世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

出雲と古代朝鮮(参)・須佐之男命考其之参

2021-01-31 07:11:01 | 古代出雲

<続き>

出雲と古代朝鮮に関して、須佐之男命との関連でやや妄想めいたことを記述している。その続編を宇佐神宮との関係で考察する。

宇佐八幡の創祀は明らかではないが、正和二年(1313年)選修の『宇佐八幡託宣集』なるものが残存している。八幡神は、鍛冶(ここでも鍛冶が登場するのだが・・・)の翁の姿で現れ、「辛国ノ城ニ、始メテ八流ノ幡ヲ天降シテ、吾ハ日本ノ神トナレリ」と宣したとする。この宇佐八幡託宣集の一文は、後世の付会として片づけることも出来るが、「辛国」は「韓国」であり、かつて宇佐八幡の奉祀者は辛嶋氏であった。この辛嶋氏は半島からの渡来人であろうとの説がもっぱらである。

(宇佐八幡宮 写真出典:ウキペディア)

この半島渡来の辛嶋氏が祀ったのは、八幡神と共に宗像三女神と、その背後に控える須佐之男命であった。

出雲国風土記の国引き神話には、八束水臣津野命が新羅より杵築の御𥔎を引き寄せたとあり、新羅との関係は深いものがあったものと思われ、それらのことどもを背景として、須佐之男命をボスとする韓鍛治集団が、出雲へ渡来したと推定される。須佐之男命は渡来神であったと思われるが、その出自より大国主命を凌ぐ存在にはなり得なかった。

・・・と云うことで、長々と須佐之男命と新羅の関係をみてきたが、結論としては、須佐之男命は渡来神であったと考えられる。

尚、蛇足ながら『日本のなかの朝鮮文化34号』所載の『高天原は新羅の慶州』とのテーマで寄稿した井上重治は、次のように寄稿されている。”日本のなかの朝鮮文化をたずねる時、その中心に神社がある。そしてその起源が新羅にあることに想いを致す時、これこそ高天原新羅慶州説を証明する確かな証拠であるということができると思う”。・・・う~ん。話しを面白くすれば良いとの類の噺で、信憑性はゼロに等しい。高天原を朝鮮半島・新羅に飛ばすには、確たる証拠が必要であろう。

参考文献)神社の起源と古代朝鮮 岡谷公二著 平凡社

<続く>

 


出雲と古代朝鮮(弐)・須佐之男命考其之弐

2021-01-29 07:45:25 | 古代出雲

<続き>

先に、『習近平の謀略』なる記事をUp Dateした。同じような見方をする人は他にもいるようだ。ココを参照願いたい。

須佐之男命は韓鍛冶(からかぬち)集団のボスであったとの見解を先に記した。新羅族か扶余族か別にして朝鮮半島渡来の人であったと云うことになるが、果たしてそうなのか。

須佐之男命が御子神・五十猛命とともに、新羅の蘇尸茂利(そしもり)から倭国の五十猛浜にもどられた地、そこは旧・出雲国と旧・石見国の国境であるが、そこに、その名もズバリ『韓神新羅神社』なる社が鎮座している。祭神は武速雄尊(たけすさのおのみこと)で須佐之男命のことである。創祀は延長三年(925年)のことで平安時代に相当する。須佐之男命が我が国に、新羅の蘇尸茂利から戻られた伝承を2-3世紀頃と仮定すれば、700年の後の創祀であり、何やら後世の付会かとも思われる。尚、近くには五十猛命を祀る五十猛神社も鎮座している。

(韓神新羅神社)

須佐之男命・五十猛命と朝鮮半島との繫がりを示す事例として、式内社としての韓国伊太氐(からくにいたて)神社が鎮座する。列記すると・・・

意宇郡 玉作湯神社坐韓国伊太氐神社

    揖屋神社坐韓国伊太氐神社

    佐久多神社坐韓国伊太氐神社

出雲郡 阿須伎神社同社神韓国伊太氐神社

    出雲神社同社韓国伊太氐神社

    曽枳能夜神社同社韓国伊太氐神社

ここで、同社坐と同社神、同社とでてくるが、ここではこの違いには触れないでおく。この韓国伊太氐神社は、式内社ではあるものの、その創祀の年代、由緒、祭神など分からない点が多いが、祭神は概ね五十猛命とするものが多い。

前回と今回、須佐之男命と五十猛命を祀る、仁多郡・伊賀多気神社、神門郡須佐神社や韓国新羅神社、韓国伊太氐神社をみてきた。両二柱の神の伝承と祀られる神社には関係がありそうだが、神社は後世に創祀されたものが多そうで、なにやら付会されている印象を持つ。

記紀によれば、須佐之男命は八岐大蛇を退治する英雄として語られているが、出雲国風土記には多くは登場しない。多くの神々が登場するが、大穴持命(大国主命)の登場比率が36.3%に対し須佐之男命は三分の一の13.6%である。冷淡と云えば冷淡であろう。何故か?

御存知のように『出雲国風土記』は神宅臣全太理(みやけのおみまたたり)・出雲臣廣嶋の勘造になるものである。出雲国風土記には須佐之男命の八俣大蛇退治は消されしまっている事実と上掲の登場回数。出雲臣廣嶋は国造家の嫡系に連なる人物である。ここから出雲国造家は須佐之男命の痕跡を消し去ろうとしたとの推論が浮かんでくる。

果たして、その推論は成立するのか? 出雲大社本殿の真後ろに素鵞社なる、素戔嗚尊を祀る社が存在する。素鵞社の確かな創建年代は不明であるが、1667年頃(寛文年間)に現在の殿舎が造営され、本殿から素戔嗚尊の御神体が遷されてきたと考えられている。これは何だ、須佐之男命の存在を消そうとする出雲国造家、出雲国造家が祀る大国主命の真後ろに須佐之男命が鎮座する。出雲国造家が古代において須佐之男命を抹消しようとした行為の怨念封じに、後世において素鵞社を造営したのであろうか。

二礼四拍手一拝は出雲大社の参拝作法であるが、これと同じ作法をとるのが宇佐神宮である。宇佐神宮の二の御殿の祭神は比賣大神、つまり宗像三女神である。宗像三女神は天照大御神と素戔嗚尊の誓約により誕生した。出雲大社と宇佐神宮の参拝方法が何故同じなのか?

双方の社に共通するのは、八幡神でも大国主命でもなく、須佐之男命であった。つまり両社建立目的のひとつが須佐之男命の怨霊封じであったと思われる。

これらのことどもから想定されるのは、須佐之男命は朝鮮半島から渡来した製鐵集団のボスであったが、在来の弥生人集団に飲み込まれてしまったであろう、その過程で怨念につなが抗争があったのか。在来の弥生人集団のボスが大国主の命であり、それはまた天孫族に滅ぼされる集団であった・・・との空想が過ぎる。

<続く>


出雲と古代朝鮮(壱)・須佐之男命考其之壱

2021-01-28 08:16:05 | 古代出雲

いつの間にか検索回数100万回に達した。尻切れトンボの多い我ながらよく続いたものだ。

大上段に構えたタイトルかつ中味の薄い内容で恐縮である。記紀によれば、素戔嗚命は高天原追放後、御子神の五十猛命と共に新羅の蘇尸茂利(そしもり)に天降った。しかし『此の地は吾居らまく欲せじ』として、出雲の簸の川上にある鳥上の峯に到ったとある。鳥上の峯(鳥髪山・船通山)は出雲国風土記の仁多郡条に登場するが、仁多郡の各郷は鐵の産地であった。その仁多郡の伊賀多気(いがたけ)神社の祭神は五十猛命である。素戔嗚命の鳥上の峯の伝承は、渡来人を指導者とする製鐵集団のことで、その奉祀する社が伊賀多気神社であったと推測する歴史家が存在する。

(鳥髪山:地元では船通山と呼ぶ)

一方で水野祐氏は『古代の出雲(昭和47年刊)』の中で、「須佐哀命は、新羅系帰化人の斎き祀った神である」と断定しておられる。そしてこの一団の人々が斐伊川(これは神門川の誤りであろう)を遡って西出雲の奥地(須佐郷)に入ったのは、島根半島部や東出雲がすでに海人部族によって支配されていて、入り込む余地がなかったと記され、その一団はいわゆる「韓鍛冶(からかぬち)」であって、砂鉄を求めていたためであろうと推測しておられる。

(須佐神社本殿・祭神 須佐之男命)

須佐之男命は方や奥出雲(東出雲か西出雲かと問われれば鳥髪山も仁多郡も東出雲に入る)へ製鐵集団と共に渡来したとする見方。方や西出雲の須佐に渡来した見方が存在するが、須佐之男命は渡来の韓鍛冶集団の長と云うことになる。つまり、須佐之男命は新羅族か扶余族か別にして朝鮮半島渡来の人であったことになる。果たしてどうであろうか。

<続く>


出雲斐川・久武神社

2021-01-27 08:31:00 | 出雲国

前回は才ノ神や木俣神等に絞って(下写真白枠内)紹介した。今回は久武神社と同じ境内に鎮座する出西八幡宮を紹介する。

久武神社の祭神は素戔嗚尊、八幡宮の祭神は誉田別尊である。久武神社の創祀年代は不詳ながら延喜式内社である。同一境内にある八幡宮も創祀年代は不詳なるも、社殿によると室町時代末期の勧請と伝わる。

(拝殿)

(本殿への石段)

(本殿)

神社の多くは拝殿の背後に本殿が建ち並ぶが、ここ久武神社は背後の小高い境内に独立して建立されている。

(稲荷社)

(若宮社)

(八幡宮)

(社日塔)

(諸荒神)

ここでも社日塔をみることができた。出雲で社日塔は多い。やはり米どころであろう。また新旧の荒神さんが多い。こんなに多いのは初めての経験である。

<了>

 


出雲斐川・久武神社の才ノ神

2021-01-25 09:21:25 | 道祖神・賽の神・勧請縄・山の神

出雲では塞ノ神(才ノ神)は比較的少ないが、斐川町出西の久武(くむ)神社に才ノ神が鎮座しているとのこと。過日、出かけてみた。久武神社については、別途記事にする予定であるので、今回は才ノ神と木俣神、塚神に絞って紹介する。

小川に架かる橋を渡り、最初の鳥居を潜ると右手に才ノ神は鎮座しておられた。この久武神社の同一境内に出西八幡宮も鎮座しておられる。何やら面白い神社のようである。

目指す才ノ神は、一の鳥居を潜ってすぐ右側である。そこには木俣神祠と塚神も見える。先ず才ノ神と木俣神である。

向かって右が木俣神、左が才ノ神である。道祖神ではなく、石塔に才ノ神と刻まれている。

木俣神は大国主命と八上姫の間に生まれた御子神である。正妻の須勢理姫の嫉妬を恐れ、御子神を木の俣に置かれ、郷里の因幡にお戻りになった。御子は木の俣に置かれていたことから木俣神と呼ばれている。出雲では木俣神はそれなりにポピュラーであろう。

この両祠の右手後方に塚神が鎮座していらっしゃる。由緒が良く分からない。

久武神社は出西の集落の出入口にあたるであろう。その才ノ神はやはり結界を示すものであった。久武神社と出西八幡宮については、後日紹介する。

<了>