世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

有田・九州陶磁文化館:その1

2017-10-31 08:19:18 | 博物館・佐賀県

長崎紀行の途中に、一度は訪れてみたかった九州陶磁文化館へ行ってみた。古武雄を見てみたいとの期待からである。残念ながら、当日それを見ることはできなかったが、古伊万里の優品を見ることができた。

古伊万里の膨大なコレクションである。その一端を以下紹介する。

染付花文皿 1610-1630年代

染付線彫網目松梅文壺 1610-1630年代

染付菊花文壺 1610-1630年代

瑠璃釉鎬文輪花小鉢 1610-1630年代

染付菊花文皿 1620-1630年代

染付紗綾形菊花文輪花皿 1620-1640年代

                         <続く>

 


『琉球は夢にて候』・その2

2017-10-30 07:10:26 | 石見国

<続き>

亀井玆矩が慶長十四年(1610年)、シャム(アユタヤ)国王のとりなしによりパタニー王国に朱印船を派遣した当時は、シャム(アユタヤ)とパタニーの間には不穏な空気が流れていた。この頃、パタニー王国は女王が続き、1584年から1649年迄の4女王の時期に黄金期を迎えた。4女王は、同じイスラム王国であるバハン王国やジョホール王国に援軍を求めシャム(アユタヤ)王国と反目している。特にラジャ・ウング女王(1624-1635年)の反目の時に、パタニー軍と交戦したのがアユタヤから派遣された山田長政であった。そのような時に亀井玆矩は朱印船を派遣したことになる。歴史は面白い、その頃からタイと山陰を結ぶ接点があったのである。

今日のパタニーはタイ深南部3県(パタニー、ヤラー、ナラティワート)の一つで、会話はタイ語というよりマレー語主体である。パタニーは半島に囲まれ、まさに天然の良港である。中世これほどのロケーションは多くなく、重宝されて繁栄したのであろう。

(出典:グーグルアース 奥にパタニー湾を囲む半島を見る)

朱印船貿易の頃は、イスラム王国であったことは先に触れた。今日、400年前のイスラム・モスクが現役で使われている。クルッセ・モスクと呼び、林道乾が1578年に建てたものである。

(クルッセ・モスク 出典:グーグルアース)

林道乾はパタニーの女性と結婚し、イスラム教に改宗して永住した明代の中国人である。そのクルッセ・モスクは写真のように廃墟のようにも見えるが、現役である。今日の礼拝の中心は、写真のクラーン・モスクで、タイ南部で最も美しいと云われている。

(クラーン・モスク 出典:グーグルアース)

次はパタニー王国の旧宮殿と壁にタイ字で記されている(グーグルアースより)。中に建物が残るのかどうか、訪れていないので、様子はわからないが、当時の様子を留めるものは多くはないようである。

玆矩や初代藩主・政矩当時の建造物は、今日の津和野に多くは残されていない。写真は多胡家老家の表門であるが、思いつくのはこの程度しか残存していないと思われる。

今日の津和野は斜陽である。町役場の面々が玆矩ほどの意欲をもっておれば、タイとの朱印船貿易は、一つの町おこしの材料として活用するであろう。渡航したシャム、今日のタイの経済発展は目覚ましい。タイからの訪日観光客は2017年で130万人と予測されている。このうち島根県を訪れるのは0.1%以下と云われている。

チェンマイは銀細工で著名である。旧ランナー王国の地・シャン州ボードウィンに大きな銀鉱山が存在する歴史的背景に依るものだが、石見国には世界遺産の銀山が存在する。津和野とパタニー、石見銀山とチェンマイを広域で結ぶ連携で、タイ人観光客を呼び込めないのか?役所の役人よ、知恵を働かせて欲しい。

                          <了>

 


『琉球は夢にて候』・その1

2017-10-29 08:07:01 | 石見国

『琉球は夢にて候』とは岩井三四ニ氏の小説である。過日、大宰府の九州国立博物館で「タイ~仏の国の輝き~」展を観た。驚いたことに亀井玆矩(これのり)の朱印状を見ることになった。亀井玆矩の嫡子・政矩は家督相続後、石州・津和野へ四万三千石に加増転封され初代藩主となっている。縁あって津和野二代藩主・玆政の嫡子・玆朝の感状が、我が家に伝わっている。写真がそれであるが、それもあって亀井玆矩について調べてみることにした。種々調べていると、岩井三四ニ氏の小説に『琉球は夢にて候』があることが分かった。早速読んでみた。読むと玆矩はよく言えば気宇壮大、表現を変えれば野望の持ち主であったようだ。

新十郎(玆矩)は尼子の家臣・湯永綱の長男として弘治三年(1557年)生を受けた。尼子は毛利に滅ぼされ、家臣一同苦難の道を歩むことになる。山中鹿之助の呼びかけに応じ、秀吉との連絡役を務めたあと、その元で働くことになり、それなりの禄をはむことになった。秀吉の天下になったとき、琉球を切り取りたいと願いで、琉球守を名乗ることになったが、薩摩に先をこされ結局夢に終わった。しかし、海外飛躍の夢は捨てていなかったようである。関が原では東軍に与し、戦後三万八千石に加増され、因幡・鹿野藩初代藩主となっている。(亀井玆矩像:津和野・永明寺蔵 出典:ウィキペディア)

(写真はウィキペディアに掲載されている、鹿野城址である。本丸は存在しないようだ)

茲矩は後述する朱印船貿易を行っていたため、天守以下の櫓や門に仏教に由来する名称を付けていたと言われる。さらに自らの居城(鹿野城)を王舎城(おうしゃじょう)、城下町を鹿野苑(ろくやおん)、城の背後にそびえる山を鷲峰山(じゅぶせん)、城下を流れる川を抜堤川(ばったいがわ)と名付けている。

玆矩は家康に願い出、慶長十二年に朱印状を得ている。玆矩に下された朱印状は目にしていないが、下に示すような朱印状であったと思われる。

その下の写真は、『タイ~仏の国の輝き~』展・展示の一つ「亀井玆矩書状」である。大泥(パタニー)国王に宛てた書状である。パタニーはタイ南部にあった国で、14世紀に成立後、海上交易で栄え、日本からも朱印船が渡航していた。パタニーで日本人が不義を働いたため、パタニーと日本の通行が途絶えたが、シャム(アユタヤ)国王のとりなしによって、このたび商船を派遣したという内容である。

玆矩は慶長十四年八月二十五日に、鍛冶屋弥右衛門を責任者として、シャムに朱印船を派遣しているが、その渡航時にパタニーでトラブルが発生したであろうと云われている。日本からは刀、脇差に金銀の細工物、京染の小袖、蒔絵などを輸出し、シャム(アユタヤ)からは綸子、羅紗、緞子、豹や虎皮、麝香、龍脳、伽羅、沈香、蘇木などを輸入したという。堺の商人ごとき商いを行い、それなりの収益を得たようである。下の写真は長崎に復元されている、長崎奉行所のひとコマで幕府に献上する品々で、象牙も含まれている。玆矩はこれらの品々を輸入していたであろう。

パタニーと云えばタイ領では深南部。1時間も要せずマレーシア領に至る。マレーシアは錫の大産地であった。この錫を鉄砲玉の材料として輸入したのではないか・・・と、個人的に考えている。

その用船は、『琉球は夢にて候』では、長崎で唐船でもなく和船でもなく、イスパニアの船を模した、六十万斤(約250トン)積の大船を建造した・・・となっているが、史実としては建造に至らなかったという。唐船かシャム(暹羅)船をチャーターしたであろうか?

平戸藩や大藩が朱印船貿易をしたが、亀井のような小藩が行ったのは、他に事例はないであろう。それほど玆矩は野望を持っていたと思われる。

 

                                <続く>

 


東南アジア陶磁の名品展・町田市立博物館:#23

2017-10-29 06:46:53 | 博物館・東京都

<続き>

『第2章:大越の洗練』:紹介忘れ陶磁

第2章で紹介を忘れていた展示品を掲載する。

青花菊唐草文高足杯 15世紀 高さ:13.3cm 口径:13.7cm                                                   ベトナム北部

緑釉刻花唐草文碗 14-15世紀 高さ:11.0cm 口径:13.7cm                                                   ベトナム北部

柿釉鉄斑文碗 13-14世紀 高さ:6.8cm 口径:16.2cm                                                   ベトナム北部

白磁唐草文鉢 13-14世紀 高さ:5.9cm 口径:17.0cm                                                ベトナム北部

白磁刻花草文壺 13-14世紀 高さ:5.9cm 胴径:10.0cm                                                ベトナム北部

青花緑釉茄子形容器 15-16世紀 高さ:11.3cm 胴径:8.0cm                                              ベトナム北部

青花鳳凰文合子 15世紀 高さ:7.4cm 口径:9.0cm                                                 ベトナム北部

青花牡丹唐草文壺 15世紀 高さ:9.0cm 胴径:15.7cm                                                   ベトナム北部

青花花唐草文壺 15世紀 高さ:6.2cm 胴径:8.9cm                                                 ベトナム北部

青花蓮池文合子 14世紀 高さ:7.0cm 口径:11.5cm                                                   ベトナム北部

白磁蓮弁文水注 11-12世紀 高さ:9.0cm 胴径:11.8cm                                           ベトナム北部

白磁蓮弁器台 11-12世紀 高さ:1.7cm 口径:13.4cm                                                ベトナム北部

以上、町田市立博物館で開催された『黄金の地と南の海からー東南アジア陶磁の名品』展に出品されていた陶磁器の紹介を終える。

                          <了>

 


東南アジア陶磁の名品展・町田市立博物館:#22

2017-10-27 06:44:34 | 博物館・東京都

<続き>

『第7章:東南アジア陶磁をめでる』

上 白磁双耳瓢形瓶 15-16世紀 サイズ:不記載 カロン

下 鉄絵瓢形瓶 16世紀 サイズ:不記載 シーサッチャナーライ

白磁牛 白磁チェス駒 白磁印章 白磁パイプヘッド 5-17世紀 カロン

動物形容器 10点 14-16世紀 ベトナム北部

鉄絵合子 白釉合子 褐釉合子 16世紀 シーサッチャナーライ

青花合子 青花鳥用水入 14-16世紀 ベトナム北部

瀛涯勝覧(えいがいしょうらん):馬歓は鄭和の第4次と第7次の南海遠征に随行し、帰国後諸国見聞録としてまとめた。

以上が第7章・展示陶磁である。これで町田市立博物館の特別展・展示陶磁の紹介を終えたいと思っていたが、振り返ると『第2章:大越の洗練』で未紹介の展示品が多々存在していた。次回はそれらを紹介し、当該シリーズを終了する。

                         <続く>