世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

唐古鍵の楼観と古代中国

2023-06-24 07:34:02 | 日本文化の源流

中国の古代国家・漢が、倭ないし倭国へ与えた文化的影響は、どのようなものがあったのか・・・と云うのが今回のテーマである。

『後漢書・東夷伝』は、以下のように記す。“建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬”、“安帝永初元年倭國王師升(ココ参照)等獻生口百六十人願請見”、これらを読下すと、つぎのようになる。

建武中元二年(西暦57年)倭奴国から朝貢があった。遣使は自らを大夫と称し、それは倭国の南に在る。光武帝は、かの「漢委奴國王」印を遣使に託したと云う。また安帝の永初元年(西暦107年)、倭国王の師升なる人物が奴隷160人を献じて、謁見を求めたとしるされている。

このように後漢の時代に倭国と中国本土との交渉が記され、実際に「漢委奴國王」印が出土している。この金印以外にどのような文化的影響を受けたのであろうか。遣使にあたり、正使以外にも多くの人びとが大陸に渡ったと考えられる。後漢書東夷伝は、安帝の永初元年に160人もの奴隷を献じたと記すので、数百人規模で渡海したと考えても大袈裟ではなかろう。

以下、2葉の写真をご覧願いたい。1枚目は、卑弥呼の遣使(景初三年・239年)前にあたる弥生時代中期後葉の青谷上寺地遺跡出土の船団を描いた線刻板である。小型船3隻と大型船2隻以上が杉板に刻まれている。

青谷上寺地遺跡資料館にて

2枚目はやや時代は下るが、兵庫県出石の袴狭(はかざ)遺跡から出土した4世紀の線刻板絵で、15隻からなる船団がリアルに描かれていた。当時の倭人が、これらの船団を想像で描いたのか、それとも実際の光景を見て描いたのか。

袴狭遺跡 線刻板絵部分 兵庫県立考古博物館にて

後漢書東夷伝が記す“生口百六十人”と、これらの線刻板絵の船団規模に矛盾はない。

このように考えるなら、それらの人々が大陸で多くの文物に触れたはずである。代表的なモノとして考えられるのは、建物の壮麗さや文字、服飾、食べ物・料理の豊富さなど、日常生活の様子に触れたことであろう。

ここで後漢書が記す倭からの遣使は、朝鮮半島経由か直接渡海か、と云う課題、つまり人々の往来は後漢書の文面からさっして、半島経由のみではなく、江南の地へ直接渡海する方法も存在していた可能性が高いと思われる。それは帯方郡から邪馬台国に至る里程記事からも、うかがい知ることができる。倭地は会稽東冶(かいけいとうや)の東という地理感と云うか方向感覚は、どのようにして取得したのであろうか。現在も会稽山と呼ぶ山が、浙江省紹興市に存在する。紹興や寧波から東に向かって船出し、日本列島に至るとの彼地伝承が、三国志倭人伝や後漢書倭伝に記されたとしか思えない。そのように考えると中国から倭地へは、直接渡海ルートが存在したであろう。そのルートで中国へ渡った人々は、都・長安に宮殿や楼閣が建ち並ぶ様子に驚いたかと思われる。それがやがて楼観という高層建物となった。魏志倭人伝は以下の如く記す。“居處宮室樓觀城柵厳設常有人持兵守衛”既に楼観が存在していたことになる。

下掲の写真は、前漢後期から後漢にかけて作られた『水榭・すいしゃ』と呼ぶ池に建てられた楼閣を模した緑釉陶である。このような楼閣を遣使は見たであろうし、後の卑弥呼の時代には存在していたことになる。

唐古鍵遺跡出土の線刻絵画土器に線刻された楼閣は、その表れであろうと考えている。それを復元した楼閣と云うか楼観が唐子鍵遺跡に建っている。

水榭と呼ぶ楼閣を再度ご覧願いたい。これは漢代墳墓におさめられた明器の陶屋である。その出土例は揚子江北部に多いとされ、神仙思想に結びつくと云われている。屋根の天辺にとまる鳥は瑞鳥とか神鳥と呼ばれる。唐古鍵出土の線刻絵画土器にも見ることができる。復元楼閣に設けられた鳥、つまり線刻絵画土器の屋根の上の鳥はタマタマか、それとも上述のように何らかの伝承があったのか。

やはり、弥生時代後期には、鳥に関する民族的な諸々の事柄や漢代の神仙思想が銅鏡の文様と共に将来されたであろう。

<了>

 


『アジア太平洋の民族を撮る』最近読んだ書籍から(2)

2023-06-14 08:02:30 | 日本文化の源流

市岡康子著『アジア太平洋の民族を撮る』弘文堂 2023年2月20日初版本を読んだ。興味を惹いた事柄を記す。

毛沢東の死去(1976,9,9)後、文化大革命の終結が1977年に宣言された。著者の市岡康子女史は、その3年後の1980年雲南省喜州周城の白族(ペーぞく)①田植え祭りを取材されたようである。今回の記事は、その取材された様子と当該ブロガーが考えることである。

以下、著書の内容である。“田植えの初日には旗行列がでる。10m程の竹の天辺に鳳凰をかたどった飾りと、赤と青の旗を飾った竿を先頭に、田植えの一団が田圃に向かう。鳳凰は水を司る龍を制し②、赤旗は米の生育に必要な日照を、青旗は降雨を表すという。いずれも稲の無事な生育を祈願する意味がある。

(白族旗飾り・出典:アジア太平洋の民族を撮る より)

民俗芸能研究家で文化功労者の本田安次先生は、白族の田植えに登場する竿は、沖縄の豊年祭りに出る旗頭(はたがしら)③と形態がよく似っていて、沖縄ではここにカミが宿るとされていて、共通の意味が読み取れる。

田植えはチャルメラなどの楽隊のお囃子にあわせて、白族の民俗衣装をまとった女性たちが、時には高い声で唱和しながら進んでいく。日本でも平安時代から田楽衆④が、はやしながら早乙女が田植えする風習があり、現在でも広島県の囃田や花田植えにつながっている。“

(北広島町の花田植え 現地にて)

注目したのは、以上の記述内容である。ここで先ず、「10m程の竹の天辺に鳳凰をかたどった飾りと赤と青の旗を飾った竿」との文言である。上掲の写真付で紹介されていた。これは当該ブログで過去に何度も記事にしているが、鳥をトーテムとする東アジアや東南アジアの諸民族と共通の民俗事例である。代表的なモノは、苗(Hmong・モン)族の蘆笙柱の廻りで行われる予祝儀礼と同じ意味をもっている。

本田安次先生によると、白族の稲作における予祝儀礼は、沖縄の旗頭らと、北広島町の花田植えにつながるとの事。やや話しが飛び過ぎているように思えなくもない。白族の予祝儀礼が歴史的にどの時代まで遡れるであろうか。

残念ながら東近江の『ケンケト祭り』をいまだ実見していないが、去る5月3日に滋賀県竜王町の杉之本神社で挙行されたようである。以下に掲げる写真は、文化財オンラインから借用したものである。

ケンケトとは、お囃子の音頭から、そう呼ぶようであるが、色彩豊かな衣装に身を包み、長刀振りを奉納し、五穀豊穣と住民の安全を祈願する祭りで、予祝儀礼にほかならない。由来は、織田信長の甲賀攻め(1570年)に山之上地区⑤男児は鳥の羽根を頭に飾り、小さな鐘鼓をもって踊ると云う。

これらの予祝儀礼は、まさに鳥をトーテムとする人々の民俗にほかならないが、残念ながら歴史的には信長の時代からであり、当時鳥と稲作予祝について伝承があったのか、なかったのか・・・と云う確証は得られそうもないが市岡康子女史の当該記事を読み、倭族は揚子江下流域から日本列島に移動したであろうこと、苗(モン・Hmong)族もまた漢族に追われて中国深南部に移動した。双方の本貫である呉越の地の民俗的事象が、やや短絡的思考であるものの、『ケンケト祭り』に繋がったであろうと思った次第である。

参照)ベトナム建国神話とタンロン水上人形劇

注)

①白族・ペーぞく:雲南省大理白族自治州に居住するチベット系民族。未婚の女性が頭に捲きつける白い羽根飾りが民族名の由来。

②やや事実誤認があるようだ。雲南の伝承では、鳳凰ではなく大鵬金翅鳥(たいほうきんしちょう)と呼ぶガルーダがナーガ(龍)を捕食すると云う。この伝承の本貫は、古代インドでナーガはガルーダに捕食されるそんざいである。インドから東南アジア経由で雲南にもたらされた。

③旗頭:沖縄八重山地方の豊年祭りに用いられる。旗の天辺にハッキカシラ(八卦頭)、松竹梅頭等々が存在するという。

④平安時代から田楽衆:鎌倉時代からとの説も存在する。

⑤現在の滋賀県竜王町山之上地区。

<了>

 


北広島町壬生の花田植え

2023-06-07 08:03:30 | 日記

去る6月4日、北広島町で花田植え(”囃田・はやしだ”とも云う)が開催されるとのことで出掛けてみた。

花田植の主目的は田の神に豊穣を願うことである。芸北(安芸国北部)地方では、田の神を「サンバイ」と呼び、「三拝」「三祓」などの字が当てられることもあります。その名の由来は不明ですが、「五月蝿をはらう」「三把の苗」などの音からという説や、「三柱の歳神」や「三度神」を祀ることを指すという説もある。
昔は、花田植に限らず田植の季節になると、田の神がやって来て作業を見守り、それが終わるとまた去って行くと考えられていた。この神は、田の神の他、時期により歳神・七夕神・山の神になるという伝承もある。この囃田とも呼ぶ伝承は中世まで遡ると云うが、その源流は古代の呉越まで遡りそうだ。

その裏付けになりそうなのが、花田植えの後に行われる「えぶり」を逆さまに水口に立て、三把の苗を載せて「田ノ神」に奉るところに在る。この神事と云うか予祝儀礼は、花田植えの最後で、それまでに1時間以上を要す。とても待ちきれず帰宅したので、下掲の写真は北広島町hpより借用したものである。

これに関してはココをご覧願いたい。

<了>


『稲作文化の原郷を訪ねて』最近読んだ書籍から(1)

2023-06-01 14:20:46 | 日本文化の源流

森田勇造著『稲作文化の原郷を訪ねて』三和書籍 2022.2.17初版本に目を惹く一文があったので、今回それを紹介する。

それは、森田勇造氏の1990年頃の中国の紀行文で、話し主体の写真なしが残念である。以下、注目した点のみ紹介する。

『はじめに』と題するイントロダクション2Page目に、“越時代の人々①は、男は褌を締め、全身に入れ墨をし、女は腰巻姿であったとされている。また儀式の時には、頭に精霊の宿る鳥の羽根をさす『羽人』でもあった。”さらに“越はやがて西の楚に滅ぼされ、越国の住民の多くが、南の福建に逃れ、閩越(びんえつ)国を建国する。”・・・と記されている。

ここで、アンダーライン部分の記述について、森田氏の現地での見聞によるものか、出典が記載されていないので確証が得られないが、呉越の民は羽人であった可能性を示唆されている。これは河姆渡(かもと)遺跡から出土した象牙の彫り物である『双鳥朝陽』が物語っている。

双鳥朝陽・河姆渡遺跡出土象牙線刻品

河姆渡人は太陽と鳥を崇拝していたので、このことは森田氏の記述内容の裏付けとなる。

本文28Pageには、“1990年2月5日、河姆渡遺跡博物館を訪れた。展示物の中に鳥の頭をデザインした器具があった。何に使われていたのか分からず、同行の叶樹望氏に尋ねと「これは祭事用か儀式用に使われたもので、当時の人々は精霊信仰であったと思われる」”・・・と説明されたと云う。これも写真が掲載されていないので具体的な姿が分からないが、東南アジアで現在も残る習俗や、日本の弥生土器に刻まれた線刻絵画に残る羽人のシャーマンも似たようなものと考えている。

注目した2点目は、1996年1月、江西チワン族自治区武鳴県馬頭鎮前鮮村を訪れられた際、広場に死者を弔う旗が三本の竿になびいていた・・・と、写真付きで記されていた。残念ながら、その写真の掲載は遠慮しておく。

これは、日本の古い習俗と同じである。日本書紀神代上の一書(第五)に云う。『一書曰、伊弉冉尊、生火神時、被灼而神退去矣。故葬於紀伊國熊野之有馬村焉。土俗、祭此神之魂者、花時亦以花祭、又用鼓吹幡旗歌舞而祭矣。』

つまり、一書(あるふみ)に曰く、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)は、軻遇突智尊(かぐつちのみこと)を産むときに火傷を負い、それがもとで逝去する。故に紀伊國の熊野の有馬村に葬りまつる。土俗(くにひと)、此の神の魂を祭るには、花の時には亦花を以て祭る。又鼓吹幡旗を用いて、歌ひ舞ひて祭る・・・と、記している。

伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の埋葬地には旗がなびいていたことになる。今日、中国深南部やインドシナ半島北部の少数民族の習俗と古代日本の習俗には、驚くほどの一致点が多いが、前述の事例もその一つである。Cf)「日本の幟や幡は何なのか」

森田勇造氏の『稲作文化の源郷を訪ねて』と題する、いわゆる回顧録であるが、現在では目にすることができそうもない1990年代の見聞である。果たして今日、どこまでこれらの習俗が残っているであろうか。記録媒体が多様な現代、映像で残して欲しいものである。

<了>