がん(骨肉腫)闘病記

抗がん剤治療、放射線治療、人工関節置換手術、MRSA感染、身体障害者となっての生活の記録を残します。

相続税かからない「無利子非課税国債」を提言…自民議連

2009年03月11日 | Weblog
2009年03月11日 20時19分記載

URL http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20090311-OYT1T00001.htm



「自民党の「政府紙幣・無利子国債(相続税減免措置付き)発行を検討する議員連盟」(会長・田村耕太郎参院議員)は10日、現在の経済危機を踏まえ、利子が付かない代わりに相続税がかからない「無利子非課税国債」の発行などを柱とする緊急提言をまとめた。

 11日に麻生首相らに提出する。

 提言では、景気刺激策として、〈1〉政府紙幣の発行検討・金融政策の強化〈2〉無利子非課税国債の発行〈3〉贈与税減免による世代間の資産移転促進――を掲げた。

 政府紙幣については、「通貨制度・財政規律に対する信認低下のリスク」に留意した上で発行を検討すべきだとした。財政法で国会議決を条件に認められている日本銀行による国債の直接引き受けの検討も掲げた。

 無利子非課税国債に関しては、市場への影響に十分留意した上で今後の景気対策の財源として発行し、雇用・失業対策、零細・個人事業主対策などに重点的に活用すべきだとした。租税回避行為に悪用されないよう、一定の譲渡制限を設けることもうたった。

 贈与税減免では、3年間の時限措置として基礎控除(現行110万円)を2500万円に引き上げ、さらに住宅購入・改修時には1000万円、自動車購入時には500万円をそれぞれ上乗せする案を打ち出した。(2009年3月11日03時02分 読売新聞)」


無利子非課税国債については、ナベツネも自民党の勉強会に顔出すくらいだから、今後もずっと、読売が実施する方向へ世論誘導していくのは確実。


無利子非課税国債なんて愚の骨頂。さすがはナベツネが考えるだけのことはある。こんなもん実施するより金融資産税を創設する方がよっぽど国民全体にとって有益。

こういう案が出てくるのを見ると、やっぱり政治家は2世・3世のボンボンのボンクラばっかり集まってんだなと痛感する。
マスメディアのボンクラは、そういう政治家とつるんで、ワイン飲んで、記者クラブで情報統制して、独禁法の適用除外を受けてヌクヌク暮らしてるんだなと痛感する。

現状認識として完全に間違ってるんだけど、今は、国債を購入できるような層がお金を使わないから不況になっているんじゃなくて、給与所得者の給与が下がり続けて、年収200万円以下の国民が1000万人以上もいること、及び、余りに貧しい社会保障(例えば年金)により最低限の生活すら送れない人が増えていることに原因がある。消費したくても出来ない層が格段に増えているということ。


そういう状態を解消するには、50歳以上の国民が7割以上を保有する金融資産1400兆円に課税して、中間層や低所得層にその金を再分配すること。それ以外に現在の状況を改善する手立てはない。

無利子非課税国債の話をする時に、よく「タンス預金100兆円を活用する」とかいう馬鹿げた話が出てくるんだけど、タンス預金から金が出てくる保証は誰がしてくれんのかね。銀行預金や他の債権や株から金がまわってくると考える方が自然なんだけど。(タンス預金でしか買えない保証を誰かがしてくれんなら、無利子非課税国債導入しても構わないんだけどね。そんな方法ないけど。)

提言では、「贈与税減免による世代間の資産移転促進」なんて言ってるけど、こんなもん、誤魔化しもいい所で、正確に言うと、「資産のある特定の家庭内での資産移転」で、現在の貧困の問題は全然解消しない。寧ろ貧困家庭を未来永劫貧困のままにしようとする政策。結果、現在の社会情勢は全く変わらない。


まあホントくだらねえ真似ばっかりしやがる。早く政権変えなきゃ。


命をはぐくむNICU 

2009年03月11日 | Weblog
2009年03月11日 18時36分記載

URL http://www.yomiuri.co.jp/iryou/medi/renai/

URL http://www.yomiuri.co.jp/iryou/medi/renai/20081204-OYT8T00251.htm

「23週で破水、712グラムの早産

 2006年1月27日午前9時ごろ、横浜市の村田絵美さん(27)が目覚めると、背中の下でシーツが冷たくなっていた。隣では横浜ベイスターズ選手で、夫の修一さん(27)がまだ寝息を立てている。そっとベッドを抜け出してトイレに行く。湿り気は無色無臭だった。
 絵美さんは修一さんを大声で呼んだ。自宅近くのかかりつけ医を受診し、そこから救急車で1時間弱の病院に向かった。
 妊娠23週。産科医は「破水です。羊水は少し残っているので安静にして、一日でも長くおなかで育てるしかありません」と説明した。一方、小児科医は厳しい見通しを告げた。「今、生まれると9割は助からず、助かっても9割に重い障害が残るでしょう」
 2人は入団2年目の04年に結婚し、翌年8月、妊娠を告げられた。「まじっ!やったじゃん」。修一さんはニヤッと笑った。
 男の子と分かったのは、妊娠5か月。早くキャッチボールしたいな……。名前の候補を考えながら、そんなことも思った。
 それからわずか3週間後、「妊娠を続けますか」と医師に選択を求められることになった。出産を遅らせる薬を使いながら妊娠を続けても、長くはもたない。つまり、子供をあきらめるかどうか、を問われていた。
 「ずっと気をつけてきたのに、どうしてこうなっちゃったの」。絵美さんは、心の中で同じ問いを繰り返した。その間も、おなかの中で子供は元気に動く。どうしたらいいのか、混乱し、途方に暮れる妻に修一さんは言った。
 「この子の生命力にかけよう。亡くなったらしょうがない。生きてくれたら、どんな障害が残っても受け入れよう」
 その言葉に絵美さんの気持ちは少し落ち着いた。まだ生まれないでと祈りながら、立つだけで流れ出る羊水を減らさないようベッドの上で安静に努めた。
 10日後の雪の夜、非情にも陣痛がやってきた。修一さんは球団のキャンプで沖縄にいる。出産が近づくにつれて心細さが募り、分娩()室で、絵美さんは廊下に聞こえるほどの大声で泣き続けた。
 2月7日午前9時、胎児はつるんと出た。看護師が10人余りいたのに誰も「おめでとう」と言ってくれない。産声も聞こえない。やっぱり死んでしまったんだ。確かめるのが怖くて、目を開けられなかった。
 赤ちゃんはわずか712グラム。すぐに新生児集中治療室(NICU)に移された。(2008年11月27日 読売新聞)」

URL http://www.yomiuri.co.jp/iryou/medi/renai/20081128-OYT8T00187.htm



「生後6日 我が子の腸に穴

「さあ、さわってみて」。2006年2月7日朝、神奈川県内の病院に入院していた村田絵美さん(27)は新生児集中治療室(NICU)の看護師に促されるままアクリル製の保育器の小窓を開け、妊娠24週の早産で生まれたばかりの我が子を恐る恐るなでてみた。夫で、プロ野球選手の修一さん(27)はキャンプ練習で沖縄にいる。
 体重712グラムの男の子。目鼻がはっきりしないのっぺりした顔、薄くて光沢のある皮膚に包まれた体は黒っぽい。腕と足も細く、触るだけで折れそうだ。口のチューブには人工呼吸器がつながれ、おなかが膨らむ以外、ほとんど動かなかった。
 本当に生きているのか不安になり、我が子の右手を指でつついてみると、ギュッと握ってくれた。意外なほどの力強さに、「この子を守ろう」「私がしっかりしないと」との思いが初めてわいてきた。
 翌日の夜、修一さんもNICUに入った。「ちっちゃ」。修一さんは驚きながら両手ですくうようにして我が子を持ち上げた。想像していた赤ちゃんの姿とは違うが、2人には親になった実感が次第にわいてきた。夫婦で話し合い、修一さんが、気に入っていた漢字を上に入れ「閏哉(じゅんや)」という名を与えた。
 早産児の未熟な肺は紙風船のように硬く、人工呼吸器の力で破れる恐れがある。早産に多い「動脈管開存症」による心不全なども心配だ。閏哉君は薬で難を逃れ、3日後には栄養剤の点滴に加えて、鼻から胃に通したチューブで絵美さんが搾った母乳を飲み始めた。
 絵美さんは閏哉君を残して、12日に退院したが、翌朝8時、横浜市の自宅で寝ていた絵美さんの携帯電話が鳴った。
 「お子さんの腸に穴が開いたようで、この病院では対応できません。NICUのある大病院で手術しないと死んでしまいます。でも、受け入れ先はまだ見つかっていません」。小児科医の話に一瞬、立っていられなくなった。
 絵美さんは病院に向かうタクシーから小児科医に電話をかけたが、「県内のNICUはすべて満床で、静岡にしか空きベッドはありません。でも、着くまで生命がもつかどうか……」。受け入れ先までは100キロ余り。運を天に委ねるよりほかに道はない。
 一方、修一さんは閏哉君と会うために2日間だけ過ごして、すでにキャンプ地に戻っていた。
 NICU不足 全国に約2000床あるが、高齢出産などで早産児が増える一方、救命率が上がり、慢性的に不足している。149床の神奈川県でも満床などの理由で、2006年には103人の妊婦が東京など県外に緊急搬送された。(2008年11月28日読売新聞)」



URL http://www.yomiuri.co.jp/iryou/medi/renai/20081201-OYT8T00274.htm



「常識はずれの大量輸血



2006年2月13日昼、神奈川県立こども医療センター(横浜市南区)の新生児集中治療室(NICU)では、新生児科医長の豊島勝昭さん(39)らスタッフが、腸に穴が開く「消化管穿孔(せんこう)」の赤ちゃんの到着を待ち構えていた。
 この日も午前中までは、早産のほか、心臓や神経の先天的な病気など重症の赤ちゃんで15床(当時)は満床で、搬送依頼を断っていた。だが、その朝生まれた早産児の状態が予想より良く、隣の回復室(GCU)にすぐに移して、1床分の空きが作れた。
 間もなく、室内を無菌状態に保つ重い自動ドアが開き、おなかが紫色に腫れた男の子が、搬送元の小児科医に付き添われて保育器ごと運ばれてきた。プロ野球選手の村田修一さん(27)の長男で、6日前に712グラムで生まれた閏哉(じゅんや)君だった。
 胎児期には大動脈と肺動脈をつなぐ「動脈管」という管があり、出産後間もなく自然に閉じるが、早産児では閉じない場合がある。その治療薬の副作用として時に大腸に穴があく。閏哉君もその可能性があった。
 腸からおなかの中に漏れた便を吸引して清潔にし、重症なら穴の開いた部分を切除し腸をつなぎ合わせるのが通常の手順だ。ところが、右の下腹部に吸引用の注射針を刺すと、予想に反して血液が出てきた。腸に穴が開いた時に、腸の太い血管まで切れたらしい。
 いくら輸血しても出血が止まらず、じりじりと血圧が低下。肌も真っ白になり、呼吸状態が悪化した。極めて厳しい状態だ。
 その夜、キャンプ地の沖縄から戻った修一さんと、妻の絵美さん(27)に、豊島さんは状況を説明した。
 「腸の穴を閉じる手術が必要ですが、血が止まらない状態で行うと命を落とすと思います。手術の時期を探っていますが、悪くなっていくようなら、ご家族で天寿を見守ることを提案するかもしれません」
 修一さんは「確率は低くても、できる限りの治療をお願いします」と答えた。
 それから3日間、大量輸血や強心剤の投与などが続いた。全身の血液が5回入れ替わるほどの常識はずれの輸血をして、やっと出血が止まり始めた。すぐに手術室に運ばれ、外科医が腸にぽっかりと開いた5ミリの穴の両端を切り、つなぎ合わせた。生後10日の小さな体は激しい治療に耐え抜いた。(2008年12月1日 読売新聞)」



URL http://www.yomiuri.co.jp/iryou/medi/renai/20081202-OYT8T00217.htm  



「生後2か月 初めて抱っこ



赤ちゃんの体温を下げないよう室温が常時28度に保たれている神奈川県立こども医療センター(横浜市南区)の新生児集中治療室(NICU)に、桜の絵が飾られた。2006年4月10日、プロ野球選手の村田修一さん(27)は生後2か月になった閏哉(じゅんや)君を初めて抱っこした。
 人工呼吸器のチューブを看護師に支えてもらいながら、頭とお尻に手を添えた。体重は1310グラムと誕生時のほぼ2倍。身長も、初対面の時より3センチ伸びて約34センチになった。「長い!」。修一さんの予想外の歓声に、妻の絵美さん(27)と看護師は大笑いした。
 生後6日で腸から大量出血して生死をさまよい、手術で落ち着いたら次は、呼吸が不安定になり始めた。胎児が肺を育てるのに必要な羊水の多くが破水によって失われ、産道から子宮に侵入した細菌で肺炎に近い状態になっていた。
 看護師が24時間態勢で人工呼吸器の設定をこまめに調整する一方、絵美さんは毎日、深夜まで閏哉君に寄り添った。息苦しくなってアラームが鳴るたびに「がんばれ」と励まして体をさすり続け、修一さんも試合帰りなどに少しでも時間を作って会いに来た。
 容体が安定し胸元で抱っこできるようになるまで、2か月。修一さんは閏哉君のぬくもりを感じて、おでこにそっとキスした。
 「生きるか死ぬかの日々を過ごした閏哉の頑張りに比べたら、野球の勝ち負けがすべてと思っていた俺の努力なんて大したことないな」。修一さんは畏敬(いけい)の念さえ覚えた。
 生後3か月を前に、閏哉君は人工呼吸器も不要になり、より重症な子のためにNICUを譲って、隣の回復室(GCU)へ移った。そこで、初めて絵美さんのおっぱいに吸い付いた。鼻には酸素を補うチューブが着いていたが、力いっぱいに吸う。それまでの母乳は、栄養を強化し鼻から入れたチューブで直接、胃に流し込まれるだけだった。
 絵美さんは、搾乳室の隅で「元気に生んであげられなくて、ごめんね」と泣きながら搾乳した日々を思い起こし、「ちゃんと飲み方、分かってるんだね。すごいね」とほほ笑みかけた。
 それから2か月近くたち、退院を考え始めた閏哉君は磁気共鳴画像(MRI)の検査を受けた。早産やこれまでの治療が脳にどのような影響を残したのか――。担当医の豊島勝昭さん(39)は絵美さんに、「ご両親がそろう日に結果をご説明します」と伝えた。(2008年12月2日 読売新聞)」



URL http://www.yomiuri.co.jp/iryou/medi/renai/20081203-OYT8T00238.htm  



「脳に異常なし 元気に成長



神奈川県立こども医療センター(横浜市南区)の新生児集中治療室(NICU)と、隣の回復室に入院していた村田閏哉(じゅんや)君は、生後4か月半で磁気共鳴画像(MRI)の脳検査を受け、2006年7月、両親がNICUの隣にある面談室に呼ばれた。
 「結果はどうあれ、ちゃんと育てる」「大丈夫だと信じよう」。修一さん(27)と絵美さん(27)は自らに言い聞かせながら、担当医の豊島勝昭さん(39)が壁の観察台にMRI画像を2枚セットしていくのを目で追った。点灯すると、脳断面が計40カット、一斉に青白く浮かんだ。
 「32週未満の早産児の約5%は『脳室周囲白質軟化症』となります。その場合、歩くことに障害が残ります」。精神発達の障害は小学校に入ってから現れる可能性があり、定期的な検査が必要だが、運動機能の異常はこの時点で画像から確認できる。
 豊島さんは入院以来、繰り返した説明を、もう一度確認した上で、検査結果を伝えた。「でも閏ちゃんには、異常はなかったです」。豊島さんが初めて満面の笑みを見せた。
 閏哉君は6か月で体重は約1・8キロ。目をぱっちりと開け、時折笑うようになっていた。まだ肺が弱く、退院後も携帯ボンベなどで酸素を補う「在宅酸素療法」が必要だが、それ以外の症状は安定した。
 その頃、退院後の練習として、一家は院内の個室で泊まった。ソファベッドに「川」の字に身を寄せ合い、初めて同じ天井を見つめた夜。修一さんは約90キロの巨体で閏哉君をつぶさないよう緊張しながらも熟睡し、絵美さんは何度も起きて酸素を鼻に流すチューブがずれていないか確認した。
 そして迎えた8月21日、豊島さんや看護師らに笑顔で見送られ、閏哉君は病院を後にした。
 初めて浴びる太陽、初めて聞くセミの声、初めてのおうちでは、早速笑顔を振りまいた。「良かったね」「かわいい」。修一さんと絵美さん、祖父母が口々に退院を祝った。居間には液体酸素のタンクがあるが、やっと家族のメンバーがそろった。

 閏哉君は現在、2歳。在宅酸素も不要になった。「いっしょにキャッチボールしよう」などと、よくしゃべり、ちょこちょこと走り回っている。(山崎光祥)(次は「胃がん 気になる人へ」です)(2008年12月3日 読売新聞) 」