世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

八女市岩戸山文化交流館・5 「筑紫君磐井と捩り環頭大刀」

2024-01-27 08:45:57 | 博物館・福岡県

<続き>

シリーズを中断していたが再開する。今回は「捩り環頭大刀」を模した石造物いわゆる石人石馬の捩り環頭大刀版である。それに関し「筑紫君磐井と捩り環頭大刀」とのテーマで記してみたい。先ずは展示品を紹介する。

勾金(まがりかね)を注目して頂きたい。これは捩り環頭大刀を模したものである。

藤ノ木古墳出土捩り環頭大刀  復元品  橿原考古学研究所付属博物館

日本書紀によれば、筑紫君磐井は悪者扱いされているが果たしてどうか。磐井の乱を起こす前は、継体王権と友好関係にあったものと考えられる。日本書紀・継体21年夏6月3日条によれば、磐井は近江毛野臣に対し「今でこそお前は朝廷の使者となっているが、昔は仲間として肩や肘をすり合わせ、同じ釜の飯を食った仲だ・・・云々」と言挙げする場面が記されている。つまりヤマトにて継体大王に出仕していたのである。その友好関係は考古遺物からも裏付けできそうである。

岩戸山古墳で石人石馬に繋がる石造物として、勾金形石製品が出土している。これを復元すると捩り環頭大刀(玉纏大刀とも呼ぶ)①となる。玉纏大刀は、藤ノ木古墳から出土した、それが著名である。まさに大王や大首長の持ち物であろう。その捩り環頭大刀は、全国54基の古墳から出土しており6世紀前葉の古墳に集中している。

6世紀前葉と云えば継体大王の時代である。捩り環頭大刀を権威の象徴としたのは継体大王である。陵墓とされる今城塚古墳から、捩り環頭大刀の実物は出土していないが、多くの捩り環頭大刀を模した刀形埴輪が出土している。捩り環頭大刀の配布は、継体大王と古墳の被葬者の結びつきの結果を反映していることになる。

今城塚古墳出土

磐井は岩戸山古墳を生前築墳したと云う。継体大王と険悪になる以前に、石造物にして古墳に並べたものと考えている。

①捩り環頭大刀(玉纏大刀)・ 把の先の部分(把頭)は、平面が楔形で頂部には半円形をした捩り環頭が取り付けられている。

参考文献

    筑紫君磐井と「磐井の乱」岩戸山古墳  柳沢一男  新泉社

    装飾古墳の謎  河野一隆  文春新書

<続く>


出雲村田製作所 工場用地取得協議開始

2024-01-24 08:44:37 | 村田製作所とTDK

今月20日であったろうか、地元の山陰中央新報紙がどうもスッパ抜いたようだが、島根県東部というか東端の安来市に20haの工場用地買収交渉開始したとの報道である。操業開始は2030年、開始時の雇用者数は200-300名で、将来的には1000名とのこと。

OBではあるものの、既に定年退職し15年が経過しており、安来市に決めた経緯は不祥である。

出雲村田製作所の従業員数は、約5400名で構内外注を含めると約8000名弱かと思われる。出雲市に生産が集中するのを避けて、危険分散する意味合いがありそうだ。OBと島根県人である小生からしてみれば、喜ばしい出来事であるが、何か違うだろうとの感じがしないでもない。

能登半島地震で穴水と輪島の事業所再稼働は、5月以降にズレこむと云う。能登半島地域は、村田製作所にとって圧電部品とフィルター類の集積地である。危険分散が先である。早急に検討されることを望みたい。

尚、当該ニュースについては、ココ参照願いたい。

 

<了>


巡った瀬戸内の考古資料館

2024-01-21 08:39:59 | 日記

年初に京都からの帰途、瀬戸内の考古関連資料館を巡った。それらの訪問記や展示物の紹介は別途行う予定だが、随分先になると思われるので、各資料館の逸品を紹介しておく。

たつの市埋蔵文化財センター   ★★

駐車場の端に何やら赤い実がなっている。それも星の形である。後ほどスタッフの方に聞くと、花水木とのことで、初めて見た次第である。

ここでは、双龍環頭大刀の柄頭が展示されていた。韓国は金海の博物館で見たものと同形である。

 

岡山オリエント美術館   ★★★★

モザイク  豹  シリア   前5世紀

石像  男子頭部  シリア  前3ー前1世紀

何れも卑弥呼の時代を遥かに遡る。表現力の具象性を称賛したい。

 

岡山シティミュージアム  ★★★★

これが見たかった。鳥装人間の線刻絵画土器片である。弥生時代のシャーマンか?

柄頭形石製品

出土例は極めて少ない。その一つがコレである。目的は何なのか 、妄想は思い浮かぶが果たして?

 

倉敷市埋蔵文化財センター  ★★

館内に弥生時代の竪穴式住居が復元展示されている。写真のように地面を50-60cm掘り下げて建てられている。これなら冬場の寒さも防げそうだ。高床式住居は冬の寒さに耐えられない。存在はしていたとおもうが、冬場は竪穴式住居に移動したと想定される。

 

総社市埋蔵文化財学習の館  ★★★★

鶏冠人頭土器片で、これも見たかったモノの一つ。弥生時代の遺品である。やはりシャーマンを表すか?

 

笠岡市立郷土館   ★★

瀬戸内の小島から出ら奈良三彩の小壺である。遣唐使のルート上に存在し、航海の安全を祈願した祭祀遺跡から出土したという。

 

広島大学総合博物館埋蔵文化財調査部門  ★

展示物について過大な期待を抱いていたせいか、結論ガッカリであった。広大な敷地で探すのにも苦労したが・・・。展示数は少なく、これといって紹介する遺品もなかった。

 

<了>


八女市岩戸山文化交流館・4

2024-01-15 08:49:19 | 博物館・福岡県

<続き>

前回に続き、これはと思う石人石馬の数点を紹介すると共に「石人石馬の源流」について、考えていることを記してみる。

石人石馬の源流考

石人石馬の源流について考えてみたい。「倭の五王」は、西暦421年以降、計10回にわたって宋へ使者を派遣した。中国側の史書である「宋書」、「梁書」や「記紀」は何も語っていないが、倭の五王の遣使には北部九州の首長層が、何らかの関与をしていたと考えられる。

つまり、その使者は宋都・建康(南京)の陵墓に並ぶ、石人石獣を実見していたかと思われる。その伝承は、北部九州の首長層に語り継がれたものと想像できる。

過去、関釜フェリーにて釜山へ旅行した際に金海の金首露王陵を訪ねた。王陵には石人石獣が並んでいた。王陵の築墳は4世紀後半頃と思われるが、その石人石獣の築造年代は何時頃であろうか。朝鮮半島での石人石獣の出現は、新羅の半島統一後との見解もあるようだが、中国の事例に鑑みれば、遥かに遡る時代であったと考えられる。

金首露王陵にて

その当時、筑紫君磐井は独自に新羅と交易を行っていた形跡がある。新羅王陵の石人石獣の存在は知悉していたであろう。岩戸山古墳に並ぶ石人石馬は、埴輪を写したものとの見解が有力であるが、そのベースは中国や朝鮮半島の石人石獣であったと考えている。

次回は「筑紫君磐井と捩り環頭大刀」につて、考えることを記したいと考えている。

<続く>