縄文も長江文明と連動していた
以下、安田教授の著述内容である。”三内丸山遺跡が発展した時代は、まさに長江文明が発展した時代に相当している。遺跡からは、巨大な掘立柱建物跡や木柱根、大量の土器を廃棄した盛り土、整然と配置された墓地、そして漆塗りの木製品、樹皮で編まれた籠、翡翠の石笛、大量の土偶や骨角器など目を見はる出土物が出た。
(三内丸山遺跡出土品 出典・青森県三内丸山遺跡センターHP)
(三内丸山遺跡出土品 出典・青森県三内丸山遺跡センターHP)
遺跡の北端から幅15m前後、深さ3~5mの谷が発見された。この谷は縄文時代前・中期の遺物廃棄ブロックと名づけられた。この谷底に堆積した泥炭層の中からは、木製品など大量の人工遺物が発見されている。その中の木片をC14年代測定したところ、5700~3500年前の間に形成されたものであることが判明した。
さらに花粉分析すると、クリやクルミなどの花粉が出現率が高く、クリは異常に高い出現率を示し、90%以上に達するところもあった。この異常に高い率は、明らかに縄文人たちが意識的にクリを栽培していたことを物語っている。三内丸山遺跡の集落の周辺にはクリ林が広がっていたのである。
そのクリとともに、人々に重要な食料を提供したのは、豊富な解散資源であった。遺跡は青森湾を見下す小高い台地の上に立地していた。魚は縄文人にとって重要なタンパク源を提供した。
三内丸山遺跡からは、漆のほかにヒョウタン、エゴマ、それにマメ類など、、南方の文化的要素を示す出土遺物も検出されている。さらに鹿角斧とよばれるシカの角で作った道具も出土した。このような栽培作物、それに道具は、縄文時代前期の福井県・鳥浜貝塚からも出土している。そのルーツは中国・江南の長江下流域の河姆渡遺跡にまでいたると云うのが、安田教授の仮説である。
(鹿角製道具類 出典・青森県三内丸山遺跡センターHP)
鳥浜貝塚と河姆渡遺跡の出土遺物はきわめて文化的類似性が高い。ところが河姆渡遺跡ではすでに7600年前から稲が栽培されていたが、鳥浜貝塚ではその証拠がない。しかし、双方ともに漆を使用し、ヒョウタンやマメ類、エゴマを栽培し、狩猟・漁撈活動を行っていたのである。
この高い文化を誇った三内丸山遺跡が縄文時代中期末の4000年前に突然放棄された。その原因として長江文明を衰亡させた4200~4000年前の気候寒冷化が深く関与していた。三内丸山遺跡の縄文時代前・中期の遺物廃棄ブロックは、縄文時代中期末から後期にかけて急速に埋まっていった。谷の堆積は同時に下流の青森湾の堆積も促進した。
豊かだった湾が洪水の増加によって埋積され、海退によって海が沖合に遠のくと共に、魚介類が獲れなくなった。洪水を頻繁にさせる気候の悪化は、主食のクリの不作をもたらした。食糧危機に直面した人々は、豊かな南の大地を求めて三内丸山遺跡をあとにしたと思われる。長江文明の衰亡と縄文時代中期の文化の崩壊は、4200年前に始まる気候変動に連動した事件であった。”・・・以上である。
<続く>