世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

如何なものか

2016-05-28 08:54:28 | 陶磁器
最近インターネット・オークションに、サンカンペーン後絵盤と思われる陶磁が2点出品されていた。100%の確率で後絵であると断言はしないが、本歌である可能性は低いと思われる。
このような話はブログにしたくないが、入札者がそれなりの人数であり、悔しい想いをしてもらいたくないため、敢て記事にした。

器胎は本物である。写真だけでは詳細が分からないところがあるが、鉄絵の発色に濃淡がない。これは化学顔料の一つの特徴で、のっぺらぼうである。そしてその鉄絵の上には、ガラス質の光沢はない。何故このようになるのか、上絵だからである。
サンカンペーンの鉄絵魚文は下絵であり、その発色は鉄絵特有の濃淡があり、下絵ゆえ鉄絵の上にはガラス質の光沢をみる。当該盤にはそれらの特徴が見られないようである。
数日後、別の後絵盤らしきサンカンペーン陶磁が出品されていた。出品者は上の盤とは異なっている。
器胎はいわゆる”犬の餌鉢”のようである。それに灰釉(多分化学釉薬)をかけて焼成し、鉄絵顔料(化学顔料)を上絵で表現されたものと思われる。鉄絵があまりにも黒々とし、それに鉄絵特有の濃淡が見当たらない。残念乍ら後絵の盤ではないいかと思われる。
この手の盤の出品禁止との法律があるわけではないので、出品されるのはやむを得ないとして、その表現方法は改めてほしい。
上の盤は”タイ北部、14~15世紀 サンカンペン鉄絵双魚文鉢”、下は”サンカンペン鉄絵三魚文皿15~16世紀”との名称で出品されている。
被害を食い止めるには、入札者が賢くなることが必須である。本物の鉄絵は鉄銹色に発色し濃淡をもつ、更には下絵の特徴として描線の上にもガラス質の釉薬が掛かるため、光沢をもつのが一般的である。・・・ことはそう単純ではないが、左記のことは基本であり、これを外した本歌は存在しないと思われる。



県立出雲古代歴史博物館#6:古代西出雲の豪族

2016-05-27 16:25:14 | 博物館・島根県

<続き>


 

 

 

6世紀後半の西出雲の古代豪族の復元像である。時代はやや遡るが、朝鮮半島伽耶(狗邪韓国)からの出土品や復元武人像に似ている。先ず6世紀の環頭太刀である。

 

写真が見辛いので、復元太刀の写真を見ていただきたい。

以下、写真が不鮮明で恐縮であるが、韓国・金海国立博物館の展示品である。

 

 

写真に掲載していないが、日本や朝鮮半島から出土する銅剣、写真の鉄剣、金冠は騎馬民族の匂いがする。それらはスキタイの黄金文化につながりそうである。そのような想いを馳せる展示であった。




                            <続く>




世界の街角:マニラ・イントラムロス

2016-05-26 08:08:12 | 世界の街角
少し古い(2007年11月)見聞録で恐縮である。初めてマニラを訪れたとき、イントラムロス(スペイン語で”壁の中の街”を意味する)へ行ってみた。ここは、スペイン統治時代の1571年から150年の歳月を要して建設された。その後はアメリカ軍の司令部として使用されたとのことである。
写真中央がイントラムロスで、サンチャゴ要塞である。要壁は述べ4.5kmで、面積は64haという。
イントラムロス入口のゲートを入ると、シラピスセンターと呼ぶ土産物屋である。中に入ると天井の梁から吊るされた横長の太鼓が目についた。

キャップションには、ミンダナオ島のMARANAO TEMPLEの太鼓とある。仏教寺院かイスラム寺院かカトリックか?何の説明もないので不詳である。
 この太鼓に極似したものを北タイで目にする、各々が独自に自然発生したとは考えられない。バリ島でも見ることができる。これらの類似性をどのように考えればよいのであろうか。

写真のサンアグスチン教会は、1587年着工で1606年完工したもので、太平洋戦争の惨禍にもあわず、1993年に世界遺産に登録された。

カーサ・マニラと呼ぶ、19世紀半ばのコロニアル様式の建物である。博物館として公開されている。中に入ると、その装飾はシノワズリーも手伝い、独特の雰囲気であった。
要塞には写真のホセ・リサール記念館がある。彼は詩人、画家、医師と多才でであったらしい。彼は宗主国のマドリッド中央大学卒業後帰国し、非暴力によりフィリピン人の言論の自由と法律的平等を求めた。しかし認められず辺境に追放された。
1896年、秘密結社カプティナンが独立闘争を開始すると、彼の影響力排除のため逮捕処刑された。そのホセ・リサールが処刑されるまでの2カ月間幽閉され建物がホセ・リサール記念館である。
多数の小学生にであった。国の歴史・独立に貢献した彼を学ぶことが、フィリピン人のアイデンティティーを涵養するのであろう。
写真のモニュメントはラサール公園の西側入口に建つ。その前には暑いにもかかわらず衛兵が左右にたっている。官民挙げての英雄である。

当時のマニラの印象で云えば、見どころはイントラムロスのみで、あとは超近代的なビル群と、対照的なバラック群しか印象がない。最近は随分変化していると思われる。





県立出雲古代歴史博物館#5:国宝加茂岩倉銅鐸

2016-05-25 06:51:43 | 博物館・島根県

<続き>

加茂岩倉遺跡は、松江自動車道の脇の山中で、よくもこのような山の中で出土したものと感心する。その銅鐸の一部を紹介したい。

 

 

 

 

 

 

 

 

祭祀に用いたであろう銅鐸、それを1箇所に、しかも39個もの大量を一括埋納した理由は何であろうか?なぜ加茂岩倉の地に埋納したのか?諸説紛々であるが、説得力のある説は一つもない。
日本国内だけでなく、東さらには北東アジア、場合によってはスキタイとの関連を含めた、もっと広い視野で捉える必要があるであろう。




                             <続く>


県立出雲古代歴史博物館#4:卑弥呼の鏡

2016-05-23 07:11:22 | 博物館・島根県

<続き>

「魏志 東夷伝・倭人条」には239年(景初3年)魏の皇帝が卑弥呼に銅鏡百枚を下賜したとする記述が あることから、三角縁神獣鏡がその鏡であるとする説がある。景初3年とは、2代皇帝曹叡の没年と3代皇帝曹芳が即位した年である。魏は三國志で著名な曹操が建国した。
その卑弥呼に下賜されたと云われる、景初3年銘銅鏡が、島根県雲南市加茂町神原の神原神社古墳より出土した。これと、付近より大量の青銅器が出土したことから、邪馬台国は出雲に在ったという意見がある。そう安直なものではないだろう。

 

この銅鏡に限らず、旧出雲国西部では青銅器が大量に出土している。邪馬台国に匹敵する強大な勢力が存在していたであろう。次回は大量に出土した銅鐸を紹介する。




                          <続く>