世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

甘夏柑?の開花から結実まで

2019-11-30 07:19:51 | 日記

我が家の庭の片隅に、たぶん甘夏柑と思われる柑橘の木がある。何時頃植えたものか記憶にないが、五年程前から結実するようになった。何時頃開花し外皮が黄色になるか、写真で追ってみた。

随分黄色くなってきたが、食すには未だ早い様である。来年2-3月頃であろうか。時は色々なものを育てる・・・まさに貴重である。

 

<了>


ミャンマー錫鉛釉緑彩陶の真贋・(1)

2019-11-29 08:50:40 | 東南アジア陶磁

最近Net-Auctionを眺めていると、相も変わらずミャンマー錫鉛釉緑彩陶の倣作(コピー)が出品されている。被害に遭わないようにとの思いで記しているが、やや上から目線の物言いで恐縮である。出品名に『ミャンマー白釉緑彩陶〇〇〇盤 15-16世紀』と記されている。この15-16世紀の文言がなければ、コピーであったとしても倣作(贋作)には当たらない。時代が明記されていることにより贋作となり、詐称であるが、詐称の押し売りではなく、入札者の自由意思で入札する・・・ということから、例え贋作と気が付いても、結局は泣き寝入りとなる。入札者が賢くなる以外に方法はない。

前置が長くなったが、先ず本歌(本物)から紹介する。

(タイ北部ランプーン国立博物館蔵品)

(バンコク・ランシット BKK大学東南アジア陶磁館蔵品)

(バンコク・ランシット BKK大学東南アジア陶磁館蔵品)

紙数の関係もあるので本物の紹介は、この程度にしておくが、錫鉛釉は白釉とも云われている。しかし純白ではなく、クリーム色のように白濁していることを、先ず頭に叩き込んで頂きたい。これらの本物の約束事(特徴)を以下箇条書きにしておく。

1)盤は轆轤をひき、器形を整えてから静止して、切り離しの糸切は、手前に水平にひいている。そして高台を付け、或る程度乾燥した段階で、轆轤を回し高台に沿って削り整形している。つまり高台内(底)の中央部は静止糸切痕を見、高台は付高台である

2)盤の多くは27cmから31cmの外径で、直径20cm程の大きな付高台である。その高台内とおいうか底は、丸い筒状の焼台に載せて焼成されており、その焼成痕を残しているのが一般的である

3)釉薬の垂流れ防止目的と思われる細工が、高台の外側面に施されている。それは筍の皮を剥いたような輪が削り込まれ、それが段状になっている(溝が削り込まれてはいない)

4)胎土はやや粗く、明るいオレンジ色、赤茶色、それに深い紅色のようにみえるが一定していない

5)生地は素焼きをしているのか、生掛けなのか、あるいは双方存在するのか、明らかになっていない

6)釉薬は失透性で純白ではなく、クリーム色がかっており、その釉薬は厚くかかっている

7)釉薬は高台の畳付きも覆っており、高台内(底)にも釉が刷毛塗されているのが散見される

8)絵付けは釉上彩で、錫鉛釉に銅の緑彩が溶けたものである。釉掛け後の銅絵具の筆彩は、絵具の釉薬への吸収が速く、絵具に伸びがないとされ、筒描きであったろうとの説が定説化している。つまり描線に筆描きのような幅を持たない

9)銅絵具は還元焼成で緑色に発色する。従って窯の気密性を要する。また温度が上がりすぎると、銅は炎とともに消えてしまう。よって焼成温度は1000-1100度程と思われ、盤を指で弾いても磁器のような共鳴音はなくニブイ

以上である。最近のネット・オークション出品作は次回とする。

 

 

 

 

 


鳥が載る家形埴輪で考えたこと・(後編)

2019-11-28 08:44:54 | 古代と中世

<続く>

弥生時代から古墳時代へと降るにつれて、鳥肖形の意味合いが変化しているように感じられる。『鳥が載る家形埴輪』のみならず埴輪そのものは、古墳に並べられていた。つまり墳墓であり、死と葬送に関わる器物であると考えるのが妥当であろう。あるいは死生観を現したものであろうか。

他界とは、古代において人が死亡した時、その魂が行く場所(霊界・冥界)で霊魂が彷徨って浮遊しないよう葬送儀礼により送り出したのである。つまり葬送儀礼とは、現世と他界との橋渡しであった。古代における他界は山上他界、海上他界、地中他界、天上他界があったかと思われる。

筑後川左岸の珍敷塚古墳には彩色壁画が残っている。壁画の主文様は3個の巨大な靫(ゆぎ)であるが、壁画の左手には同心円文(日輪と思われる)と櫂を漕ぐ人物、帆柱を立てたゴンドラ風の船が描かれ舳先には鳥が止まっている。一般的に喧伝されているのは記紀から引用した、死者の魂を鳥が霊界に送る『天の鳥舟』だとしている。海上遥か先に送るかと思いきや『天の鳥舟』なれば天上他界説である。

                同志社大学准教授・張莉氏の論文によれば、魏志東夷伝辰韓条に以下の一文があるという。『嫁娶禮俗男女有別 以大鳥羽送死其意欲使死者飛揚』婚礼や礼儀、風俗に男女の区別がある。大鳥の羽を使って死者を送る。死者を高く飛揚するように望んでそうする・・・とある。死者の魂が天に昇るというのは、北方系の発想である。 

日本武尊(倭建命)(生年不詳ー景行天皇43年)は、伊吹の神と対決したが、神が降らした大氷雨が原因で落命した。その地は能煩野と云われている。死後、日本武尊は八尋白智鳥(白鳥)となって天に飛翔したと云う。これは日本武尊の魂が白鳥により天上他界に運ばれたことになる。

日本武尊を遡る伊邪那岐・伊邪那美の説話によると、伊邪那岐は伊邪那美を追って黄泉國に入ったという。古代の中国人は、地下に死者の世界があると考え、そこを黄泉と呼んだ。始皇帝陵はその最たるものである。先にも記したが死者が天に昇るというのは北方系の考え方で、南方では地下の黄泉國へ行く。古代日本の政権の主というか、当時の社会的な思想が南方系から北方系に変化した様子が読み取れる。つまり弥生期と古墳時代の初期段階までは、南方系の祭政権であったが、古墳時代の中期(4世紀末ー5世紀末)以降北方系の首長に交代したかの印象である。

先に魏志東夷伝辰韓条の故事を紹介したが、ここでの鳥の役割は、死者の霊魂を天上に運ぶことにあった。時代は4世紀-5世紀の三国時代・伽耶と時代は若干降るものの、墳墓に副葬された鴨形土器が出土している。明らかに明器として副葬されたものである。日本武尊の白鳥伝承の例えのように、死者の霊魂を天上世界に運んでもらうことを願ってのことであろう。

 このような鳥形の土器というか埴輪は、日本各地の埴輪から出土する。ということで珍しくもなんともないが、ここでは伊吹山に近い安土城考古博物館展示の鳥形埴輪を紹介しておく。

先の三国時代・伽耶の鴨形土器も、上掲鳥形埴輪も水鳥である。日本武尊の霊魂を運んだのも白鳥である。

この鳥の肖形は、時代が下る古墳時代後期の須恵器にも存在する。写真はみよし風土記の丘ミユージアムの展示品で鳥付子持装飾台付壺である。その解説ボードの写真も掲げておく。

 

解説ボードによれば、鳥は死者の霊魂を運んだり、神意を人々に伝えた・・・と記されている。

ところで鳥形埴輪は2つの種類が存在する。

鶏形埴輪の出現:古墳時代前期  (3世紀後半ー4世紀後半)

水鳥形埴輪の出現:古墳時代中期 (4世紀末ー5世紀末)

・・・である。

つまり同じ鳥形埴輪でも古墳時代前期は鶏であった。さきに鶏は時告(ときつげ)鳥として、時の権力者に重要視されたと記したが、このように鳥形埴輪でも2種類存在したのである。安土城考古博物館展示の鶏型埴輪を下に紹介しておく。

 

残念乍ら完品ではない。当該ブロガーには実見経験はないが完品を紹介しておく。

 

(現品:東京国立博物館)

何と類まれな造形能力で写実性に溢れているであろうか(噺は飛ぶが、4世紀の纏向坂田遺跡出土とある。別に紹介している新羅土偶の稚拙さと比較し格段の差を感ずる。埴輪の造形集団は本当に渡来系であろうか、主題とは別のことながら疑問に感ずる)

この鶏形埴輪と水鳥形埴輪では意味合いが異なり、鶏形埴輪は権力者としての象徴、水鳥形埴輪は死者の霊魂を運ぶ願いで古墳に置かれたと考えられる。

本題にせまるアプローチが如何にも冗長であった。『鳥が載る家形埴輪』は何であろうか。種々検索するが検索能力が低く、これだとの文献に巡り合わない。

奈良・佐味田宝塚古墳(古墳時代前期)出土の家屋文鏡を注視すると、蓋(きぬがさ)が掲げられた(図中青丸)建物をみる。これは首長ないしは国王クラスの建物で、そこに鳥もとまっていることからすると、この鳥は権力者の象徴としての『時の管理』、更には森羅万象を司る者として、天帝から指名されたことを民衆に知らしめる役目をもったものであろう・・・と考えている。

一応、結論らしきことを述べたが、これに関する学論を知らない。今後継続して調査したいと考えているが、御覧の各位の意見を頂ければ幸いである。

 

<了>

 

 

 


トキ公開施設と花の郷

2019-11-27 08:09:35 | 出雲国

我が出雲にトキ公開施設がある。その施設ができて何年が経過したであろうか? 初めて訪れた。それはしまね花の郷に設置されている。トキは佐渡1箇所では絶滅する恐れがあるので(鳥インフル等の伝染病・・・)、全国4カ所で飼育されているという。出雲はその1箇所で、現在10羽が飼育されている。

以下、11月下旬・晴天の花の郷の光景である。

 

<了>


鳥が載る家形埴輪で考えたこと・(中編)

2019-11-27 07:32:48 | 古代と中世

<続き>

冗長なイントロが続いて申し訳ないが、『鳥が載る家形埴輪』の本題に入る前に、家の棟に載る鳥について見ていくことにする。

鳥越憲三郎氏は、先のアカ族の『ロコーン(ムラの門)』の笠木に置く鳥の肖形は、天から家族を守護するために降臨する神の乗り物で、その鳥は鵲(カササギ)であると云う。結界を監視する鳥だとする見方と意味合いがやや異なり、鳥は降臨する神の乗り物と記されている。

氏は、中国雲南省深南部少数民族村である佤(わ)族や布朗(プーラン)族の村には、鳥の肖形物が屋根に載っていると、氏の著書に写真入りで紹介されている。その鳥の役目はアカ族のそれと同様に、天から家族を守護するために降臨する神の乗り物と、佤族や布朗族の人々から説明を受けたと云う。

残念ながら、筆者はこの屋根に載る少数民族の鳥の肖形は、未だに目にしていないが、タイ族の寺院でみるチョーファーと呼ぶ鳥の棟飾りとの関連に注目している。

北タイの仏堂に在る切妻頂部、日本でいうところの鴟尾(しび)に相当するものをチョーファーと呼んでいる。このチョーファーとは神話上の聖なる鳥(ハムサ:ハンサとも云いタイでホン、ミャンマーでヒンタと呼ぶ)の頭部をデザイン化したものである。タイでは魔除け、更には神聖なものとされているが、未だ踏み込んだ論説を見聞していない。しかし乍ら魔除けの意味もありそうなので、邪悪なものの侵入を監視する意味では、アカ族のロコーンと通じるものがありそうである。

ここでチョーファーについて考えてみたい。それは先に記したように聖なる鳥ハムサをデザインしたものであると云う。ハムサとはブラフマー神の乗りものに他ならない。してみると鳥越憲三郎氏が記す、天から降りて来る神の乗り物と同じではないか。

 

                       (チェンマイ ワット・ジェットヨートのチョーファー)

このチョーファーについては、鳥の本来の姿からモディファイというか抽象化されている。ハムサ本来の姿で鴟尾のように配置されている寺院が存在する。それは北タイのプレーに在るワット・ルワンのそれである。

 

このハムサは、鳥越憲三郎氏が現認された、中国雲南省深南部少数民族村である、佤(わ)族や布朗(プーラン)族の村の屋根にのる鳥の肖形と同じである・・・と考えて大きな違いはなかろうと思われる。

噺が飛びまくって恐縮ではあるが、列島・弥生期の建物にも鳥の肖形が止まっていた形跡がある。吉野ヶ里遺跡の北内郭に祭殿と呼ぶ大きな建物が、想定復元されている。

 

 

この鳥の肖形は考古学的な裏付けがあるのかないのか? 判然としないが、全くの出鱈目ともおもわれない。ハッキリしているのは、やや時代が下るが、奈良・佐味田宝塚古墳(古墳時代前期)出土の家屋文鏡の鳥であろう。

 

これらの鳥の役目がハッキリしない。エイリアンの侵入を監視しているように見えるが、それは結界(鳥居)に載る鳥肖形の役目である。建物の屋根に載るのは神の使いで神羅万象を司るのであろうか・・・これは、想像以外のなにものでもない。

ここで弥生期の出土遺物である鳥の肖形と、吉野ケ里の想定復元である祭殿の鳥と、数十年前の雲南省の事例や現在のタイで見るチョーファーを論じており、一見時間軸を無視した噺であるが、それらは古代の伝承を引き継いでいると考えることによる。

それでは佤(わ)族や布朗(プーラン)族の村の屋根にのる鳥やタイ族のチョーファー、さらには古代日本の事例の源流は何処にあるのか? 残念ながら西の方・インドについては知識を持ち合わせていない。先にも記したが中国深南部や東南アジア奥地の少数民族、倭族本貫の地は長江流域から南であろう。してみれば、その源流は中国に求めることが妥当かと思われる。

2006年4月ー5月にかけて、京都・細見美術館にて『中国古代の暮らしと夢』展が開催された。そこに後漢(25年ー220年)の緑彩陶である水榭(すいしゃ)が展示されていた。水榭とは池中の望楼である。出品図録の表紙に、その写真が掲載されているので下に掲げておく。

 

図録の説明によると、望楼の最上層の屋根に鳥が載る。その鳥は『瑞鳥』『神鳥』と呼ぶと記されている。瑞鳥とは、目出度いことが起きる前兆とされる鳥である。異論を挟むつもりはないが、望楼に載る鳥は見通しのよい高い位置、しかも最上層の屋根である。異端の者どもが侵入しないように、監視をしているであろうと考えられなくもない。

しかし、もっと前の時代である前漢や秦の時代にも、屋根に載る鳥は存在したかと思われる。ある論文に中国・戦国時代の青銅の家形肖形には屋根の上に鳥が載っていると云う。その論文の執筆者である同志社女子大学准教授・張莉氏によると、『蜀王本記』逸文や『太平寰宇記(たいへいかんうき)』記述内容を総合して、鵑(けん・ホトトギス)は、あの世よとこの世を行き交う鳥で、亡くなった人間の魂を運ぶとしている。准教授は河姆渡遺跡(前5000-前3000年)から象牙に、双鳥が太陽を抱きかかえた図が彫られ、更には木彫の鳥が出土しているのは、河姆渡人の鳥崇拝を表している・・・と記しておられる。

 

(出典:浙江省博物館HP 新石器時代河姆渡文化双鳥朝陽紋牙雕)

また、河姆渡・呉越における鳥信仰は最初、イヌワシに象徴される寧猛な神であったが、やがて鳳の概念が生じ、台風・竜巻などの祟る神となり、後には天帝の使いの意味を持ち神羅万象を司るようになったとも記されている。

古代中国以外にも屋根に載る鳥は、東南アジアでも確認することができる。北ベトナム・ドンソン文化の特徴である銅鼓の屋根に載る鳥がそれである。それは、コーロアⅠ式銅鼓と呼び紀元前1世紀ー紀元1世紀に比定されている。

 以上、見てきたように屋根に載る鳥の源流は、解釈に若干の違いはありそうだが、古代中国に求めることができそうである。

ここで屋根の棟に載る鳥の意味合いについてレビューしておく。

①  佤(わ)族や布朗(プーラン)族のそれは、天から家族を守護するために降臨する神の乗り物である

②  タイの寺院でみるチョーファーは、魔除け更には神聖なものとされている

③  後漢の水榭と呼ぶ望楼に載る鳥は、『瑞鳥』『神鳥』と呼ばれているそうだが、異端者侵入の監視をしているように見える

④  あの世よとこの世を行き交う鳥で、亡くなった人間の魂を運ぶ

⑤  天帝の使いの意味を持ち神羅万象を司る

以上のように、屋根の棟に載る鳥について、様々な解釈があることが分かる。

古墳時代前期やそれを遡る時代の屋根に載る鳥について検討してきた。それと『鳥が載る家形埴輪』との関係である。関係があるのか、無いのか?・・・次回、検討してみたい。

注:論文① 『古代中国・日本の鳥占の古俗と漢字』同志社大学准教授 張莉

 

<続く>