世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

京銘菓『涛々』

2022-01-31 08:50:06 | 京都

和菓子の三大産地は、京都、金沢と我が田舎の東隣・松江とのこと。松江は、江戸後期の藩主・松平治郷(不昧公)で不昧流の始祖以来の和菓子産地である。歴史からも、菓舗の数からも京都には遠く及ばない。

京都は歴史上も多くの和菓子菓舗を有す。銘菓『涛々』を販売する「京華堂利保」は、メジャーな存在ではないと思うが、『涛々』は当該ブロガーの勝手な判断では京都一で、虎屋や吉富などは足下にも及ばないと思っている。

麩焼き煎餅二枚で、大徳寺納豆入り漉し餡を挟んでいる。大徳寺納豆と小豆漉し餡の絶妙なバランスが、何とも表現のしようがない。

『涛々』は武者小路千家官休庵にちなむようだが、そのような由来など関係ないと、『涛々』自身が云っているように思える。京都にお越しの際は是非とも御賞味のほどを。

高島屋京都店では販売しておらず、菓舗まで出向く必要がある。場所は鴨川沿いから二条通りを東に200mほど入ったところ、残念ながら駐車場無しである。

<了>


新春特集『遥かなり騎馬民族』(10)

2022-01-30 07:38:57 | 日本文化の源流

<続き>

〇継体天皇が分からない

26代・継体天皇(男大迹王・おほどおう)は越前から迎えられたと云う。

(継体天皇像・福井市足羽山 Wikipediaより)

『日本書紀』によれば、前の25代・武烈天皇が後嗣を残さず崩御したため、大伴金村・物部麁鹿火(あらかい・あらかひ)等の推戴をうけて即位したことになっているが、これは大いなる疑問である。当時の天皇は、皇后の他に妃が五、六人あり、多産であった。継体天皇自身も皇后である手白香皇女(たしらかのひめみこ)の他に8人の妃がおり、合計21人の皇子、皇女が存在していた。従って25代・武烈天皇の血筋が絶えたことはないのであろう。つまり『日本書紀』の創作である。それは、以下のことどもからも推測可能である。

つまり男大迹王が越前で大きな勢力を形成したであろうと思われる。あわせて本貫の地であろう朝鮮半島情勢に詳しく、その朝鮮半島と緊張関係にあったことから、諸豪族により擁立されたものであろう。男大迹王は450年頃に近江国高嶋郷三尾野で誕生したが、幼い時に父の彦主人王を亡くしたため、母・振媛は、自分の故郷である越前国高向(たかむく)に連れ帰り、そこで育てられ、「男大迹王」として5世紀末の越前地方を統治していた。近江は渡来人の拠点の一つであり、史書に記載はないものの父の彦主人王は渡来人に繋がる可能性が捨てきれない。

この擁立された継体天皇の時代から、馬具が爆発的に増加している。それは九州から関東まで乗馬の風習が広がったことを意味している。

考古学的知見によれば、外国の使節と対面したときに被る朝鮮半島風の金銅製の冠は、日本海側の豪族が着冠した。

(福井県十善ノ森古墳出土金銅製冠 出典・福井県HP)

(福井県永平寺出土 金銅製冠 出典・文化財オンライン)

(上掲写真2葉の金銅製冠は藤ノ木古墳出土のそれよりも、70-80年前のものである。)

大和・藤ノ木古墳からも出土しているが、日本海側の出土に対し70-80年後のことである。藤ノ木古墳は、法隆寺の伝承では28代・崇峻天皇陵とされており、崇峻天皇は継体天皇の孫、つまり越前出自の系統の天皇である。金銅製冠を着冠するという使節との面会場面は、大和や河内よりも早く日本海側で出現するのは何故であろうか。この時期すでに大和に勝る勢力が越前に存在していたことを物語るのではあるまいか。

しかしながら継体天皇の大和入りは慎重であった。畿内に入るに際し、河内の樟葉(くすは)に入り、次に山城の筒城、三番目に山城の弟國(乙訓)に宮を置いた(最後は大和の磐余玉穂宮)。なぜ大和に入らず畿内各地を巡ったのか。

注目すべきは、三番目の弟國まで淀川水系の川沿いの地であること。騎馬民族・高句麗の古都・集安は鴨緑江、また新都平壌は大同江、百済の古都・漢城は漢江、次都・公州と最後の都。扶余は錦江、伽耶は洛東江という大河のほとりであり、それらと気脈を通じている。異民族や異なる王朝の侵略を受けた際の退路確保の目的があったものと思われる。継体天皇の大和入りに際して20年も要したのは、まとわりつかぬ武烈天皇の残存勢力を警戒したためと考えられる。

そのような苦労をしながら、天下の覇権を継体天皇は手に入れた。『日本書紀』は、継体天皇と始祖・神武天皇(神日本磐余彦・かむやまといわれひこ)とを重ねているふしがある。継体天皇が最後に都をおいたのは、神武天皇に繋がる磐余で、それは磐余玉穂宮であり、始祖・神武天皇と新王朝・継体天皇を重ねたもので、騎馬民族につながる継体天皇の格付けの創作と考えられる。つまり、江上波夫氏が述べる騎馬民族征服王朝説は形を変へ、騎馬民族の末裔で渡来騎馬民族の人々の支援を受けた越前の豪族・継体天皇の王朝創設譚であった

<続く>


新春特集『遥かなり騎馬民族』(9)

2022-01-28 07:33:15 | 日本文化の源流

<続き>

〇馬具の出土は古墳時代後期(6世紀)から

馬具の出土は古墳時代後期の古墳からである。馬具と同時に、男性女性用の金や銀の耳飾りをする文化が入ってくる。これは東北アジアの騎馬民族系、あるいは農業と狩猟を行う騎馬文化の影響を受けた東北アジア系の人たちと共通した風習である。

(耳環:金海国立博物館)

(①姫路・太市中2号墳 ②三木・年の神1号墳 ③太市2号墳)

日本の古墳時代前半期の人たちは、金や銀の耳飾り、腕輪、指輪などはまったく使っていない。中国では漢民族は金・銀の耳飾りはつけず、北魏を建国する鮮卑系の人たちがつけていた。

桂甲・短甲・冑や馬甲などの武具・馬具は高句麗の古墳壁画に描かれ、朝鮮半島南部の古墳から出土する。それらが日本の後期古墳から出土するのである。このことから、いわゆる騎馬民族系の人々が、日本列島に渡来したのは、一度ではなく何波にもなって行われたと考えられる。

<続く>

 


新春特集『遥かなり騎馬民族』(8)

2022-01-27 08:45:55 | 日本文化の源流

<続き>

〇前方後円墳の築墳思想

積石塚の源流はシベリアとか蒙古であるが、シベリアでは墓槨が下の方にある。中国でも墓槨は地下である。上のほうにあるのは、雲坪里の積石塚や伽耶の墳墓と日本の古墳である。

弥生墳丘墓(墓槨は上部)が発展して前方後円墳が誕生したとするのが、一つの有力な説であるが、森浩一氏はこの説をとらない。弥生墳丘墓は土を盛った墓であり、呉越の土墩墓と共通性はあるが、葺石をもつ前方後円墳の築墳思想とは相いれないとする。

積石塚古墳のなかに前方後円形を確認(高松・石船塚古墳)し、しかも日本の前方後円墳の多くが、前の時代の墓制になかった葺石をもっていることから、高句麗の前方後円形積石塚の影響を考えざるを得ないであろうと森浩一氏は指摘する。

(最古級の部類に入る箸墓古墳)

<続く>

 


新春特集『遥かなり騎馬民族』(7)

2022-01-26 08:08:06 | 日本文化の源流

<続き>

〇4世紀に騎馬民族征服王朝が存在する条件

高句麗が鴨緑江を越えて朝鮮半島北部に入った4世紀に、江上波夫氏が唱える騎馬民族征服王朝が倭国に実在したのであれば、大和、少なくとも北部九州に騎馬民族が到達していなければならない。そのためには、高句麗が鴨緑江を越えて朝鮮半島に入る前に、移動を始めた騎馬民族が存在する必要がある。

その存在を示す可能性が、慈江道の積石塚古墳群である。雲坪里の北に渭原(いげん)がある。1927年に明刀銭をはじめ中国・戦国時代の鉄器や櫛目文土器がまとまって出土した遺跡があるので、慈江道になんらかの大きな勢力がいたと考えられる。櫛目文土器は、主に狩猟や漁撈の生活を基盤とする人たちが創出したもので、シベリアから内蒙古、遼東半島そして朝鮮半島にかけて分布する。そして明刀銭は春秋戦国時代中国東北部、いまの河北省にあった燕國の通貨で、この貨幣が出土したことは紀元前すでに燕國と交流があり、その鉄器文化が入っていたことを示している。

慈江道の積石塚は、歴代の中国王朝の墓制に存在せず、騎馬民族独特のものである。積石塚として知られているのは、南シベリアのパジリク古墳群(前3世紀頃)、北モンゴルのノイン・ウラ古墳群(下限は後1世紀)、オラン・オーシング古墳、そして鴨緑江河畔で、いずれも騎馬民族の墳墓である。

(前方後円形積石塚・慈江道楚山郡雲坪里 『騎馬民族の道はるか』NHK出版より)

(オランオーシング遺跡:四隅突出墳丘墓の源流か?)

時代は下り4世紀頃(江上氏が倭国に騎馬民族が征服王朝を樹立したとする頃)、日本でも積石塚が約1500基も発見されている。弥生中期後葉の四隅突出墳丘墓の突出部及び墳裾の配石列と、その上方斜面の貼石は積石塚の変形であろう。

(四隅突出墳丘墓:出雲市西谷墳丘墓群)

慈江道蓮舞里の積石塚は四隅がはっきりと出ている墳丘が存在するという。雲坪里のそれは、それ程でもないと云うが、現地を訪れた森浩一氏は、『墳丘の裾を強調しようとした意図がハッキリわかる』と指摘しておられる。同様に雲坪里第四地区六号墳は、前方後円墳であろうと指摘されている。

これらの影響と思われる古墳時代前期の積石塚が、先述のように約1500基発見されているが、四国・高松の石清尾山(いわせおやま)前方後円墳群(ここでは石船塚古墳を紹介しておく)である。4世紀末の大阪・柏原市の茶臼山古墳もそうである。古墳時代前期に大和王権のシンボルとも云える前方後円形の積石塚が出現し、古代豪族の支配地である河内に、高句麗で見る積石塚が築かれている。

(香川・岩船塚古墳)

以上のように墓制に関する条件は少なくとも確保されているように思われる。しかし、古墳時代前期のそれらの古墳から出土する遺物は、騎馬民族との関係は薄いようである。

<続く>