世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

タイ王国の九九

2021-08-31 07:14:19 | タイ王国

昔話で恐縮である。1995年から4年半、タイ北部ランプーンの北部工業団地内で操業するM社に出向していた。

当然ながら周囲はタイ人社員である。彼らと話をしていると、やけに暗算が早い。それも一人や二人ではなく、多くの人びとがそうであった。一方で話しが熟してくると、マイペンライ(気にしない・どうでも良いよ)の世界になってくる。この対極とも思える頭はどうなっているのか、多少なりとも奇異に思ったものである。

その後、必要に迫られてタイ製のノートを購入した。その裏表紙を見ると上掲写真のようにタイ式の九九が印刷されていた。その最大数は25×12=300である。日本の九九の最大数は2桁81である。道理で暗算が早いのが分かった。タイに算盤を持ち込めば、暗算チャンピオンがでるのでは・・・と、思っていたことを思い出した次第である。

<了>

 


稲作漁撈文明(拾六)

2021-08-31 06:54:29 | 日本文化の源流

気候変動と稲作の伝播

以下、安田教授の著述内容である。”東アジアにおいて3500~3200年前の気候寒冷化の時代、民族移動の嵐が吹き荒れた時代であった。3500年前に始まり、3200年前に極限に達する寒冷化期に、東アジアでは再び北から周を代表とする畑作牧畜民の侵入があり、中国は春秋戦国の大動乱の時代へと突入した。この時代にも大量の難民が雲南や貴州に移動するとともに、メコン川や紅河さらにはイラワジ川を下って、東南アジアへと人々が大移動した。

日本列島にソバの栽培や水田稲作が伝播するのがこの時代であることは、この気候悪化の影響を受けた人々が民族移動によってやって来たためであるとみなすことができる。

東南アジアの稲作の開始は、4200年前の気候寒冷化による稲作漁撈民の移動にさかのぼる。インドネシア・バリ島では稲作の起源は4300年前までさかのぼることが指摘されている。しかし、東南アジアに水田稲作農業が広く拡大普及するのは、この3500年前頃から始まる気候悪化期以降であろう。・・・以上である。

教授によれば、日本へ水田稲作が伝播したのは3200年前の縄文後期から晩期にかけての時期で、東南アジアには4200年前に伝播したと述べられている。水田稲作の日本への伝播は縄文晩期との説は定説化しつつある。弥生時代以前であったのだ。

写真はWikipedia掲載の唐津・菜畑遺跡の復元水田で、日本最古と云われる2500年前頃の水田である。してみれば、後年か後世に3200年前頃の水田跡が発見されるであろう。

<続く>

 


稲作漁撈文明(拾五)

2021-08-30 08:08:31 | 日本文化の源流

縄文も長江文明と連動していた

以下、安田教授の著述内容である。”三内丸山遺跡が発展した時代は、まさに長江文明が発展した時代に相当している。遺跡からは、巨大な掘立柱建物跡や木柱根、大量の土器を廃棄した盛り土、整然と配置された墓地、そして漆塗りの木製品、樹皮で編まれた籠、翡翠の石笛、大量の土偶や骨角器など目を見はる出土物が出た。

(三内丸山遺跡出土品 出典・青森県三内丸山遺跡センターHP)

(三内丸山遺跡出土品 出典・青森県三内丸山遺跡センターHP)

遺跡の北端から幅15m前後、深さ3~5mの谷が発見された。この谷は縄文時代前・中期の遺物廃棄ブロックと名づけられた。この谷底に堆積した泥炭層の中からは、木製品など大量の人工遺物が発見されている。その中の木片をC14年代測定したところ、5700~3500年前の間に形成されたものであることが判明した。

さらに花粉分析すると、クリやクルミなどの花粉が出現率が高く、クリは異常に高い出現率を示し、90%以上に達するところもあった。この異常に高い率は、明らかに縄文人たちが意識的にクリを栽培していたことを物語っている。三内丸山遺跡の集落の周辺にはクリ林が広がっていたのである。

そのクリとともに、人々に重要な食料を提供したのは、豊富な解散資源であった。遺跡は青森湾を見下す小高い台地の上に立地していた。魚は縄文人にとって重要なタンパク源を提供した。

三内丸山遺跡からは、漆のほかにヒョウタン、エゴマ、それにマメ類など、、南方の文化的要素を示す出土遺物も検出されている。さらに鹿角斧とよばれるシカの角で作った道具も出土した。このような栽培作物、それに道具は、縄文時代前期の福井県・鳥浜貝塚からも出土している。そのルーツは中国・江南の長江下流域の河姆渡遺跡にまでいたると云うのが、安田教授の仮説である。

(鹿角製道具類 出典・青森県三内丸山遺跡センターHP)

鳥浜貝塚と河姆渡遺跡の出土遺物はきわめて文化的類似性が高い。ところが河姆渡遺跡ではすでに7600年前から稲が栽培されていたが、鳥浜貝塚ではその証拠がない。しかし、双方ともに漆を使用し、ヒョウタンやマメ類、エゴマを栽培し、狩猟・漁撈活動を行っていたのである。

この高い文化を誇った三内丸山遺跡が縄文時代中期末の4000年前に突然放棄された。その原因として長江文明を衰亡させた4200~4000年前の気候寒冷化が深く関与していた。三内丸山遺跡の縄文時代前・中期の遺物廃棄ブロックは、縄文時代中期末から後期にかけて急速に埋まっていった。谷の堆積は同時に下流の青森湾の堆積も促進した。

豊かだった湾が洪水の増加によって埋積され、海退によって海が沖合に遠のくと共に、魚介類が獲れなくなった。洪水を頻繁にさせる気候の悪化は、主食のクリの不作をもたらした。食糧危機に直面した人々は、豊かな南の大地を求めて三内丸山遺跡をあとにしたと思われる。長江文明の衰亡と縄文時代中期の文化の崩壊は、4200年前に始まる気候変動に連動した事件であった。”・・・以上である。

<続く>

 


稲作漁撈文明(拾四)

2021-08-29 07:58:30 | 日本文化の源流

寒冷化と民族移動

以下、安田教授の著述内容である。“4200年前の寒冷化は、黄河流域を本拠地とする北方・畑作牧畜民の南下を引きおこした。彼らは馬に乗り青銅器の武器を手にしていた。怒涛のような畑作牧畜民の侵略によって、長江文明の担い手であった稲作漁撈民は、雲南や貴州の山岳地帯へと落ち延びたであろう。また海岸付近の百越の人びとはボート・ピープルとなって太平洋や東シナ海に漕ぎだした。東シナ海の先は日本列島である。その南への移動が台湾からミクロネシア・ポリネシアへの大航海による民族移動の契機となったであろう。”・・・以上である。

百越の人々が東シナ海へ漕ぎだし、日本列島へ渡海したとの裏付けは、今後紹介していくが、縄文人は呉越のみならず朝鮮半島と交易した形跡が存在する。

釜山博物館(釜山広域市立博物館)に東三洞貝塚で出土した、大量の縄文土器と九州産の黒曜石が展示されているという。過去の訪問時には残念ながら記憶にないのだが・・・。朝鮮半島には独自の土器が在り、そこで出土する縄文土器とのコントラストは明らかで、縄文人が遣って来た証左である。

(釜山広域市立博物館)

森浩一氏によると、長崎県多良見町伊木力(いきりき)の大村湾で、湖沼用とは異なる丸木舟が出土したと云う。復元すると長さ6.5m、幅1.2mで7-8人は乗れ、五島へ行ったり、朝鮮半島に行くことができたであろうと云う。その森浩一氏と対談した司馬遼太郎氏が記すのは、五島の若い衆が昭和の初年まで朝鮮半島へ小遣い稼ぎに、タワシとかタオルを売りに行った。それは手漕ぎ船であったと、対談集に記されている。縄文人は渡海したのである。

(於・兵庫県立考古博物館 これは湖沼用の丸木舟であろうが、森浩一氏の記事をみていると、これの一回り大きい丸木舟も存在していたようだ。)

<続く>