世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

出雲の「八」と宇佐八幡の謎

2024-07-09 08:40:32 | 古代出雲

日本の古代は覇を競い合う、血なまぐさい時代であった。その時代の妄想にちかい噺である。

出雲は「八」の呪縛かと思うほど「八」が溢れている。“八雲立つ、八重垣、八挙鬚(やつかひげ)、八岐大蛇、八塩折乃酒、八千矛、八重事代主、八百万神、出雲大社の八足門、更には八口神社”等々である。

「出雲国風土記」意宇郡国引き神話条の冒頭部分は、以下のようになっている。

“意宇(おう)と号くる所以は、国引き坐しし」束水臣津野命(やつかみずおみづぬのみこと)、詔りたまひしく、「雲立つ出雲の国は、狭布(さぬ)の稚国なるかも。初国小さく作らせり。故、作り縫はな」と詔りたまひて、「栲衾志羅紀乃三埼(たくぶすましらぎのみさき)を国の餘りありやと見れば、国の餘りあり」と詔りたまひて”・・・と記し、“綱を引き来縫へる国が、穂米支豆支(やほしなくづき)の御埼”であったと記している。

国引きレリーフ・八束水臣津野命 出雲市大社町にて

この冒頭だけでも「八」は三度登場する。注目すべきは、八穂米支豆支の御埼を新羅から引き寄せたとする箇所である。新羅で思い返されるのはスサノオである。スサノオは「雲立つ 出雲重垣 妻籠みに 重垣作る その重垣を」なる、詞を詠んだとされている。まさに「八」尽くしである。

スサノオと清之湯山主三名狭漏彦八島野命を祀る須我神社

そのスサノオは、天から追放されて新羅の曽尸茂梨(そしもり)に降り、この地吾居ること欲さずと言い、息子の五十猛神と共に土船で東に渡り、出雲国斐伊川上流の鳥上の峰にいたったとされる。スサノオは出雲に腰を据え、櫛稲田比売と結ばれるが、櫛稲田比売の父・足名椎を稲田宮主須賀八耳神と号けたと云う。また「八」の登場である。

スサノオ像・出雲市駅前

「菅之八耳」は御存知ないかと思われる。原出雲王家の末裔・富家伝承である出雲臣の系譜によると、大国主命の始祖は菅之八耳だと伝えられている。ここまでくると『八』の呪縛かと思いたくなる。

富神社社殿 出雲市斐川町 祭神・八束水臣津野命

そこで宇佐八幡である。宇佐八幡の八幡とは応神大王(おおきみ)にほかならない。その宇佐八幡は「宇佐託宣集」によれば、“辛国(からくに)の城に八竿の旗(幡)を立てて、日本の神になった”・・・とある。

宇佐八幡宮

八竿の旗は、八つの小国、あるいは部族であろう。「辛国」の正体は、伽耶の「浦上八国(うらのほとりはちこく)」であった可能性が考えられる。この出雲族国家である出雲に頻出する「八」と、応神大王とその一派の「八」をどのように捉えるのか。出雲族と応神大王の出自は、同じ浦上八国であったかとの妄想にかられる。

噺は飛ぶ。大国主命を祀る出雲大社の正式参拝方法は「二礼八拍手一拝」である。この拝礼方法は、天皇家の勅使を迎えて挙行される大祭礼・勅祭の祭典にのみ用いられる拝礼の仕方である。出雲族と応神大王の「八」、出雲大社と天皇家の「八」。

「二礼八拍手一拝」を略式化したのが「二礼四拍手一拝」である。この参拝方法は、出雲大社と宇佐八幡宮でみる参拝方法である。この謎の参拝方法は何を物語るのか。四(死)拍手で拝礼されるのは、不遇な死を遂げたタタリ神である。オオクニヌシは、アマテラスに国を奪われ亡くなった。自死であったと考えるのが自然だ。オオクニヌシの魂は怨霊となり、祀らねば祟りをなす。

中央の二之御殿は応神天皇ではなく比売大神を祀る

宇佐神宮の主祭殿は、一之御殿の応神天皇。常識では一之御殿が中央であるが、ここでは中央の二之御殿は「比売大神」である。比売大神とはなにものであろうか。宇佐八幡宮では、日本書紀に注釈付きで記されている市杵嶋姫命、端津姫命、田霧姫命の三女神が、宇佐嶋に天下ったと記していることから、比売大神はその三女神であるとするが、大いなる疑問である。

左端の一之御殿の祭神・応神天皇に替り、中央を占める祭神が比売大神である訳はない。応神天皇より格が高い女神と云えば、アマテラスかヒミコと云うことになる。不遇の死をとげ四(死)拍手で参拝されるのは、ヒミコ以外に考えられない。

「日本書紀・神功皇后摂政記三十九年是歳条によれば、“魏志に云はく、明帝の景初三年六月、倭女王、大夫難斗米(なしめ・なんしょうまい)等を遣して、郡に詣りて、天子に詣しむことを求めて朝貢す”・・・この記事が「魏志倭人伝」の次の一節、“景初二年六月、倭の女王、大夫難斗米等を遣わし郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む”からとったものであることは明らかである。

したがって書紀の編者は魏志倭人伝の存在と、邪馬台国や卑弥呼を知っていたことになる。しかし書紀に卑弥呼と邪馬台国は登場しない。書紀も宇佐八幡宮もヒミコを抹殺している。ヤマトを憚り「比売大神」を中央に据えたと考えられる。

噺を戻す。出雲族と応神大王(天皇)の王権、出雲族は応神王権に服属した結果、出雲には『八』の呪縛が残ったとの妄想であった。

 

(追記)

「辛国の城」は、社家辛嶋氏の居住地である集落を指しているとも考えられる。宇佐八幡は辛嶋氏によって奉祀されていた。宇佐八幡の出現についての託宣の意味は、宇佐の菱形池のあたり、小倉山の麓を占拠する鍛冶集団の守護神が辛嶋氏によって、朝鮮半島から日本に移された、と云うことであると思われる。尚、辛嶋氏の系図では、素戔嗚尊の子・五十猛神の末裔とされる。何やら噺が上手にできすぎている。

(参考文献) 逆説の日本史 井沢元彦

<了>


出雲の赤と黒

2024-04-29 08:54:35 | 古代出雲

過日、出雲弥生の森博物館にて『2024春季企画展』をみた。展示内容は”出雲の赤と黒”というべき内容であった。赤と黒は古来、聖なる色彩とされ、それは汎アジア的とされている。つまり災いを除く僻邪的色彩であった。その赤と黒は、我が出雲でも縄文時代から用いられていた。企画展で紹介されていた『赤と黒』を紹介する。

出雲市・京田遺跡(縄文後期)出土土器片

縄文時代の土器は、野焼きによる燻焼であったかと思われる。京田遺跡(約4000年前)出土の水銀朱が付着した土器片をみると、土器の表面は炭素が沈着し、磨かれて光沢がある。これが出雲における縄文期の”赤と黒”の代表例かと思われる。

キャップションというか説明ボードによれば、京田遺跡の水銀朱は北海道南西部のモノとのこと。直接か間接入手かは別として、縄文時代の交易がとてつもない広範囲であったことになる。

弥生時代の”赤と黒”である。順不同であるが展示に従って黒から紹介する。

出雲市・矢野遺跡 弥生前期

次は弥生時代の赤である。

水銀朱盾・出雲市海上遺跡出土 弥生時代中期

西谷3号墓第1埋葬施設の水銀朱

西谷3号墓には、八つの埋葬施設があり、4点の木棺の底に水銀朱が敷き詰められていた。その重量は約29kgで、従来は中国・陝西省産と推測されていたが、分析の結果北海道と岐阜県の鉱山産に近いという。

次に古墳時代の赤である(黒は省略)。

上塩冶築山古墳といえば金銅冠が名高いが、金銀装捩環頭大刀が出土している。それを分析すると、赤鞘大刀であることが判明した。その復元品が展示されていたが、何と鮮やかであろうか。古代の貴人は聖なる色で飾っていたことになる。

 

<了>


弊Blog『出雲の神奈備山と弥生遺跡』のコメントについて

2022-06-01 07:12:15 | 古代出雲

先ずココをご覧願いたい。過日、updateした『出雲の神奈備と弥生遺跡』に関して、katumoku10氏の下に掲げるコメントが寄せられた。それに関して考えたことどもである。

先ず質問と云うかご意見を掲げておく。

青銅器埋納と神奈備山(^_-)-☆ (刮目天 一(はじめ))

2022-05-30 10:53:48

いつもありがとうございます。
とても勉強になります(^_-)-☆

西谷の大型四隅突出型墳丘墓の出現が古墳時代の幕開けだと考えています。従来の伝統的な奴国の祖霊祭祀と縄文系の見る銅鐸の融合が出雲で行われていて、奴国滅亡により鉄交易システムが確立されると首長の系列化が行われて、首長霊祭祀が古墳造成のきっかけだと推理しています。その間で青銅器祭祀が廃れて、埋納のまま放置されたのではないかと考えています。この仮説を確かめるのにどうしたらよいかお教えいただくと嬉しいです(^_-)-☆
あるいは別の解釈がおありならばそれを教えて下さると助かります。どうぞよろしくお願い致します(/・ω・)/

Unknown (mash1125(世界の街角))

2022-05-31 07:20:31

おはようございます。コメントありがとうございます。
貴殿の仮説に近いものかと思います。その仮説の裏付けの確認方法をお尋ねだと思いますが、良案を持ち合わせておりません。
貴殿のお尋ねの回答にはなりませんが、関連したことを次回updateさせて頂きます。

Re:Unknown (katumoku10)

2022-05-31 09:54:28

早速、お返事をありがとうございます。
いつも面倒な藩士で申し訳ありません。
次を楽しみにしております。
どうぞよろしくお願い致します(/・ω・)/

・・・と云うことで、先ずkatumoku10氏のコメントへの回答は、良く分からないと云うのが正直なところである。種々述べても彼方立てれば此方が立たぬ・・・となり、いずれの見方・考え方も矛盾を内包するためである。

北部九州の弥生時代は、死者に供えて青銅鏡・青銅武器・玉の類を埋納する風習があった。死者そのもの、或いは祖霊を祀るためのものと考えている。時代が下ると巴形銅器も副葬品に加わる。北部九州ではこのような墳丘墓祭祀に加え弥生遺跡からも主として武器形青銅器が出土する。近年銅鐸鋳型が出土し注目されているが、銅鐸そのものの出土は、朝鮮型小銅鐸(風鐸?)以外は聞いた覚えがないが、どうであろうか?

一方、我が出雲である。神庭荒神谷からは358本の大量銅剣と銅鐸・銅矛が出土し、加茂岩倉からは銅鐸、志谷奥からは銅剣と銅鐸が出土した。これらは墳墓ではなく、谷奥の中腹からの出土である。ちょうど九州の武器形祭祀圏と畿内の銅鐸祭祀圏の真ん中で、双方の祭祀が共伴している。ところが時代がやや下ると、出雲郡の神名火を望む出雲市大津町字西谷(斎谷)に四隅突出墳丘墓が出現する。その墳丘墓上では祖霊祭祀が行われていたと考えられる。そこには青銅祭器の姿はなく、吉備型特殊器台と壺をみる。

(四隅突出墳丘墓の真東に神名火が位置する)

(四隅突出墳丘墓から神名火を望む)

(四隅突出墳丘墓上の首長霊・祖霊祭祀)

(首長霊・祖霊祭祀に用いられた吉備形特殊器台&壺)

ほぼ同時代と思われる岡山・倉敷の楯築遺跡。そこからは特殊器台と直弧文の弧文帯石が出土している。これらの遺物も死者の葬送や祖霊信仰の祭具と考えており、青銅器は出土せずその姿はみえない。

(楯築墳丘墓墳頂)

(弧文帯石)

大和・纏向石塚古墳は3世紀半ばと云われており、出雲・突出墳丘墓と倉敷・楯築墳丘墓とほぼ同時代であろうと考えている。そこからは青銅器は出土せず、直弧文円盤が祭器・儀器として出土する。この祭器を用いて葬送なり首長霊さらには祖霊祭祀が行われていたと考える。

(纏向石塚古墳の軸線は神奈備・三輪山を向く。三輪山には出雲族・大物主が鎮まる。)

(纏向石塚古墳出土の直弧文円盤・複製)

このように、弥生後期までは銅鐸や青銅武器形祭器が、祖霊祭祀に用いられていたが、弥生末期に突然として青銅器が姿を消し、出雲では四隅、吉備では楯築形墳丘墓、大和では前方後円墳での祭祀に変わり、それぞれ特殊器台や直弧文を刻んだ遺物に変化する。

その原因は、おそらくKatumoku10氏の指摘のように、青銅よりも鉄を重要視する氏族の支配体制が進行した結果と考えられる。このように考えるのが最も矛盾が少ない。では誰が、あるいはどのような氏族なり民族か・・・ということになると、分からないと云うのが本音である。

以上、縷々記したが、矛盾満載の私見を述べると、以下のようになる。

  • 青銅祭器を用いない祖霊祭祀が古墳にとって変わるのは、吉備族の仕業と思えなくもない。吉備は当然として出雲でも大和でも、吉備発祥の特殊器台、直弧文の遺物を用いた祭祀に移行することから考えられるシナリオである。妄想ではあるが、出雲・吉備連合が成立し、一時期大きな勢力になっていた可能性が考えられる。出雲、吉備、大和の出土品が物語っている。
  • 台与共立後、南の雄・狗奴国(くなこく)に邪馬台国は滅ぼされ、狗奴国が倭国を支配することになった。それは「海の道」を北上した南蛮人種の民族国家であった。その人々は青銅祭器とは無縁の民族であった。

しかし、これらの私見はいずれも矛盾を内包している。結論はやはり、誰かは分からないが、鉄の支配権を確立した氏族の仕業であろう。その仮説の裏の取り方の良案を思いつかない。以上、Katumoku10氏への回答には、なっていないと思うが私見を述べさせていただいた。

<了>

 


出雲の神奈備と弥生遺跡

2022-05-30 08:37:07 | 古代出雲

やや大上段に構えたきらいが無きにしも非ずであるが、旧出雲国の領域で青銅器が出土するのは、何故かカンナビ(出雲では神名火、神名樋と表記)と関連がありそうである。何故なのか・・・について考えてみた。

カンナビとは大和では神奈備と表記するようだが、他に甘南備、神名火、神名備、神名樋などとも表記している。上掲写真は、出雲国出雲郡に聳える、日の出前の神名火・仏教山である。

大和の三輪山は、本邦の代表的なカンナビである。ところが何故か三輪山に鎮まるのは出雲族神の大物主(大国主)である。

御諸山とは三輪山である。『古事記』には大国主命が自ら『吾を御諸山に斎き奉れ』と、云ったことが記されている。これをもってカンナビと称するようだが、カンナビの言葉自体が、勘ぐりも含めて出雲発祥のように思えなくもない。

手元に、全国60カ所の『カンナビ』と称する山体の形状別数の調査結果がある。三輪山のような孤立峰(独立峰)が大多数と思いきや、そうでもなさそうである。

上掲写真は、出雲国風土記の楯縫郡条の神名樋山についての記述箇所である。出雲国風土記は国内に4カ所のカンナビが存在すると記している。下の写真は、上掲風土記の楯縫郡の神名樋山で、現在は大船山と云い、三輪山形状である。

出雲郡の神名火は、上掲4タイプの『端山』ないしは『尾根肩』の臥牛山形状である。

青銅器埋納地については、出雲に限らず丘陵あるいは尾根の斜面、つまり谷の中腹とのことである。我が出雲もその例に漏れない。

馬鞍山の所在は雲南市大東町幡屋字西谷である。地元の人に確認した訳ではないので、この馬鞍山を『カンナビ』ないしは『神体山』と呼ぶかどうか分からないが、頂に祠が鎮座することから神が宿る山との認識は存在していたであろう。

神庭荒神谷や加茂岩倉ほど著名ではないが、松江市の志谷奥遺跡からも青銅器が出土している。銅鐸と出雲形銅剣が出土した。

ここまで時代観綯い交ぜの話しをしてきた。古事記や出雲国風土記の時代、つまり8世紀初めと3世紀初め頃の弥生時代の事どもを綯い交ぜにしているのである。では、これらの伝承が何処まで遡れるのであろうか。

上掲写真に示したように、これらの伝承は5世紀中頃までは遡れそうであるが、3世紀前半の弥生時代まで遡れるとの確証は得られていない。

以上みてきたように、出雲の青銅器埋納地はカンナビと繋がっている。何故カンナビと繋がるのか。

一般的に祭器と呼ばれる青銅器は、農耕儀礼用の祭器であろうか。元山口大学教授の近藤喬一氏は、農耕儀礼に用いたものだと云われている。それにしては、山中の谷奥から出土するのは何故か、農耕儀礼であれば、何故耕作地の周辺から出土しないのか・・・との単純な疑問が湧く。

青銅器埋納地は神祀の場であった。埋納地から望むカンナビに祖霊を迎え、青銅器を用いて祖霊祀りを行ったのである。中には銅鐸を鳴らして祖霊を迎えたのであろう。神社において神主が「オー(警蹕:けいひつ:という)」と唱えて神の降臨を仰ぐ様子と同じように。

以上、証明不能な話を長々と綴らせていただいた。

<了>

 


旧石器時代の出雲・砂原(すなばら)遺跡

2022-03-27 08:31:51 | 古代出雲

東北地方での旧石器時代前期・中期の旧石器捏造事件は、記憶に新しい。10万年や20万年前の石器発見など、そうざらにあるわけでもない。

ところが、我が出雲に旧石器時代中期の砂原遺跡が存在する。何と12万年前というから驚きだ。発見された石器は、当初自然石であろうとも云われていたが、それにしては加工痕らしきものがあり専門家の分析の結果、人工的に加工されたものであることが判明したという。砂原遺跡の場所は、多伎の海岸近くで崖下は国道9号で、下にGoogle Mapを貼り付けておく。

その砂原遺跡からは、加工石器が30点出土し、石材は多様で珪化流紋岩を主体に玉随、石英であったという。専門家である上峯篤史氏が開発された斑晶観察法という手法により、人為的な加工パターンが見いだされたという。それらの加工石器は、12万年前の地層であることがFT法(どのような分析手法かわからないが)にて、年代を直接測定することができたとのことである。

『広報いずも』掲載の石器が出土したとのことである。Paが出土層のようである。現在は埋め戻され、写真のような平地になっている。

そこからは、国道9号を隔て道の駅キララ多伎の駐車場の先が日本海である。

砂原遺跡が営まれていた12万年前は寒冷期で、海岸線は遥か沖合で、当時は海を臨むことはできなかった。

どのような旧石器時代人がせいかつしていたであろうか、直良信夫氏は昭和6年に明石市西八木海岸で旧石器時代人の人骨を発見したとされるが、昭和20年の空襲で人骨は焼失したとのことで、その真偽がはっきりしない。

過去、沖縄県立博物館にて港川人(1万8200年前)の想定復元フィギアをみた。1万8200年前とは云え、裸であったかどうか?

砂原遺跡と港川人の時代は、一桁ほど砂原遺跡が古い。どのような原人であったであろうか。思うに、大国主命やスサノオ云々は、ついこの前の時代であり、何が何だか時代観が錯綜した思いを抱いたひと時であった。

<了>