池上曽根遺跡の推定復元高床式建物は老朽化が激しく、痛々しい感じを受ける。おかげで高床への入場禁止である。
写真手前右には一本の柱が立っている。これはクニの柱で吉野ヶ里遺跡でも見ることができる。まさに北タイのラック・ムアン(クニの柱)そのものである。
(吉野ヶ里遺跡)
クニの柱は古代祭祀の中心であったかと思われるが、当件に関しては過去にも触れているので今回はここまでとする。
さて邪馬台国時代(弥生期)の建物である。奈良・佐味田宝塚古墳(古墳時代前期)出土の家屋文鏡がある。その文様をスケッチした。尚文様全てではなく、省略したところもある。
これらの建物を鳥越憲三郎氏は高屋・高殿・殿舎・高倉と名付けた。スケッチ上から時計回りに平地住居・竪穴住居・高床倉庫・高床住居と解釈されているようだ。
この鏡は弥生期に続く古墳時代前期のことなので、これらの家屋の図をもって弥生期もそうであったとは云えないが、似た家屋が存在していたであろう。
先ず、スケッチの上から順に考察したい。屋根には千木を認め、二羽の鳥(赤丸)が載る。これは平地の土間式住居と考えてよさそうである。倉敷市女男岩遺跡出土の草葺寄棟住居の器台付土器(弥生末期)に似ている。
これに似た北ベトナムのハニ族(=アカ族)の土間式住居を紹介した。異なるのは壁に明りとりの窓枠と思われる図が存在することである。
時計回りに次の図は、竪穴住居と呼ばれているが、これを竪穴の土間式住居とするかどうか? 図にはきざはし(階・黄緑丸)を見るので低床式住居とも考えられる。或いは低い壁を表し、住居内に下の床に降りる階段を設けていたのか? 桃色の丸で囲ったのは庇であろう。それは吉野ヶ里の想定復元住居で見ることができる。
また、蓋(衣笠)をみるので、身分の高い大人ないしはクニの王の住居と考えられる。
真下の高床の建物は、高倉で稲籾や穀物倉庫として用いたものと考えられる。
次の高床式住居に見える建物である。床下は壁になっている。高床式住居は、北タイでは今日も見ることができ、当該ブログでも過去に何度も掲載してきた。ここで問題と思われるのは、北タイで日本で云う冬季の最低気温は、14-15度程度であり、それを下回っても10度以下にはなりそうもない。そのような時は炉で薪を焚けば、何とか寒さに耐えることは可能である。
では日本はどうか、例え床下に囲いがあったとしても気密性は低く吹き曝しに近い、気温は氷点下である。日本の冬季に高床式住居で生活はできないであろう。従って使い分けをしたと思われる。冬季は図右の竪穴式住居、夏季は図左の高床式住居と思われる。双方共に衣笠を持つことから、クニの首長の住居であろう。
いずれにしても弥生期、広い範囲から渡来した人々が存在したであろう。それらの本貫の地の住居形式に倣った建物が存在したと思われる。
最後に大阪府立弥生文化博物館展示の鳥の肖形である。いずれも朝鮮半島のソッテと結びつけている。
ソッテとは鳥竿である。竿頭に鳥が止まった神竿を云い、鳥は天地を往来して神の使いとされているようだ。雲南ミャオ族には芦笙柱と呼ぶ同じものが存在する。上掲の銅鏡の棟には鳥が載る。
(出典:西村昌也「北部ベトナム銅鼓をめぐる民族視点の理解」)
棟に鳥が載るのは南方の習俗である。ベトナムのゴックルー銅鼓の別面には、建物の棟の上に鳥をみる。さらに過去アカ族の結界を紹介しているが、日本の鳥居に似た構造物にも鳥の肖形が載っている。日本の考古学会か民俗・民族学会か知らないが、日本の弥生遺跡から出土する鳥の肖形と半島を結びつけるのは、短絡過ぎないのか、それとも裏があるのか。もっと広い視野で見て欲しいものである。
次回より、兵庫県立考古博物館の展示品を紹介する予定である。
<了>