世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

シリーズ⑯:パヤン窯址

2016-11-30 09:00:19 | 窯址・タイ
<続き>

先ずグーグルアースの衛星写真を使って、過日紹介した寺院を含む位置関係を紹介しておく。その中で今回紹介するのは、パヤン窯址でバン・コノーイの入り口、ヨム川の最初の蛇行が終わった処にある。タイ文字からはパーヤーンと呼ぶべきであろうが、パヤンと表記している。その表記に意図はないが、行きがかり上パヤンと記している。

見た窯址は、バン・コノーイに向かった進行方向左側で、写真のボードが設置されているので直ぐに分かる。
縦に煙道が接するように、2基の窯が構築されていた。つまり煙道付近が丘の頂で、その斜面を利用して築かれている。下の写真は丘に向かって左側の窯である。

下の窯は、丘に向かって右側に築かれている。そして2葉共に焚口側から写した写真である。

低い段差であるが、燃焼室と焼成室を仕切る昇焔壁を見ることができる。段差は本来もっとあったものと思われるが、土砂の流入で低くなったか?
2基共に煉瓦構築で、長さは目分量ながら10mは超えるかと思われ、北タイ諸窯に比べれば大きい。
窯址の写真にあるように、陶片の落下は見られない。小片でもよいからと探すが、なかなか目にすることができない。少し範囲を広げて探すと、写真の陶片を得ることができた。結局表層に目ぼしいものは無く、採集しつくされているように思われる。

碗か盤と思われる青磁片が2点、焼台と思われる筒状の破片が2点採集できた。焼台の1点の表面は黒釉、他の1点は黒釉の上に青磁釉が流れ、あたかも”なまこ釉”のように見える。シーサッチャナーライの焼台に釉薬を掛けるとは、聞いたことがないので、何回か使ううちに釉薬が流れ込んだのであろうか?・・・それとも別用途の何かであったろうか?
いずれにしてもパヤン窯は大型の肖形や建築用材を主体に焼成された・・・とされていたが、今回の陶片は、それのみではなく、一般の碗や盤の類も焼成したであろうことを伺わせている。




                                  <続く>


シリーズ⑮:シーサッチャナーライ歴史公園#3

2016-11-29 13:46:03 | タイ王国
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●リータイ・アンティーク

チャリエンから歴史公園に向かう途中にリータイ・アンティークなる店があったので立ち寄った。

軒下には発掘時にかけらとなった陶片が並べられている。これはこれで大変興味があるのだが、今回持参のバゲージは小さく、購入しても持ち帰ることができない。陶片は資料的価値があるのだが、出土地がはっきりせず今ひとつである。

それなりのものがショーケースに並べられている。大きなクラックが入っている盤で、土味はサンカンペーンであるが、高台の造りや文様をみるとパヤオである。パヤオの胎土は黒ずむが、サンカンペーンに似た土味のものも存在するので、パヤオであろう。
以下、これはと思う陶磁を紹介する。ミャンマーの緑彩盤はコピーが氾濫している。高台や底、更には土味をみれば、おおよその判断はできるが、本歌であっても購入する意思はないので、手にすることはなかった。従ってコピーを紹介している可能性もあるので悪しからず。
カベットの花唐草は、ミヤンマー緑彩盤の定番である。緑彩に滲みがまったく見られないので、?の印象である。
これは特有の緑彩飛びと滲みが見られるが、高台の造りはどうなっているか?
これは最初に紹介した盤と図柄は同一である。ミャンマー緑彩盤の最大の特徴は、二つとして同じ図柄は存在しないことである。従ってこの盤も?である。
この塼もミャンマーだが、手にとっていないので、真偽は不明である。
この安南青花も真偽不明で、限りなくコピーに近い感じがするが、そこは素人判断なので当たり外れがあろう。
ピントがぼけているが、サンカンペーンの印花双魚文盤である。これは本歌であるが、購入の意思がないので価格は尋ねていない。

●プラサート古美術店

ヨム川沿いの一本道を上流方向に進むと、プラサト古美術店が見えてくる。以前はアンティークを扱っていたとのことであるが、今日は店の横でシーサッチャナーライ陶の復元陶磁を焼成している。



皆さんそれなりの腕の持ち主のようである。小さなコブウシの肖形を一つ購入した。確か20Bまでだったと思う。次はバン・パヤン窯址を紹介する。

                                  <続く>


シリーズ⑮:シーサッチャナーライ歴史公園#2

2016-11-28 08:41:07 | タイ王国
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●ワット・チャーン・ローム

クメール軍を破った戦勝記念として、ラームカムヘーン王の命により13世紀末に建立したといわれている。
ここのチェディーは正方形の基壇の周囲を象が取り囲んでいる。某ガイドブックは38頭と記すが、実際は36頭である。そのガイドブックの執筆者は、現地調査したかどうか疑わしい。


正面右側の基壇で、対角を向く象の他に辺には正面を向く象が4頭置かれている。いずれも程度の差はあるものの、漆喰が剥げ落ちている。
階段を挟んで正面左側の基壇である。左端は対角を向く、そこから階段までの4頭は正面を向いている。正面を向く象は左右合わせて8頭。それに対角を向く象が左右の端で1頭ずつである。
この写真は正面の反対側の裏面である。右手前が対角を向く象、一番奥が対角を向く象(やや見にくいが)で、その間に辺の前方を向く象が8頭並んでいる。これを模式図に現わすと下図となる。
●の位置に象が配置され、合計で36頭となっている。この36という数字に拘って、以下の噺を紹介したい。
ある著書によると、基壇を囲む象は36頭あるが、塔を復元する際36頭になったと推察され、当初は33頭だったであろう・・・と記述されている。さらに”それはエラワンと呼ぶ象で、33の頭をもつインドラ神の乗り物と結びつくからである”・・・とある。
象の基壇への配置図を上に示した。合わせて36頭である。では著述者が述べる33頭をどのように配置したのであろうか?・・・バランスよく配置する手当が見当たらない。
確かにチェディーはそれ自体が須弥山を現すと云われている。須弥山の頂上に忉利天が在り、33天が住まいするという。エラワンだけではなく33という数字はバラモンや仏教に登場する数字ではあるが、36が33になるはずもない。
この36頭の配置はヒンズーや仏教の世界観から来ていると思われる。・・・と云っても適切な説明方法が思いうかばないが、金剛界曼荼羅の世界観をもって説明してみたい。
金剛界曼荼羅を構成する仏の数は、同一グループが4の倍数でできている。これは左右上下が対称という曼荼羅の幾何学形態による。上の配置図を再度御覧願いたい、対称であることが分かる。金剛界曼荼羅には、中央の大日如来以外は四仏、十六大菩薩、内の四供養菩薩、外の四供養菩薩、四摂菩薩よいう36尊である。つまり4及び4の倍数は仏教の世界観を示している。その36頭の象が配置されていることになる。
くどくどと説明してきたが、象の基壇の上に壁龕が設けられ、そこに仏像が安置されている。
タイで多くの寺院を参拝した訳でもないので、断定的な表現はできないが、このような形式のチェディーは珍しいのではないかと思われる。




                                    <続く>


シリーズ⑮:シーサッチャナーライ歴史公園#1

2016-11-27 09:16:15 | タイ王国
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●ワット・プラ・シー・ラタナ・マハータート
1933-1994年の長期にわたる考古学的発掘調査により、それはスコータイ王国前期の3-11世紀の遺物であった。
ここには、”ヨーノック年代記”でチャリエンと呼ばれる古代都市があったとされる。つまり、タイ族が南下や西南下する前で、先住民はモン族やラワ族などで、クメールの支配を受けていた。その後、アユタヤ時代に改築された。
クメール様式のプラーン(仏塔)の前に、ラテライト(紅土石)に漆喰を塗った柱が林立している様子は、スコータイと同じである。
そこに至る正面の山門上に、漆喰で四方に人面が刻まれた小さな塔が置かれている。

人面に見えるのは菩薩であろうか?下の両手を広げて舞うのはアプサラである。まるでカンボジアのクメール遺跡のようである。
この山門を入って右手にナーガ座に坐す仏陀像を見ることができる。それが下の写真である。
プラーン(仏塔)の正面には大仏座像で、それなりの大きさである。左に遊行仏、右に半身を地面に埋めた立像が安置されているが、その写真は省略する。
これらの仏像の左右から、階段にてプラーンへ上ることができる。入り口破風の像はガルーダか?

プラーン内部は仏舎利とのことである。テラスから振り返る眼下に遺跡全体を見ることができる。
現在の本堂の周囲には結界石が巡っている。この結界石はそれなりに古そうであった。

次回はワット・チャンロームを紹介する。




                                   <続く>


シリーズ⑭:サワン・ウォラナヨック国立博物館#3

2016-11-26 08:24:34 | 博物館・タイ

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先ず寺院装飾に用いられたナーガ、マカラ、シンハーの類と建築用材を紹介するが、シーサッチャナーライとスコータイの区別はしていない。

 

 


中世の交易ルートと、そのルートで運ばれた陶磁が展示されている。時期は16世紀だが17世紀もそうであったかと思われる。
日本へは、琉球王朝までのルートが示されているが、暹羅(アユタヤ王朝)船が平戸に寄港したときの絵図が平戸・松浦資料館に展示されており、日本本土にも交易品を運んだと思われる。

 

パネルには暹羅(アユタヤ王朝)船が紹介され、このようなジャンクで交易していたとある。この絵図は、先に紹介したとおり松浦資料館のそれを用いたもので、松浦資料館は巻物の一部として描かれている。その絵図を掲げておく。

余談は、この程度にして交易陶磁としてタイ湾の沈船遺物として、紹介されている展示品の写真を以下に貼り付けておく。

 

以上でサワン・ウォラナヨック国立博物館で見た陶磁類の紹介を終える。




                                  <続く>