世界の街角

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邪馬台国時代の建物とクニの柱:池上曽根遺跡にて

2019-06-29 08:10:00 | 古代と中世

池上曽根遺跡の推定復元高床式建物は老朽化が激しく、痛々しい感じを受ける。おかげで高床への入場禁止である。

写真手前右には一本の柱が立っている。これはクニの柱で吉野ヶ里遺跡でも見ることができる。まさに北タイのラック・ムアン(クニの柱)そのものである。

(吉野ヶ里遺跡)

クニの柱は古代祭祀の中心であったかと思われるが、当件に関しては過去にも触れているので今回はここまでとする。

さて邪馬台国時代(弥生期)の建物である。奈良・佐味田宝塚古墳(古墳時代前期)出土の家屋文鏡がある。その文様をスケッチした。尚文様全てではなく、省略したところもある。

これらの建物を鳥越憲三郎氏は高屋・高殿・殿舎・高倉と名付けた。スケッチ上から時計回りに平地住居・竪穴住居・高床倉庫・高床住居と解釈されているようだ。

この鏡は弥生期に続く古墳時代前期のことなので、これらの家屋の図をもって弥生期もそうであったとは云えないが、似た家屋が存在していたであろう。

先ず、スケッチの上から順に考察したい。屋根には千木を認め、二羽の鳥(赤丸)が載る。これは平地の土間式住居と考えてよさそうである。倉敷市女男岩遺跡出土の草葺寄棟住居の器台付土器(弥生末期)に似ている。

これに似た北ベトナムのハニ族(=アカ族)の土間式住居を紹介した。異なるのは壁に明りとりの窓枠と思われる図が存在することである。

時計回りに次の図は、竪穴住居と呼ばれているが、これを竪穴の土間式住居とするかどうか? 図にはきざはし(階・黄緑丸)を見るので低床式住居とも考えられる。或いは低い壁を表し、住居内に下の床に降りる階段を設けていたのか? 桃色の丸で囲ったのは庇であろう。それは吉野ヶ里の想定復元住居で見ることができる。

また、蓋(衣笠)をみるので、身分の高い大人ないしはクニの王の住居と考えられる。

真下の高床の建物は、高倉で稲籾や穀物倉庫として用いたものと考えられる。

次の高床式住居に見える建物である。床下は壁になっている。高床式住居は、北タイでは今日も見ることができ、当該ブログでも過去に何度も掲載してきた。ここで問題と思われるのは、北タイで日本で云う冬季の最低気温は、14-15度程度であり、それを下回っても10度以下にはなりそうもない。そのような時は炉で薪を焚けば、何とか寒さに耐えることは可能である。

では日本はどうか、例え床下に囲いがあったとしても気密性は低く吹き曝しに近い、気温は氷点下である。日本の冬季に高床式住居で生活はできないであろう。従って使い分けをしたと思われる。冬季は図右の竪穴式住居、夏季は図左の高床式住居と思われる。双方共に衣笠を持つことから、クニの首長の住居であろう。

いずれにしても弥生期、広い範囲から渡来した人々が存在したであろう。それらの本貫の地の住居形式に倣った建物が存在したと思われる。

最後に大阪府立弥生文化博物館展示の鳥の肖形である。いずれも朝鮮半島のソッテと結びつけている。

ソッテとは鳥竿である。竿頭に鳥が止まった神竿を云い、鳥は天地を往来して神の使いとされているようだ。雲南ミャオ族には芦笙柱と呼ぶ同じものが存在する。上掲の銅鏡の棟には鳥が載る。

(出典:西村昌也「北部ベトナム銅鼓をめぐる民族視点の理解」)

棟に鳥が載るのは南方の習俗である。ベトナムのゴックルー銅鼓の別面には、建物の棟の上に鳥をみる。さらに過去アカ族の結界を紹介しているが、日本の鳥居に似た構造物にも鳥の肖形が載っている。日本の考古学会か民俗・民族学会か知らないが、日本の弥生遺跡から出土する鳥の肖形と半島を結びつけるのは、短絡過ぎないのか、それとも裏があるのか。もっと広い視野で見て欲しいものである。

次回より、兵庫県立考古博物館の展示品を紹介する予定である。

 

<了>

 


朝鮮半島との繋がり:大阪府立弥生文化博物館

2019-06-28 08:11:13 | 古代と中世

大阪府立弥生文化博物館には、朝鮮半島との繋がり交易を示す品々が展示されている。・・・と云うか、何事もそれに結び付けているような印象を受け、違和感を感じないでもないが下の写真は、朝鮮半島との交易を示すものである。

銅器は何れも九州からの出土品のようである。朝鮮式銅鐸とあるが、日本の銅鐸の源流であるとの説が支配的である。

 

<了>

 


石製鋳型:大阪府立弥生文化博物館

2019-06-27 07:41:29 | 古代と中世

前回まで大阪府立博物館の展示品をみて、卑弥呼とか邪馬台国と銘打って展示品を紹介してきたが、そこで紹介しきれなった品々を今回から数回に分けて紹介したい。先ずは鋳型である。出土地は曽根遺跡以外のものである。

電動工具も無い時代によく作ったものと感心する。石は砂岩であろうか?

ガラスを溶かして鋳込む技術を要していた。この技術はいつ消滅したのか? 平安時代には既にガラスは存在しなかったと思うが?

 

<了>

 


邪馬台国時代の交易・後編

2019-06-26 06:50:35 | 古代と中世

<続き>

魏志倭人伝には『其の北岸狗邪韓国に到る七千余里。始めて一海を度り、千余里にして対馬国に至る。』とある。当然と云えば当然であるが、邪馬台国の時代は既に朝鮮海峡を渡海・横断していたのである。対馬上島より最短の巨済島を目指したであろう、見晴らしがきけば対馬から巨済島が視認でき、その最南端の加羅山は標高585mである。対馬からその巨済島までの距離は49.5kmしかない。

(対馬・有明山(558m)より巨済島をお望む:対馬観光物産協会ブログ)

過去、準構造船で朝鮮海峡を渡った「野生号」は、平均時速1.7ノット(3.15km)であったとの記録が残っている。してみれば邪馬台国の時代、対馬国と狗邪韓国の間は16時間ほどで、遅くとも一昼夜で横断可能であったと思われる。

では、邪馬台国の時代はどのような船であったろうか。弥生期の準構造船と呼ばれる船の部材が出土したのは、鳥取市・青谷上寺地遺跡、滋賀県守山市・下長遺跡と赤野井原遺跡、福岡県前原市・潤地頭給(うるうじとうきゅう)遺跡である。これらは部材の一部なので、それらを参考に全体像を描くしかないが、縄文の丸木舟と古墳時代の準構造船の中間で、舳先と舷側版を持つ船と思われる。先日、前編で掲載した兵庫県立考古博物館展示の準構造船は、古墳時代の復元船である。

弥生時代を下る古墳時代の準構造船は、宮崎県西都原市・170号墳(6世紀始め)の出土土器(埴輪)が著名である。

(宮崎県HPより)

以下のことも当然と云えば当然であるが、半島側の準構造船とよく似ている。金海国立博物館でみた準構造船の土器である。

(三国時代:5世紀 金海国立博物館)

舳先をもっており、弥生期の準構造船に近い形である。いずれにしても日本列島と半島南部の船形は近似しており、列島側の文化水準が必ずしも遅れていない証左であろう。

 

米子市稲吉角田遺跡から弥生期の線刻土器が出土した。

舳先が反りあがったゴンドラ風の舟に、櫂をもち頭に鳥の羽を飾る人が乗っている。舳先が反りあがるのは準構造船の特徴である。このような船で渡海したのである。しかしこの羽人は南海の特徴でもある。ドンソン銅鼓にそれを見ることができる。してみれば南海からの渡来人がいたと考えてよさそうである。

(出典:西村昌也『北部ベトナム銅鼓をめぐる民族視点からの理解』)

弥生時代を遡る縄文時代の丸木舟を復元し、台湾から沖縄へ渡海するプロジェクトが動き出し、以下の計画であると云う。つまり南海ルートの実証実験である。

是非成功し、渡来人は朝鮮半島からのみの印象を論破する材料を提供して欲しいものである。

話しが逸れてしまったが、弥生期の古代人はフロンティアの旺盛な人々であったろうと思われる。海を介して活発な交易をおこなったのである。

<了>

 


邪馬台国時代の交易・前編:大阪府立弥生文化博物館

2019-06-25 07:31:21 | 古代と中世

大阪府立弥生文化博物館で弥生期の「交易」に関する展示がある。先ず、それから紹介する。

(大阪府立弥生文化博物館展示)

(大阪府立弥生文化博物館)

(大阪府立弥生文化博物館)

(大阪府立弥生文化博物館)

ゴホウラ貝は奄美大島以南でないと採集できない。鹿児島県の遺跡から出土したものである。翡翠の勾玉は福岡県の出土品が展示されていた。翡翠は糸魚川産という。これらは物が独り歩きはしないので、交易により運ばれたものである。その交易で使われた準構造船が展示されている。

(大阪府立弥生文化博物館)

その準構造船は、今後紹介予定の兵庫県立考古博物館に復元され展示されている。

(兵庫県立考古博物館展示)

(兵庫県立考古博物館展示)

以下に紹介する説明ボードと遺物は、全て兵庫県立考古博物館の展示品である。

魏志倭人伝には『草木繁茂し行くに前人を見ず』とある。上記の紹介遺物は船による交易以外には考えられない。以下は鳥取市青谷上寺地遺跡資料館の交易展示パネルである。

このような比較的規模の大きい弥生遺跡は、ひとつのクニを形成し、それぞれが日本列島のみならず、半島や中国と交易しいていた様相を呈している。倭人伝には中国・漢に朝貢していた国が百余国あったと記す。邪馬台国の時代には使訳通ずる所三十国とも記している。紹介した遺跡はこれらの国々に相当すると考えられる。

 

<続く>