とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

教育改革の混乱

2022-11-17 08:32:21 | 教育
 教育改革が混乱している。

 以前は教育の改革はゆるやかに行われてきた。それがいいわけではない。そのために旧態依然として教育が平気に行われていたのは事実だ。しかしこの10年教育改革はスピードを急激に増してきた。ここに来てコロナの影響もあってICTの導入が進み、改革のスピードが加速度的に進んでいる。

 小学校のプログラミングの導入、英語の教科科、スピーキングテストの導入、高校における「情報」の必修化ならびに共通テストへの導入など、どんどん改革が進んでいる。それぞれの改革の意味は分からなくはない。しかし議論が分かれる部分もあるのは事実である。それでも議論がほとんどないまま(少なくとも表立った議論はないまま)に、政府は改革を断行している。

 一番困っているのは現場である。教員を増やすこともなく、改革だけはどんどん推し進められる。何をやっているのかわからないまま推し進められ、混乱する。混乱の中でさまざまな歪が生じている。

 教育改革は必要である。しかしあまりにその改革のスピードが速すぎて、現場がついていけてない。

 「改革はまったなし」と言うのが最近の政治家の決まり文句だ。しかしおそらくその裏には一部の企業との癒着があるのだろう。本当に改革したいのならば、改革に必要な時間な余裕が必要である。このままでは「経験」という人間の財産を失うことになる。
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夏目漱石作「倫敦塔」を読みました。

2022-11-14 18:10:52 | 夏目漱石
 語り手は「余」。「余」が倫敦塔を見物に行った時のことを語るという形態の小説である。文体は論文風。固い文章である。

 倫敦塔は一時期罪人が幽閉される場所であった。歴史的な有名人も含め多くのものが処刑された。死者の魂が宿る場所なのだ。人間である限り、死者に対しては過敏に反応する。だからこそ「余」は死者の幻想を見る。

 この小説の大きな特徴は「余」は明らかに現実をみながら、その現実が幻想とまじりあっていくことである。読者は「余」の語りが幻想なのか現実なのかがわからない。わからないままふわりふわりとした浮遊感を感じながら読むことになる。その浮遊感は不安感であり、恐怖感を生む。

 ただし、語り手は「余はこの時すでに状態を失って居る。」と自分自身で書いているように、自分が「不安定な視点」となっていることを認めている。読者は不安定な文章を受け入れ、それを自分の感覚として受け入れることになる。

 倫敦塔の中にボーシャン塔がある。
「倫敦塔の歴史はボーシャン塔の歴史であって、ボーシャン塔の歴史は悲惨の歴史である。」
と「余」は説明する。ボーシャン塔では多くの人が死んだのであろう。

 「余」はボーシャン塔に残された死者の言葉を見て、こう語る。

 「凡そ世の中に何が苦しいと云って所在のない程の苦しみはない。意識の内容に変化のないおどの苦しみはない。使える身体は目に見えぬ縄で縛られて動きのとれぬ程の苦しみはない。生きるというは活動して居るという事であるに、生きながらこの活動を抑えらるるのは生という意味を奪われたると同じ事で、その奪われたを自覚するだけが死よりも一層の苦痛である。」

 いつ処刑されるかわからない中で生きているその苦しみを、不安定な文体がよく表している。作者の発明であろう。
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日本ハムファイターズの新球場の問題

2022-11-13 13:42:21 | スポーツ
 日本ハムが来春に開業する新球場「エスコンフィールド北海道」のファウルゾーンのサイズが問題になっている。公認野球規則では本塁からバックネット側のフェンスまで60フィート(約18メートル)以上が必要とされているが、15メートルほどしかないというのだ。私には子問題が必要以上に大きくなっていることに、日本の姿が見えるように思われる。

 規則は規則なのだからこれを遵守しなければならないという主張はもっともである。これを否定したら規則なんてなんの意味もなくなってしまう。規則を盾に主張をし続ければ誰も反論できない。

 しかし一方では、その規則自体が古いものであり、どういう根拠で作られたものかもよくわからないものであるようだ。そもそもがアメリカではアバウトであったものが日本語に訳された際に厳密になったという説明もある。しかもこのルールによって何がどうよくなるのかもわからない。これを変更しても誰も困らないどころか、観客にとっては臨場感のあるいい球場になるのである。「ブラック校則」と似ている規則なのである。

 こういうときのためにコミッショナーがいる。日本ハムに対しては戒告処分を与え、その上で新球場を現状のままで使用することを認めるというのがいい落としどころであろう。

 この問題でもそうなのだが、良かれと思ってやったことでも、ミスがあるとそこを必要以上に叩き潰す、そんな風潮が日本にはあるように思われる。もっと誠実に話し合い、よりよい解決を目指すという方向に進もうとうする態度が必要だと私は思う。
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映画『アイ・アム まきもと』を見ました。

2022-11-11 11:37:54 | 映画
 私の生まれ故郷である山形県の庄内地方で撮影された『アイアムまきもと』を見ました。少なくとも山形県では話題になっている映画だったのですが、私自身はどういう映画かまったくの予備知識のないまま見に行きました。感動的な作品でした。

 家族に看取られて死ぬのは幸福なことです。しかし多くの人はそうはいきません。ひとりで死んでいく人がたくさんいます。特に現在の社会状況ではそれが当たり前のようにも思われます。

 一人で死んでいく人を火葬してあげるのが、牧本の仕事なのでしょう。市役所の職員としてはそれで充分です。しかし、牧本はそれ以上のことをしてしまいます。家族を探し、さらには葬式を自費で行います。ありえないといえばありえない話なのですが、一人で生きる牧本の日常を見ていると、そのありえないこともリアリティがあります。

 牧本のやることはほとんど無意味に終わります。しかし最後に牧本の扱った死体に関しては、牧本の努力が実り、多くの人が葬式に参列します。

 同時に牧本も不意の事故で命を失います。牧本を見送るのは仕事で知り合った刑事ひとりです。しかし、実は牧本が見送った多くの死者たちが牧本を見送っていたのです。このシーンは感動的です。

 ラストシーンは印象にのこります。生きている人と死んだ人が高台の墓地で交錯します。生と死が昇華していくような映像です。見事でした。生きることと死ぬことを見つめる名作でした。
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夏目漱石の「思い出す事など」を読んだ。

2022-11-08 07:27:30 | 夏目漱石
 夏目漱石のエッセイ「思い出す事など」を読んだ。新潮文庫の『文鳥・夢十夜』に収録された作品である。主に修善寺の大患のことが記されている。読むのに時間がかかったが、漱石の人生観の変化を理解するためには必読の作品であった。

 この作品は、1910年(明治43年)の修善寺の大患を描いている。漱石の前期3部作と後期3部作の中間の時期に書かれた。朝日新聞に掲載された。

 漱石は1910年(明治43年)6月18日から7月31日まで胃潰瘍で入院していた。退院後、門下の松根東洋城が北白川宮の避暑に随行して修善寺に行くことになり、漱石は養生のつもりで修善寺へ同行した。養生のために行ったはずの漱石の胃はむしろ悪化し、8月17日に吐血する。東洋城が東京へ連絡し、翌18日に医師が、19日に妻の鏡子が修善寺に到着。彼らの見守る中で8月24日に漱石は3たびの吐血をし危篤となった。その時漱石は30分の間「死んでいた」と書いている。幸いにその後回復に向かった。10月11日に東京の病院に移送され、翌年の2月26日に退院した。

 メモしておきたいことはたくさんある。しかし今回すべてここに書く余裕はない。一つだけ書き残す。

 七章にウォードの力学的社会学を紹介している。長いが引用する。

 「魯国の当局者ではないが、余もこの力学的という言葉には少なくからぬ注意を払った一人である。平成から一般の学者がこの一字に着眼しないで、あたかも動きの取れぬ死物の様に、研究の材料を取り扱いながら却って平気でいるのを、常に飽き足らず眺めていたのみならず、自分と親密の関係を有する文芸上の議論が、ことにこの弊に陥りやすく、又陥りつつある様に見えるのを遺憾と批判していたから、(略)」

 文学は生きている。動き続けたものを便宜上切り取ったものである。その文学を固定したものと考えて研究しても意味がない。そう漱石は指摘しているのだ、そしてそのテーマが生と死を間近にして、より前面に押し出されてきている。生きることの意味を考えずにはいられない部分である。
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