古墳時代を通して高坏が作られた。高坏は食事を盛る器である。当時、食卓はなかったものと思われ、食事を盛った皿を地べたにおくよりも衛生的であった。今日の日本では食事に高坏は使わない。以下の2点は土師器である。

<続く>