世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

伽耶展(4)

2023-07-31 09:05:37 | 日本文化の源流

<続き>

今回は前回に続き、伽耶の土器から大伽耶と小伽耶の土器を紹介する。

上掲キャップションに大伽耶土器の特徴が説明されている。それによると、直線的でどっしりしたとしたプロポーションにあると云う。

小伽耶土器の特徴は、ほっそりとしたプロポーションで、脚部に三角形状の透かし彫りを持つと云う。

伽耶展の展示品紹介は一度中断し、次回は別のテーマで記事にしたいと考えている。

<一時中断>


伽耶展(3)

2023-07-26 09:31:21 | 日本文化の源流

<続き>

今回から2回に渡り、伽耶土器を紹介する。伽耶土器といっても硬く焼き締めされた土器で、須恵器の源流でもある。

No.29

No.30

No.31ー1

No.31-2

No.32

No.33

No.34

No.35

No.36

No.37

No.38

No.40

次回は、伽耶諸国のなかで最大の大伽耶の土器類を紹介する。

<続く>


伽耶展(1)

2023-07-18 08:35:19 | 日本文化の源流

第一部

第一章:伽耶を語るもの

伽耶が、何を成長の礎とし、どのような文化をはぐくんでいたかをしめすものは、大きく4つある。鉄生産と交易を一体で運営していたこと、華麗な土器をうみだしていたこと、そして伽耶の諸国それぞれが特色ある王陵群を営んでいたことである。そのことを示す遺物が展示されている。

渦巻き文が永遠の命を象徴することについては、過去に紹介した。ここでは護符のように用いられてモノと考えられる。豊富な鉄製品については次回紹介するとして、今回はここまでとする。

<次回に続く>


伽耶展:プロローグ

2023-07-12 10:28:06 | 日本文化の源流

過日、九州国立博物館で伽耶展をみた。そのプロローグである。

日本人の祖は、二重構造モデルで説明できそうだ。ヤポネシア(日本列島)に旧石器時代に移住して最初に棲みついた人々は、東南アジアに住んでいた古いタイプの人々の子孫①であり、彼らがその縄文人を形成した。弥生時代に入る頃、揚子江下流域から倭人と考えられる人々が渡海してきた。この新しい人々は、日本列島に稲作をもたらし、北部九州から東漸した。その間に先住民である縄文人の子孫と混血することにより、日本列島に居住する多数派を形成した。朝鮮半島から倭人を含む渡来人が影響を与えるのは、邪馬台国時代頃からと考えられる。

今回、伽耶展を観覧して、その展示品を紹介するにあたり、伽耶と倭の交流は、伽耶の前時代の弁韓(狗邪韓国)以前から存在していたことを紹介し、一方で当該ブロガーが考える日本人の源流をも紹介するものである。

その縄文人が朝鮮半島南部と交易していたであろうことが、考古学的に証明できそうである。半島南部の釜山市影島区・東三洞貝塚から大量の縄文土器と九州産の黒曜石が出土した(ココ参照)

朝鮮半島製の土器と縄文土器は異なることから、縄文人が朝鮮半島南部へ渡海したことは確かである。更に半島では、銛(もり)や鏃と云った漁撈具や狩猟具に用いる黒曜石は産出されないのである。このように縄文人は交易のため半島に遣って来た。

その縄文時代に倭人が呉越の地に存在していたことを『論衡』が記している。曰く「周時天下太平 倭人來獻鬯草」:周の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草を献ず、「成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯」:成王の時、越裳は雉を献じ、倭人は暢草を貢ず、「周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 食白雉服鬯草 不能除凶」:周の時、天下は太平にして、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草を貢す。白雉を食し鬯草を服用するも、凶を除くあたわず・・・これらの記事は、前1000年頃のことである。この時期の日本は縄文時代で、弥生時代人つまり倭人は日本列島には居らず、前述の古文献が記すように、中国大陸の揚子江下流域、つまり呉越の地に存在していた。

その倭人であるが、時代が下って前3世紀、秦帝国の膨張により、揚子江下流域の楚・呉・越などが滅亡する動乱の際に、長江下流域から日本列島に渡海して来たと考えられる。その倭人の分派は、朝鮮半島南部へ逃れたであろう。馬韓(後の百済)の位置について『後漢書』は、“その北は楽浪と、南は倭に接し、辰韓(後の新羅)は東にあり”とし、『三国志』は、“倭と界を接す”とある。また弁韓(後の伽耶)も同じで、『後漢書』には、“その南また倭と接す”とあり、『三国志』は“倭と界を接す”と記している。当該記事については、種々の論説があるが、文面から察して、朝鮮半島に倭(つまり倭地)が存在していたであろうこと、そしてそれは馬韓と弁韓(伽耶)の南に接する地続きの国であったと考えられる。

以上、日本人の祖としての二重構造モデルの長江下流域から渡海して来た倭人について記してきたが、分派の倭人について更に追及してみる。

呉越である浙江省で焼成された印紋硬陶が一個体分、後の伽耶の地である固城・東外洞貝塚から出土した。これと共に砂鉄精錬の技術も揚子江南部から入ってきたであろう。砂鉄精錬は呉越の地が先進地で、朝鮮半島南部に製鐵技術が入ったのは前3世紀頃であろうと考えられている。固城・東外洞貝塚では、前1世紀頃に砂鉄精錬が行われていたであろうと云われている。洛東江下流域は、砂鉄が豊富で伽耶の古墳の石槨内から、多くの鉄鏃が出土している。『三国志』は韓・獩・倭は競って、その鉄を得ると記している。我が得た鉄は当然の如く海峡を渡って、日本列島にもたらされたであろう。

浦志遺跡出土 小銅鐸

その頃の交流を示すものとして、糸島市・浦志遺跡から1983年に出土した小型銅鐸が在る。朝鮮式小銅鐸の流れを汲むものである。それと一緒に出土した土器は、弥生式土器に類例がなく、朝鮮半島南部の出土品に似ていた。

以下、伽耶の変遷である。伽耶諸国の金海では3世紀末以降、北方文化をもつ墓がそれ以前の墓を破壊しながら出現する。大成洞墳墓群の木槨墓は、北方民族(扶余族)との関連が考えられ、武器を折り曲げて墓に入れる習慣は、北方民族との繫がりである。また内部主体部の木槨墓の丸太をわざわざ焼いているが、これも北方民族の特徴的な習慣であった。

4世紀に入ると、高句麗が楽浪郡や帯方郡を滅ぼし、勢力を拡大した。半島南部では政治的な統合が行われ、百済と新羅が成立するが、弁韓は統一されないまま、伽耶諸国として小国が分立したままであった。

当時の倭国では、小規模ながら製鐵が開始されていたと考えられるが、需要を満たすには不十分で、伽耶諸国の鉄に頼らざるを得ず、結果として伽耶や百済との関りは強くなっていった。

金海の大成洞2号墳は、金官伽耶國の王墓と考えられ4世紀末―5世紀初と推定される。巴形銅器、筒形銅器などは倭国との繫がりが指摘され、環頭太刀、銅鏡、碧玉製鏃形品、150枚の鉄鋌や甲冑、鉄剣、鉄鏃などの武具、武器や馬具が大量に出土した。また副槨からは、古代伽耶土器の原形ともみられる丸底長頸壺などの土器も多数出土した。

巴形銅器 金海国立博物館にて

その伽耶では5世紀前半以降、支配者の墓が急に築造されなくなる。これをもって江上波夫氏は、騎馬民族が伽耶から北部九州に移動して、応神天皇の時に畿内に入ったとの騎馬民族征服王朝説をとなえておられる。

この説は残念ながら4世紀の時代にそのような説は、考古学的に証明されないとして否定されている。

伽耶と倭の交流は6世紀にも継続している。伽耶諸国の一国である昌寧は、『比自國』と呼ばれていた。その松峴洞(しょうけんどう)古墳群の7号墳からクスノキ製の船形木棺が発見(ココ参照)された。長さ3.3m、幅0.8mで、これほどのクスノキは朝鮮半島で自生せず、日本列島から運ばれたもので、西暦500年頃とみられている。

その伽耶に滅亡がおとずれる。百済と新羅のはざまで徐々に勢力が弱体し、6世紀半ばの562年に滅亡してしまった。今回の伽耶展は、伽耶の成立から滅亡までが遺物で展示されているが、倭と伽耶の交流はその前時代から始まっていたことを考慮して、次回から紹介する遺物を御覧頂ければ、興味深いものになると考えている。

 

注① 1991年に国立遺伝学研究所の宝来聡氏らが、埼玉県で発見された縄文人の頭骨からミトコンドミアDNAを抽出し、塩基配列の一部分を明らかにしたのが初めての成果だった。この縄文人の塩基配列が現代東南アジア人のものと一番近かった。近年ではホアビン文化民族が縄文人となった可能性が高いとの研究結果(ココ参照が公表されている。

<続く>