世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

伽耶展(20)

2023-10-31 08:25:09 | 日本文化の源流

<続き>

第二部 渡来人

第9章 渡来馬と渡来牛

『伽耶展』に出品された品々を紹介しているが、いよいよ最終章となった。今回から数回に分けて、当該第9章出品の品々は全品紹介する。

左端の革袋の須恵器は、北方遊牧民族の革袋に由来し、朝鮮半島を経由する過程で土器に写されたものである。騎馬民族の必需品の一つである。

<続く>


伽耶展(19)

2023-10-28 09:28:37 | 日本文化の源流

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第二部 渡来人

第8章 技術革新

今回は”技術革新”とのテーマで、主として製鐵の開始を証明つける出土品を中心に紹介し、硬い焼物つまり須恵器については省略する。

羽口は鉄の溶解に不可欠の炉に風を送る管であり、砥石は刃物を研ぐには不可欠である。先にも記したように出品番号240ー249までの紹介は省略する。

<続く>


伽耶展(18)

2023-10-25 07:37:29 | 日本文化の源流

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第二部 渡来人

第7章 渡来人と生きる・続編

朝鮮半島南部(弁辰)から長野県木島平村まで伝来した品々で、半島南部との交易は北部九州にとどまらなかった。

第7章の展示品は上掲の出品番号197以降、230まで存在するが紹介は省略し、次回は『第8章』の展示品を紹介する。

<続く>

 


伽耶展(17)

2023-10-22 08:13:57 | 日本文化の源流

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第二部 渡来人

第7章 渡来人と生きる

またまた中断していたが戻る。列島において3-4世紀までの倭人の国際交流拠点は、北部九州にあった。博多湾に面した福岡市の西新町遺跡からは、3世紀から4世紀に地元の北部だけではなく近畿や山陰などから集まった人々が、朝鮮半島から渡来した人々と混在していた痕跡(先述の各地の土器が共伴していた)が確認されている。しかも当遺跡からは鉄素材として使われる板状鉄斧が出土したことから、ここに集まった倭人は渡来人から鉄などを入手していたと考えられる。

このように4世紀以前、日本列島と朝鮮半島間の人の移動は、主に北部九州と半島南部との間で起こっていた。倭人にとって農耕や武器の素材として鉄は不可欠なものであったから、それを供給する朝鮮半島南部との交流は、倭人にとって自らの社会の命運を左右するものであった。

したがって5世紀初頭前後に増加する渡来人に、伽耶南部地域の人々が多く含まれていたことは、5世紀の倭が伽耶の鉄に依存していたことの表れであり、渡来人と共に暮らしていた集落が多々存在していたと思われる。

船の線刻埴輪、このような舟を用いて渡来したと思われる。ようすから準構造船と思われ、対馬海峡を横断して九州に渡来したものであろう。

以下、西新町遺跡から出土した朝鮮半島と日本各地の土器である。

今回はここまでとする。

<続く>


古代『タ二ハ(丹波)王国』を巡り京都へ

2023-10-19 08:54:30 | 旅行

過日、3カ月ぶりの京都である。今回は古代タ二ハ王国の故地である但馬、丹後経由で行くことにした。

出石神社

但馬一之宮。天日槍(あめのひぼこ)を祀る。垂仁朝に奉持していた八種(やくさ)の神宝を八前大神として祀ったとされる。天日槍は新羅から渡来したとされる。天日槍の子孫が田道間守(たじまもり)とされている。

『播磨国風土記』は、天日槍と葦原志許乎命(大国主命)が宍粟の土地を巡って争ったと記している。その後、播磨国宍粟邑から莵道河(宇治川)を遡って近江国吾名邑に滞在し、近江から若狭を経て但馬国に至ったと云う。

田舎・出雲から山陰道経由で海をみながら但馬に至ると、天日槍は何故、瀬戸内経由但馬に至ったのか理解できない。新羅からダイレクトに但馬に至るのが筋道と思われるが・・・。

袴狭(はかざ)遺跡出土線刻板絵 4世紀初

いずし古代学習館にて上掲の板絵を見た。大船団の板絵の一部を拡大して写した。上掲の天日槍もこのような船団を組織して、新羅から但馬に渡海したものと思いたい。

辰鼓楼

出石と云えば、辰鼓楼と出石蕎麦。辰鼓楼は出石城三の丸大手門脇の櫓台に、時刻を知らせる太鼓を叩く櫓として建てられたとのこと。出雲蕎麦の味に慣れている者にとっては、出石蕎麦はイマイチか。

立岩

間人(はしうど)皇后と聖徳太子幼年像

伝承によれば、第31代・用明天皇の后である間人皇后とその子・聖徳太子が、この地で鬼退治をした時、一夜のうちに天から降りてきて、この大岩に鬼を封じ込めたという。柱状節理が素晴らしい。

与謝野町立古墳公園 作山1号墳から2号墳方向を望む

これが見たかった。温江(あつえ)遺跡出土の鶏冠人面土器片(弥生後期)である。鳥装の人たちが南海から丹後半島に遣って来たとの想念に駆られた。

元伊勢・籠神社

倭宿祢命像

倭宿祢命は彦火明命(海部宮司家先祖)4代目にあたり、神武東征伝承で神武が明石海峡に到着したとき、亀に乗って現れ案内をしたという。

京・太秦 木嶋坐天照御魂(このしまにますあまてるみたま)神社

元糺ノ池の三柱鳥居

木嶋坐天照御魂神社は別名・『蚕の社』とされている。それは本殿の右側に養蚕神社が建っていることによる。秦氏との関連が取沙汰されている。

三柱鳥居は大変珍しい。泉が湧く場所を神の宿る場所として鳥居で囲んだ。祭神である天御中主神が降臨する処と云われている。

 

<了>