世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

愛知・南設楽:ヨコタ博物館#6(最終回)

2016-12-21 07:49:55 | 博物館・愛知県

<続き>

北タイ山岳民族の衣装が展示されている。その1部を紹介して最終回としたい。下の衣装はヤオ(瑶:ミェン)族女性の上着で、襟の赤色のマフラーが特徴である。

(ヤオ族女性上着)

 

(ヤオ族男性上着)

 

(ヤオ族男性上着)

 

(ヤオ族女性用後ろ掛け)

 

(モン(Hmong・苗)族男性衣装)

 

(モン族おんぶ布)

 

(アカ族上着)

 

(アカ族上着)

 

(アカ族被り物)

 

(ラフ族上着)

多くの衣装が展示されているが、この程度にしてヤオ族が信仰する道教神像を紹介する。

 

北ベトナムに居住するヤオ族もまた道教を信仰している。彼らは漢字の読み書きができ、中国文化を濃厚に引き継いでいる。
チェンマイ市内のギャラリーなどを覗くと、道教神を描いた今できの画布を展示・販売している。


                                  <了>


愛知・南設楽:ヨコタ博物館#5

2016-12-20 07:11:09 | 博物館・愛知県

<続き>

紀元前2000-1000年・先史時代のバンチェン土器の優品もコレクションされていた。しかも、それなりの数である。個人的には興味はなく、従って紹介するほどの知識をもっていないので、写真を貼りつけるのみであるが、お許し願いたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

直上の大壺の文様は、バンチェンでは代表的な文様であろう。このように様々な文様が丁寧に描かれており、どれも緩みがない。先史時代の人々にも美的感覚に優れた人々が存在した証である。
器は、壺が大半である。これは食べ物の貯蔵用途であったのであろう。穀物はあったのか、なかったのか?木の実や塩などの保存にも使われたのか?
ワイングラスのような土器もある。皿や鉢は見かけない・・・これはバナナの葉で代用したのか?いずれにしても紀元前2000-1000年頃の、先史時代人はグルメであったろうことを想像させる、展示であった。




                                  <続く>


愛知・南設楽:ヨコタ博物館#4

2016-12-19 07:33:23 | 博物館・愛知県

<続き>

前回、末尾に次回はスコータイ陶磁を紹介すると記していたが、シーサッチャナーライ陶磁の誤りである、お詫びして訂正しておく。但しヨコタ博物館ではサワンカロークと、キャップションに表示されている。

 

 

 

 

青磁合掌人物騎象壺で、薄い青磁釉の上に涙痕のような流痕をみる、それがひとつの景色となっている。シーサッチャナーライ陶は専門外なので、数多くは見ていないが、初見の壺である。

 

 

 

 

黒褐釉陶には、クメールとモン(MON)の翳を見るのだが、果たしてどうであろうか?




                                   <続く>


愛知・南設楽:ヨコタ博物館#3

2016-12-17 09:12:33 | 博物館・愛知県

<続き>

無釉焼締めの四耳大壺が、13世紀・スコータイとキャップションにある。時代認識は置いておくとして、窯場はスコータイではなく、スパンブリーのバン・バンプーン窯と思われる。それは肩に巡る象文様の特徴から、そのように判断される。

 

下は、キャップションによると青磁釉刻文壺・スコータイ・13世紀頃とある。全体的な姿形は上掲のスパンブリー象文無釉壺に似ている。口縁はラッパ形に開くが、スパンブリーに比較しやや短頸である。胴は大きく膨らみ、胴裾に向かって大きく窄む姿は、双方同じである。

 

 

頸下から肩にかけて、四区に圏線文で区切られ、各々異なる刻文をみる。文様は異なるものの、シーサッチャナーライ61番窯博物館に、このような壺と思われる陶片が展示してある。それは写真と同様に肩に刻文が巡る、61番窯博物館はそれをモン陶としている。
・・・とすれば、写真のヨコタ博物館・青磁刻文壺はモン陶であろうか?モン(MON)陶=モン(MON)族については、学術的に証明はされていないが、イコールの図式が成立していると信じている者にとっては、骨董的にも資料的にも価値の高い壺である。
最初の無釉象文壺はスパンブリー産である。スパンブリーは古代のダヴァラバティーやロッブリー王国の故地で、モン族国家であった。その同族がシーサッチャナーライの最初期段階で焼成したと云えば、この両者の関係を都合よく説明できる・・・もう少し脇を固める必要があるが、蓋然性の高い話だと考えている。
以下、キャップションにスコータイと表示されている陶磁を紹介する。なかには明らかにシーサッチャナーライと思われる陶磁を、スコータイと表示してある事例があり、スコータイとして紹介するが、正否の自信はない。

 

 

次回はスコータイ陶磁を紹介する。




                                  <続く>


愛知・南設楽:ヨコタ博物館#2

2016-12-16 09:13:19 | 博物館・愛知県

<続き>

クメール陶の続きを紹介したい。クメール陶独特の蓋(これはシュメール山を現わすであろう)を持つ黄釉の水注で、キャップションによると7-8世紀とある。この時代観は1-2世紀早いと思われるが、クメール陶の最初期の焼物であろう。

 

黒褐釉波状文線刻壺で12世紀と記されている。この時代になると黒褐釉で彩られる焼物が主流となり、技術的には後退していく印象である。

 

(黄釉花弁線刻文壺・10世紀)

時代が古い焼物は、黒褐釉一辺倒ではなく、写真のような黄釉(灰釉)も存在している。

(黒褐釉人面壺・9世紀)

 

 

以上がクメール陶の展示であった。最近、クメール陶に関する図書や図録を目にするようになったが、いずれも日本人著者のものであった。過日、ブログ<の~んびりタイランド2>氏より、タイ芸術局発刊の英文書籍の主要部分を送付して頂いた。

そこには、ブリラムのクメール陶磁について簡潔にまとめられている。以下、字面ばかりで恐縮であるが、要点を紹介したい。

ブリラム県は、タイ王国の北東部の南半分に位置している。南はカンボジアと国境を接する。航空写真からバライと呼ばれる貯水池と一緒に、堀や煉瓦壁に囲まれた136の古い遺跡を認めることができる。
これらの遺跡はMun川とChi川の間に位置している。そしてすべての遺跡から施釉と無釉の陶片が発見された。それらの幾つかは、廃棄された陶片の厚い層を有していた。ブリラム県内のすべての郡に、これらの遺跡が在ることから、スコータイと同じように遺跡に窯があったことを表している。
しかしながら、発見後の研究からブリラム窯の方が、スコータイのそれよりも早い段階に栄えていたと推測される。
ブリラム県のKhok Lin Fa窯及び同県内の他窯を含めた考古学的発掘の結果、同じ時期に類似した焼物を焼成していることが分かった。窯の形状は楕円形(当該ブロガー注:調査報告にはオーバル形状とあるが、ナイジアン窯址を現認すると、角はやや丸みがあるが、長方形に近い)で、典型的なものは幅1.5m縦が15m程である。枠組みは竹で、そこに粘土を貼り付けてある。そのことは、竹の格子跡が残る焼成土の塊から想定され、それらの散乱物は県内の窯体のすべての現場で見つかっている。
ブリラムの窯形状は、サンカンペーンやウィアン・カロンと類似している(当該ブロガー注:サンカンペーンやカロンへ実際に出向き、ナイジアン窯と比較すると似て非なるものがある)。それらは粘土で築窯されており、スコータイやシーサッチャナーライの煉瓦構築窯とは異なる。
ブリラム窯の幾つかの興味ある特徴は、窯の支柱が2列で在る点で、それはBan Khok Yai窯(Non Chareurn副郡)、Ban Kruat郡そしてKhok Lin Fa窯(Baranae副郡)、Lahan Sai郡で見ることができる。それらは窯の屋根を支えるために建てられたものであろう。窯は3つの部分に分かれる。それはスパンブリー、サンカンペーンやスコータイと同じである。
 燃焼室は焼成室より一段低い
 焼成物を配置した焼成室
 排煙の煙突
窯は、南北軸に配置されている。これは多分、陶磁生産が乾季の北から南へ流れる風を利用するためであろう。窯址の陶片の散乱から分かることは、ブリラム県内では類似した陶器が生産されていたと思われる。
焼成に際しては、陶器の形状によって、窯内の配置場所が決まった。ボウルなどの容器と壺や瓶は、窯の高さにより振り分けられた。焼成物と焼成物の間には、小さな焼成具が置かれた。それらは現場から大量に発見されている。面白いことに重量物の陶器は、焼成床の上に配置された牛糞の上に載せて焼成された。
ブリラム県内の各窯址で見つかった中世に生産された陶磁の大部分は、多かれ少なかれ同じようなものである。それらには無釉陶だけではなく、施釉陶も含まれている。
実際には違いもある。時々、黒褐釉陶よりも緑釉陶(日本では何故か黄釉と呼ぶ灰釉陶のこと)が多く生産された時もあった。対照的に、幾つかの窯は施釉陶より無釉陶を中心に焼成した。しかしながら、すべての窯が同じような形状の品物を生産した。それは、カボチャや柿などの盒子、鳥の形をした盒子や小壺、そしてヤギ、馬、兎などの形をした置物である。

 

(当該ブロガー注:写真は、ワット・シーサワン境内の布袋像である。そこには周辺から出土した多数の陶片が貼り付けてある。黒褐釉だけではなく、黄色じみた褐色、灰色、青磁色などバラエティーに富んでいる。下写真の陶片は、ナイジアン窯址周辺で表採したものである。写真がやや暗く写っているが、右の2点は青磁以外の何物でもない。また左下は、日本で云う伊羅保釉のような発色であり、多様な発色を示している。)

書籍に戻る。更にケンディー、盤、鉢、鉢状の燭台、細長くて精巧な蓋付の水注、瓢箪型水注、高さが30-80cmで肩に装飾をもつ壺などである。
これらの中の幾つかの壺・瓶は、頸部に人面の装飾を持っている。他の壺・瓶は、象や馬の頭部が肩との間に装飾されている。人面や動物頭部の側面には、他の装飾を見ることができる。それは蓮弁、刻線、一重および二重の格子、ジグザグ(鋸歯)、波状の各文様、様々な円形モチーフ、櫛歯による文様である。
全てのモチーフの中で、最も興味深いのは、壺やケンディーの頸部に装飾された人面や象、馬の頭部の装飾である。それらは造形後、施釉され焼成された。

   ・・・以上である。


                                  <続く>