<続き>
弥生時代の土器と玉作り、青銅器類を紹介する。
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今回から鳥取県立博物館の展示品を紹介する。初回は縄文時代の土器を中心とした遺物である。
パネルに説明されているように、縄文土器は15000年前に製作が始まった、これは世界最古であり、我々の祖先は世界最先端のテクノロジーを駆使していたのである。土器の厚さは5mmほどである。中国の玉蟾岩遺跡(ぎょくせんがん)の土器の厚さは1cm以上であった。この時代のナイル川流域やメソポタミアでは、まだ土器を作る技術をしらなかった。縄文人は土器により食べ物を煮炊きし、健康増進に寄与していたと思われる。縄文時代は世界に先駆けた時代であったことを誇りたい。
以下は、石製品である。
下左は玦状耳飾りである。日本の縄文時代と同時代の中国・長江下流域の遺跡からも、この玦状耳飾りが出土する。縄文人は15000年前に中国本土と交流があった証であり、縄文人は世界に誇る日本人の祖であったことになる。
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畑作牧畜文明と稲作漁撈文明
以下、安田教授の『稲作漁撈文明』からの抜粋である。”世界の四大分明(メソポタミア・ナイル・インダス・黄河)は、畑作農耕民と牧畜民が作り出した『畑作牧畜文明』であった。
メソポタミア・ナイル両文明は今から5700年前に誕生。これに対し黄河文明は両文明の誕生より1500年以上遅く誕生している。メソポタミア・ナイル・インダス各文明がいずれも北緯35度以南の大河のほとりで繁栄したのに対し、黄河文明は北緯35度以北に位置する。
牧畜民がモンスーンアジアの湿潤地帯の奥深くまで侵入するには時間を要した。深い森に覆われ、湿地が広がり、馬で移動するのが困難であり、マラリアなどの風土病が存在した。そおれゆえモンスーンアジアの湿潤地帯を流れる大河のほとりは長らく文明の光に浴することなく、未開野蛮の中にあったとみなされてきた。ところがこの湿潤地帯の森の中を流れる大河のほとりには、四大文明とは異質の古代文明が存在した。それが長江文明である。それは稲作農耕民と漁撈民がつくりだした『稲作漁撈文明』であった。
中国・杭州郊外の良渚遺跡(りょうしょいせき)、その遺跡群の中心は大観山遺跡である。ここからは多量の玉器が出土した。東西630m、南北450m、厚さ10m以上の版築の上に、高さ4~5mの大莫角山、小莫角山、亀山と呼ばれる三つの丘がある。大莫角山は東西166m、南北96mで禹王(うおう)の墓ではないかと云われている。
(良渚遺跡)
これは長江文明以外の何物でもなく、黄河文明より1000年以上も前に存在したであろう。この長江文明も北緯35度以南となる。”
<続く>
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出土土器類の紹介は省略し、出土した建築部材とそれをもとに復元建物のCGを紹介して、当該シリーズを終える。
出土した部材をCGで復元すると、高層の楼観であったという。魏志倭人伝の世界そのものである。
<了>
ごく最近、安田喜憲教授著述の『稲作漁撈文明』なる著書を読んだ。広い視点からの著述で感銘を受けた。
世界の四大文明は『畑作牧畜民』の文明であるが、同じような時期に『稲作漁撈民』による『長江文明』が生まれ、更には同時期の縄文時代は『縄文文明』と呼ぶに相応しい文明であったと記されている。御陰で6度読み返すほどの著書である。今回を初回として不定期で連載したいと考えている。初回は「稲作漁撈民と玉琮」とのテーマで記述する。
稲作漁撈民と玉琮
玉琮(ぎょくそう)は丸と四角の結合からなる。漢の王劉安が編纂した『淮南子(えなんじ)』の天文訓には「丸は天といい、方は地という」と記されている。玉琮の丸と四角は天地の結合を意味していることになる。稲作漁撈民は天地の結合に豊穣を祈った。そして空にそびえる山は天地の架け橋であったのである。
(玉琮)
玉の側面に浮彫りで彫られている鳥の羽飾りをつけたシャーマンが虎の眼にさわっている神獣人面模様の意味も理解できた。鳥の羽飾りの帽子をなぜシャーマンはかぶっているのか、それは鳥が天地を往来することができるからである。
(シャーマン想定復元フィギア:於・唐古鍵考古学ミュージアム)
稲作漁撈民にとって玉は灌漑に必要な命の水の源である山のシンボルであった。緑色をしている玉が重要だった。緑の玉は命のシンボルで、おそらくその緑は森の緑、命の緑であったに違いない。
<続く>