世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

ペナンのマハ・マリアマン寺院にて

2014-10-31 09:54:22 | 旅行
 2014年7月、3度目のペナン島である。過日、ドラヴィダ式のヒンズー教寺院であるマハ・マリアマン寺院に行ってみた。当地は、南インドやスリランカから移住してきたタミール人が多く、病気を司る女神のマリアマン神が主神である。
訪問した時、寺院は改装中で、その中央にあるべき黄金柱は、基礎を残し分解して梱包保管されていた。その黄金柱について、寺院を管理しているであろうと思われる男性に質問すると、祭事に旗をたてるものだという・・・。個人的にはヒンズー教三主神かインドラ神の柱と考えていたので、当てが外れたかたちである。
 帰国後調べてみると、やはり旗竿で大きな祭事や儀式が行われる数日前に、旗が掲げられるとのことであった。下の写真は改装前の黄金柱(旗竿)である。


 曲解であろうが、これはリンガとヨーニ(台座)のように思われ、北タイで云う『インドラ神の柱』である。・・・旗竿に間違いないのだが、そう思いたい。
 
 その黄金柱(旗竿)の左右前面に鎮座するのが、左のガネーシャ、右の少年神ムルガンである。ヒンズー教三主神では、写真の踊るシバ神像(別名:ナタラージャ)とその配属神パールヴァティー(別名:ミナクシ)を見ることはできたが、ブラフマー神とビシュヌ神像は見ることができなかった。多分見落としかもしれないし、案外この両神像はなかったかもしれない。

 インドラ神はベーダ神話では最高神であったが、ヒンズー教ではその地位が下がり、今日の東南アジアのヒンズー寺院では、その偶像を見る機会がない。
 下の写真はチェンマイ・ワットドイカムのインドラ神像である。


 北タイではインドラ神(帝釈天)やブラフマー神などのベーダ神話におけるバラモンの神々と土着信仰が混交し、そこに上座部仏教が伝播してきたもので、当該ブロガーからみると何でもありの仏教に見える・・・。
 下の写真は、チェンマイ遷都前にメンライ王が都を置いた、ウィアン・クムカームにあるワット・チャンカームの布薩堂正面入り口のインドラ神(帝釈天)で、3つ頭のエラワンに騎乗している。


 ワット・ドイカムやワット・チャンカームのインドラ神像は何れも近代のものであり、これらが単純に中世の風景とつながるものではないが、中世の後期大乗仏教を背景にした、土壌があってのことであると考えている。
 ところで、マハ・マリアマン寺院にて、信者であろうと思われる人が、祈祷を受け手首に赤い糸を巻き付けてもらっていた。これをプジャ・モーリと呼び、日時が経過すると、糸が切れて自然に手首から消えてゆく、そうすると幸運が訪れるという。
 これは北タイでサーイシンと呼び、手首に木綿糸を僧侶がまいてくれる慣習と同じである。自然に切れるまで外すなと、タイ人に釘をさされたことを思い出した。それ程タイは、バラモンやヒンズーの影響を受けた土地柄であったのである。





チェンマイ民族(俗)博物館

2014-10-24 07:57:33 | 博物館・タイ
 英字ではLanna Folklife Museumと表記されている。当該博物館を紹介しているHPやブログは多いので、ここでは陶磁器の展示を中心に紹介する。

 カロン陶磁は7-8点展示されている。それ以外の北部諸窯陶磁は2-3点の展示で物足りなさを感じるが、概要を知る程度であるとの前提で、見学すればよいと感じる。

 先ずランパーンとパヤオ陶磁である。各窯ともに写真の1点づつの展示であるが、その1点が窯のそれなりの特徴を示している。ランパーンは黒褐色の呈色を示す二重口縁壺で、雲南南部から北タイにかけてみることができる、特徴的な器種である。パヤオは印花双魚文盤で、パヤオの印花魚文は腹側に2箇所の鰭をもつが、展示されている盤もその特徴を備えている。

 パーン窯は北タイでは、比較的緻密な胎土の青磁を焼成することで知られている。写真の耳付き花瓶と碗は、青磁色の発色が弱く透明釉を掛けたようにもみえる。

 展示されているナーン陶磁の2点は、いずれも出土品であるが、描かれる鉄絵文様はシーサッチャナラーイ、スコータイとの類似性より、サンカンペーンとの繋がりを感じさせる。

 カロンの欠けた盤は、鉄絵による鳥文で、代表的な絵柄である。後ろの青磁盤はワンヌアで、輪花縁を持ちカベットに鎬文様が、表された代表的な盤である。


 上の写真2葉は、サンカンペーン陶磁である。先ず上の写真であるが、口縁部が立ち上がった環耳広口壺、二重口縁壺、鉄絵双魚文盤はいずれも代表的な器形および絵柄である。下の黒褐色に呈色した広口壺もよく焼成された。



 これらはカロン陶磁である。最初は鉄絵鳥文様の鉢、次が聖鳥とされるハムサを見込みに描いた盤で寸法もあることから、代表的な作品の一つと思っている。その次の口縁が欠けた玉壺春瓶はカロン白磁で、欠けた部分を見ても分かるように、胎土はきめ細かく何か精製されたようにも感ずる。

 これもカロンで、社会生活の場面を映した人形である。タイではシーサッチャナラーイの人形が知られているが、それらは鉄彩の描きこみがあるが、カロンの人形にはそれはない。従って造形の巧みさを伺うことができる。
 つぎの肖形物もカロンであろうか?キャップションがないので分からないが、これもカロンとすれば、初見である。

 以上、紹介してきた陶磁は、J・C・Shaw氏のコレクションで、博物館に貸与した品々である。氏のコレクションの品数は多く、それらが一堂に展観される日が来るのを待ち望んでいる。


チェンマイ芸術文化センター&歴史博物館

2014-10-22 15:29:26 | 博物館・タイ

 チェンマイ芸術文化センターと、その裏手の歴史博物館、及びプラポッグラオ通りを挟んで向かいの、ランナー民族(俗)博物館の3館を見学した。今回は芸術文化センターと歴史博物館を紹介する。尚、紹介する展示物は当該ブロガーの興味深いものだけで、多少偏っていることを御許し願いたい。
 
 芸術文化センターは3王像広場の後ろに位置しており、次の写真の歴史博物館は芸術文化センターの裏手にあたる。

 民族(俗)博物館との3館共通入館券は、外国人の場合180Bでタイ人の40Bと大きくことなる。過去当地に4年半滞在しており、その時の古い運転免許証を提示したら、写真の40Bの入館券をゲットできた。



 先ず写真のChiangmai Legends (in Relation to the Lua community)なるボードを紹介したい。多少長文であるが御許し願いたい。
 チェンマイは、ステープ山麓に位置している。多くの伝説がメンライ王前期にチェンマイは、存在していたとする。スワンナカムデーンやインターキン年代記類に依ると、3つのルア族(ラワ族と同義、以降ラワ族と表記)の都市国家が存在していた。それはチャタブリーないしはウィアン・チェットリン、ノッブリーとウィアン・スワンドークであった。
 その後メンライ王は、ランナー王朝の王都を定めた。彼はラワ族社会と良好な関係を持っていたと云う。Chinakarn Maleeprakorn(知らないのでボードの表現をそのまま転写)年代記によれば、彼はラワ族が、ケーランナコーン(ランパーン)都市国家が支配できるよう、その地を割り当てた。チェンマイが確立された後も、ラワ族社会は同じままであった。多くの年代記類は、王が僧侶として叙階されるラワ族の人を任命していることに言及している。
 ラワ族の人々は、ランナー王国内の多くの地域に居住し、他の民族グループと関係を持っていた。パヤオの伝承によれば、ラワ族の人々は彼らの農園で作物を栽培し、それをタイ族に販売していた。スワンナカムデーン年代記によると、タイ族はラワ族の生活様式に学び、それに従っていると言及している。
 ラワ族の伝統は、彼らの居住地で観察することができる。彼らの新居の祝いは特徴的で、新築した家に犬をまず案内するという。カゥイラ王がチェンマイを支配した時、この式典が行われ、彼を祝福し、良い未来がくるように祈った。
 ラワ族は現在も、古い習慣や伝統を維持し、実行している。プーセ・ヤーセ祭祀とに敬意を払う儀式は、いまだ毎年行われ、伝統を継承している。プーセ・ヤーセの祭祀は、社会の人々に敬意を払い、祝福するために行われ、平和な社会生活を祈願する。この祭祀はドイ・カムの山麓で行われる。祭祀の式典ではチェンマイのサオ・インターキン(国の御柱)に似たような、Sagang柱(村の祖柱)に礼拝する。
・・・とある。

 写真はチェンマイ王が即位儀礼の際、犬を連れたラワ族(白い服を着た先導者)が王の先駆けとして、白象門(チャンプァック門)より城内に入城するジオラマである。

 写真は、布薩堂内部を模したものである。ここでもランナーらしさを感ずることができる。本尊前面のSattaphan(蝋燭立て)は須弥山を模したランナー独特のものである。


KANTALY HILLS Chiangmai

2014-10-21 07:49:33 | チェンマイ
 冬季にチェンマイで、長期滞在したく先日下見に出かけ、合わせて8か所の下見をした。それなりに宿泊できそうな処は、5か所ほどであったが、いずれも12月から翌年2月一杯は、予約で満室とのことで、この時期のチェンマイでの長期滞在は困難なようである。
 今回、下見した中ではカンタリー・ヒルズが最良で、前評判通りであった。しかし月極め料金は、日本円で24-25万円でダントツに高いが、サービス、施設、清潔度等々すべてにわたり満足度は高い。
 欠点ではないが、残念に思ったのは、部屋にアイロンとアイロン台は設置されておらず、3階の共用部分に設置してあり、少々不便である。シーツ、カバー類の交換は週3回、タオル類の交換は確か毎日であったと思う。
 正面向かって左の建物の1階がラウンジで、コーヒー、紅茶、スナック類はフリー・チャージで、多くの人がインターネットを利用している。
 プールは3階の共用フロアーに設置されており、その手前はフィットネスセンターになっている。
 部屋はシャワーとバスタブが備えられており、浴槽付きは嬉しい。


 受信可能TVはNHK、TV東京、朝日放送、フジ、TBS等合わせて8局受信可能である。



続々 チェンマイのワット・ドイカム

2014-10-20 10:12:19 | 北タイの寺院

ラーチャプルック花博公園前を右折して、暫く道なりに進むと写真のワット・ドイカムの案内板が見える。左折すれば自動車で丘上の境内まで進むことができ、右折すれば徒歩にて階段を上ることになる。

その案内板の奥に、プーセ・ヤーセの祠がある。何時ごろ建立されたのか、タイ字が読めないので、ここに記載できないが、近年の建立と思われる。

このドイカムでプーセ・ヤーセは信仰されており、夫婦の人喰い鬼(ヤック)であるが、これもラワ族であるといわれている。大昔、プーセ・ヤーセは人肉を食べる鬼として、ラワ族に恐れられていた。その頃、この地に仏陀が訪れ、人々に仏法を伝授していたが、プーセ・ヤーセは全く耳をかそうとしなかった。そこで、仏陀が目の前で奇跡を起こして見せると、恐れおののいたプーセ・ヤーセは改心して、人喰いを止めた。
しかし、人肉の代わりに獣の肉が食べたいと言い出した。人々は、毎年5月か6月頃に水牛を一頭生贄にする儀式をし、プーセ・ヤーセはその礼として人々の守り神となった・・・という、伝承が伝えられている。
行って見たのは、正午ころであったが、多くの人々が参拝に訪れ、花を手向けて何か祈っている。狭い祠では10数名の人々で溢れ、祠の外にも待機している。

中華圏では鬼は忌み嫌われる存在である。しかしここでは、怖い存在ではあるが、人々の参拝対象となっている。日本でも鬼が島の鬼退治や秋田の『なまはげ』等、怖い存在ではあるが、なんとなく親しみさえ感じる。ここにもラワ族と日本の深層での繋がりがあるのであろうか?。