世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

京・宵々山と金又

2024-07-19 08:37:26 | グルメ

7月14日、三か月ぶりの京都。14日は宵々山とのこと、10年間京都に住まいしていた時は、足しげく通ったものだが・・・。

宵々山とはいえ、しかも昼間でもあるのにかかわらず、相当な人でである。その四条通から僅かに上ル処に金又がある。

店の前には八坂神社・祇園祭への献灯をみる。やはり老舗を連想させる。

京都の夏と云えば鱧、調理法がすばらしい。

以上にご飯と茶菓子・抹茶つきでした。

了>


出雲の「八」と宇佐八幡の謎

2024-07-09 08:40:32 | 古代出雲

日本の古代は覇を競い合う、血なまぐさい時代であった。その時代の妄想にちかい噺である。

出雲は「八」の呪縛かと思うほど「八」が溢れている。“八雲立つ、八重垣、八挙鬚(やつかひげ)、八岐大蛇、八塩折乃酒、八千矛、八重事代主、八百万神、出雲大社の八足門、更には八口神社”等々である。

「出雲国風土記」意宇郡国引き神話条の冒頭部分は、以下のようになっている。

“意宇(おう)と号くる所以は、国引き坐しし」束水臣津野命(やつかみずおみづぬのみこと)、詔りたまひしく、「雲立つ出雲の国は、狭布(さぬ)の稚国なるかも。初国小さく作らせり。故、作り縫はな」と詔りたまひて、「栲衾志羅紀乃三埼(たくぶすましらぎのみさき)を国の餘りありやと見れば、国の餘りあり」と詔りたまひて”・・・と記し、“綱を引き来縫へる国が、穂米支豆支(やほしなくづき)の御埼”であったと記している。

国引きレリーフ・八束水臣津野命 出雲市大社町にて

この冒頭だけでも「八」は三度登場する。注目すべきは、八穂米支豆支の御埼を新羅から引き寄せたとする箇所である。新羅で思い返されるのはスサノオである。スサノオは「雲立つ 出雲重垣 妻籠みに 重垣作る その重垣を」なる、詞を詠んだとされている。まさに「八」尽くしである。

スサノオと清之湯山主三名狭漏彦八島野命を祀る須我神社

そのスサノオは、天から追放されて新羅の曽尸茂梨(そしもり)に降り、この地吾居ること欲さずと言い、息子の五十猛神と共に土船で東に渡り、出雲国斐伊川上流の鳥上の峰にいたったとされる。スサノオは出雲に腰を据え、櫛稲田比売と結ばれるが、櫛稲田比売の父・足名椎を稲田宮主須賀八耳神と号けたと云う。また「八」の登場である。

スサノオ像・出雲市駅前

「菅之八耳」は御存知ないかと思われる。原出雲王家の末裔・富家伝承である出雲臣の系譜によると、大国主命の始祖は菅之八耳だと伝えられている。ここまでくると『八』の呪縛かと思いたくなる。

富神社社殿 出雲市斐川町 祭神・八束水臣津野命

そこで宇佐八幡である。宇佐八幡の八幡とは応神大王(おおきみ)にほかならない。その宇佐八幡は「宇佐託宣集」によれば、“辛国(からくに)の城に八竿の旗(幡)を立てて、日本の神になった”・・・とある。

宇佐八幡宮

八竿の旗は、八つの小国、あるいは部族であろう。「辛国」の正体は、伽耶の「浦上八国(うらのほとりはちこく)」であった可能性が考えられる。この出雲族国家である出雲に頻出する「八」と、応神大王とその一派の「八」をどのように捉えるのか。出雲族と応神大王の出自は、同じ浦上八国であったかとの妄想にかられる。

噺は飛ぶ。大国主命を祀る出雲大社の正式参拝方法は「二礼八拍手一拝」である。この拝礼方法は、天皇家の勅使を迎えて挙行される大祭礼・勅祭の祭典にのみ用いられる拝礼の仕方である。出雲族と応神大王の「八」、出雲大社と天皇家の「八」。

「二礼八拍手一拝」を略式化したのが「二礼四拍手一拝」である。この参拝方法は、出雲大社と宇佐八幡宮でみる参拝方法である。この謎の参拝方法は何を物語るのか。四(死)拍手で拝礼されるのは、不遇な死を遂げたタタリ神である。オオクニヌシは、アマテラスに国を奪われ亡くなった。自死であったと考えるのが自然だ。オオクニヌシの魂は怨霊となり、祀らねば祟りをなす。

中央の二之御殿は応神天皇ではなく比売大神を祀る

宇佐神宮の主祭殿は、一之御殿の応神天皇。常識では一之御殿が中央であるが、ここでは中央の二之御殿は「比売大神」である。比売大神とはなにものであろうか。宇佐八幡宮では、日本書紀に注釈付きで記されている市杵嶋姫命、端津姫命、田霧姫命の三女神が、宇佐嶋に天下ったと記していることから、比売大神はその三女神であるとするが、大いなる疑問である。

左端の一之御殿の祭神・応神天皇に替り、中央を占める祭神が比売大神である訳はない。応神天皇より格が高い女神と云えば、アマテラスかヒミコと云うことになる。不遇の死をとげ四(死)拍手で参拝されるのは、ヒミコ以外に考えられない。

「日本書紀・神功皇后摂政記三十九年是歳条によれば、“魏志に云はく、明帝の景初三年六月、倭女王、大夫難斗米(なしめ・なんしょうまい)等を遣して、郡に詣りて、天子に詣しむことを求めて朝貢す”・・・この記事が「魏志倭人伝」の次の一節、“景初二年六月、倭の女王、大夫難斗米等を遣わし郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む”からとったものであることは明らかである。

したがって書紀の編者は魏志倭人伝の存在と、邪馬台国や卑弥呼を知っていたことになる。しかし書紀に卑弥呼と邪馬台国は登場しない。書紀も宇佐八幡宮もヒミコを抹殺している。ヤマトを憚り「比売大神」を中央に据えたと考えられる。

噺を戻す。出雲族と応神大王(天皇)の王権、出雲族は応神王権に服属した結果、出雲には『八』の呪縛が残ったとの妄想であった。

 

(追記)

「辛国の城」は、社家辛嶋氏の居住地である集落を指しているとも考えられる。宇佐八幡は辛嶋氏によって奉祀されていた。宇佐八幡の出現についての託宣の意味は、宇佐の菱形池のあたり、小倉山の麓を占拠する鍛冶集団の守護神が辛嶋氏によって、朝鮮半島から日本に移された、と云うことであると思われる。尚、辛嶋氏の系図では、素戔嗚尊の子・五十猛神の末裔とされる。何やら噺が上手にできすぎている。

(参考文献) 逆説の日本史 井沢元彦

<了>


タイのピーターコーン祭りで考えた

2024-06-19 08:29:58 | タイ王国

ピーターコーン祭りが何時から始まったのかを知らないが、今年も7月7日から9日の予定で、ルーイ県ダンサーイ郡で催行されると云う。ピーターコーンとは、ピー:精霊、ター:目、コーン:仮面であり、精霊の仮面祭りということになる。その仮面は””を強調したものである。

タイ政府観光庁HPより転載

タイ政府観光庁のHPによれば、釈迦の前世であるヴェッサンタラ王子が、山から都へ戻る際に、別れを惜しんだ森の獣や精霊たちが、後について行ったというジャータカ(本生譚)に基づき、収穫前の雨乞いや厄払いの目的があるという。つまりは豊穣祈願祭である。

東南アジアや日本を含む東アジアでは、古来仮面を被ることは、被る本人の人間性が消えて、別のシンボリックな存在になるという。ピーターコーン祭りで、仮面を被ることにより精霊や神になることを意味する。

この種の仮面は、日本の弥生時代にも存在していたようだ。奈良・纏向遺跡から木製仮面が出土している。岡山・新庄尾上遺跡からは鳥装の巫者を線刻した絵画土器片が出土している。古来、仮面を被って登場するのは来訪神で、民族のトーテム信仰を思わせるものがあり、鳥が始祖神として来訪する民族もある。

纏向遺跡出土仮面(レプリカ)

新庄尾上遺跡出土土器片

弥生人も仮面を被り、異形の神(精霊)に扮して悪霊や穢れを払い豊穣を願ったのである。

このような風習は現在でも継承されている。中国貴州省のミャオ(苗)族は、マンガオと呼ぶ来訪神の祭りを行っていると云う。それは写真のような仮面を被っている。

ミャオ族の来訪神・マンガオ 荻原秀三郎著「神樹」より

同様に我が日本でも南海の悪石島のボゼ祭りに、ボゼとして盆の最後に登場する来訪神がいる。やはり悪霊や穢れを払い、祭りが終わるとボゼの仮面は邪気とともに土に還るとのことである。

ボゼ 鹿児島県観光サイトより

ピーターコーンもやはり来訪神で精霊であったものが、仏教国ルーイ県でジャータカと習合したものと考えている。

<了>


二度目の宮崎紀行

2024-06-08 08:33:40 | 旅行

今年二度目の宮崎、その足跡を記しておく。やはり宮崎は南国で、その証のようなものを見た、それは後程紹介するとして、行程順に記すことにする。

関門橋 門司側より写す

向かいは下関 海峡ゆめタワーを望む

霧島 宮崎道霧島SAより

ジャカランダ・南米原産 橘通り

やや見辛いが、南米原産のジャカランダと呼ぶ、紫色の花を咲かせる花木が並んでいる。

ブーゲンビリアに覆われる空港ビル 宮崎空港にて

ホリデーインリゾート青島

青島

鵜戸神宮

祭神は日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)。宮崎は神武天皇が東征出発の地で天孫族をまつる神社が多い。

皇宮神社

皇宮神社は宮崎神宮の本宮で、社殿は神明造りである。棟持ち柱構造で、弥生時代の棟持ち柱を持つ高床式建物の特徴を引き継いでいる。

以下、生目の杜遊古館展示物2点を紹介する。一つは宮崎特有の埴輪で、円筒埴輪の変形ないしは小型版である。

騎馬民族と思われる馬具や武具、装身具が出土している、その中の金製垂飾付耳飾である。

日南の飫肥城である。江戸時代は伊東氏飫肥藩の藩庁として栄えた。1572年、伊東義祐と島津義弘が戦った木崎原合戦で、島津義弘の「釣り野伏せ」にて伊東義祐は大敗するが、秀吉の九州平定により島津氏は、日向国の伊東氏旧領を明け渡し、伊東氏は10年越しに復帰することになった。

飫肥城大手門

伊東義祐を引き継いだ祐兵(すけたけ)の鎧兜

帰路は東九州自動車道を北上。途中宇佐から豊後高田へ。昨年訪れた時に週一の休みであった”そば処響”へ。石丸健二郎し兄君経営のソバ店である。

美味であった。ソバは我が出雲と信州、越前がよいが、響きも負けず劣らずであった。

<了>

 

 


前方後円墳は天下布武の象徴?

2024-05-29 08:50:24 | 古代日本

天下布武と云えば信長が思い出されるが、ここでは前方後円墳の形状は、何を物語るか・・・と云うことを記したい。

前方後円墳の墳丘形状は、天円地方説や壷の形状を示しているので、それは壷中の天を表し、桃源郷だとする説まで多彩である(古墳時代の七不思議・其の壱:謎の前方後円墳形状 参照)。しかし墳丘は周濠に囲まれている。

仁徳天皇陵(大仙古墳)周濠を含めると盾に見える

今回は、この周濠を含めた形状を話題にする。その形は盾の姿にほかならない。後世の命名であろうが、盾が並んだ形という意味で盾列(たてなみ)の陵とか、古墳の墳丘上の神社を盾築神社と呼んだりする。周濠を含めた形状は、盾形で盾を伏せたように見える。盾を伏せるとは、戦いをやめるとか終結とかの不戦の意味を持つ。現在でも盾伏舞が奉納されている地区が存在するが、盾伏舞とは戦いをやめる舞で平和舞である。

この盾形状は弥生時代から見ることができそうである。その盾は鳥取・青谷上寺地遺跡や大阪、出雲の弥生遺跡からも出土している。朱色に塗られ上方の両隅が丸みをもち、前方後円墳の周濠の形と同一である。

青谷上寺地遺跡出土・弥生時代の盾

大阪府立弥生文化博物館展示の盾

出雲弥生の森博物館展示の盾

古代の大王や王が、前方後円墳の周囲を盾形にしたのは、その地の征服者として、戦いのない平和な治世を行った証としたと考えられる。いわゆる天下布武の象徴であったと考えるが、如何であろうか。

<了>