新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

私とアメリカを振り返れば

2020-01-08 14:41:33 | コラム
私は戦災で家を失っていた:

目下の国際情勢では、こんな事を論じている場合ではないのかも知れない。即ち、イランは宣言した通りにアメリカに対して報復に出たし、ゴーン氏は日本時間の本日に記者会見をして我が国を非難するそうだし、何処か近隣の国の大統領は年頭の辞で相も変わらぬ戯言を述べておられた等々の状態だ。だが、この際はこれらの諸問題の論評は専門家にお任せして、私はノンビリと来し方を振り返ってみようかと考えている。

我が家は不幸にも昭和20年4月13日に空襲で東京の家を焼かれて、ほぼ全ての家財道具を失ったが、幸いかどうかは別にして昭和16年に病弱だった私のせいで鵠沼に転地療養を兼ねて疎開していたので、家族は全員が命だけは失わずに済んだのだった。それならばアメリカを恨むのかも知れないが、それが後年にアメリカの会社に転進してしまうのだった。「これが世の中ってものだ」(=That’s the way things happen.)と言う得意の台詞を地でいっていたのだった。

戦後間もなくの中学1年の時にGHQの秘書の方に英語を教えて頂くようになったことは再三再四述べてきた。私が出入りしていたのはESSと言う経済科学局だったが、そこで当時は市中には出回っていない Coca Colaと言う小さな瓶に入った妙な黒っぽい色の苦いと感じた飲み物を味わう光栄にも浴していた。ESSは第一生命のビルの中には入っていなかったと思う。恐らくこれがアメリカのオフィスの中に入った最初の経験だっただろう。

その頃には進駐軍が来るというので藤沢市でも大いに警戒していたので、隣組の回覧でアメリカの兵隊が何らかの理由で家庭内に入ってきたらこう言いなさいという指令が来た。その英文は今でも鮮明に覚えている。“I cannot speak English. Please wait a while. I will bring a man who can speak English.”という立派に英語になっている文章だった。今にして思えば「これがスラスラと言えれば、何と英語を話していることになってしまうのだが」ということだ。ここでも「幸か不幸か」だが、隣組では誰もこの英文を使う機会はなかったと思う。

アメリカ兵との接触は三越でのアルバイト期間中に始まった。アルバイトは昭和26年12月から始めたが、アメリカ兵を相手にする売り場に転じたのは大学2年の昭和27年だったと思う。それは朝鮮動乱で第一線にいた多くの兵士たちが休暇で東京に来た時に、Noritakeや大倉陶園のデイナーセット等の陶磁器を買いに来るので、英語が解る学生アルバイトを募ったので応募したのだった。これはまたもや「今にして思えば」で貴重な経験だった。

それは兵士(当時はGIなどと呼んでいた)たちが話す英語の質の低さ知ることが出来たことだった。これも後年知り得たことだが、当時のアメリかでは軍隊入りを希望するような者たちは言わば「でもしか」の連中でしかないのだということ。これでは何のことが解らないと言われるだろうが、1994年7月にUSTRのカーラヒルズ大使が「対日輸出を増やす為にアメリカ為すべきことは、労働者階級の識字率を上げる点と初等教育を充実すること」と指摘されたのと同じだ。

これでも未だ解らないと言われそうなので実例を挙げれば、デイナーセットを買いに来た白人の兵士がケースの中のセットを指さして“Me lookin’ lookin’ OK?”と言ったのだった。既に兵隊たちのこの手の英語に慣れていた私は「そこのセットを出して見せてくれないか」と言っているのだと解った。どういうことかと言えば、ヒルズ大使が指摘されたように初等教育をまともに受けていない者が軍隊に入っていたのだという意味だ。このような言葉しか言えないのであれば、識字率だって高いとは思えないのだ。

1975年3月からW社に転じてからは、何度も述べてきたように製紙工場の現場で労働組合員たちと(本社機構にある者として例外的だと思うが)頻繁に接触して話もしたし、「品質向上が対日輸出に如何に重要であり、君等の一層の努力が我が事業部を救うのだ」と言ったようなプリゼンテーションを行ってきた。その結果としてヒルズ大使が言っておられたことが本当だと、残念ながら認識できたのだった。

当時でも何も製紙産業界だけではなく、アメリカの製造業界の工場を視察に行かれた多くの方が帰国されて「アメリカの製造業界は素晴らしい。特に現場では組合員たちの為に立派なマニュアルが用意されているのに感心した」という感想を述べられたのだった。それはその通りだと言える。だが、会社側の管理職たちに言わせれば「そこが問題なのだ」となるのだ。即ち、「立派に整備されたマニュアルを読めない者がいることと、読んだふりをする者がいるのだ」というのが屡々実体なのであるそうだ。初等教育が充実している我が国の常識では考えられない事態ではないのか。

私はリタイアしてから最早26年も経っているから、現在の組合員たちの識字率や教育程度がどの程度か知る由もない。だが、その頃よりも少数民族を含めて人口が6,000万人も増加したアメリかでは如何なる進歩か変化があったかはおよその見当はつくような気がする。私はこういうアメリカの職能別組合員たちと膝つき合わせて語り合うとか、彼等相手に「全員一層奮励努力せよ」といったような訓話をした経験をお持ちの方がどれだけおられるのかと思ってしまう。既に指摘したことだが、アメリカの組織では会社の管理職で組合員として現場を経験した人はいないはずだ。

アッパーミドルとの交流の経験にも触れておこう。1972年に転進したM社では初めてアメリカに入国した際に、パルプ部門の副社長とマネージャーの家族と夕食会があった。マネージャーは奥方ではなく中学生のお嬢さんを連れてきたのだった。M社は東海岸を本拠とする会社だ。その令嬢が食事の終わり頃に「一寸小母様の様子を見に行ってきます」と言って席を離れた。副社長がその意味は「若い女性が『手洗いに行く』と直接的には言わないものなのである。これが我々の階層では当たり前の礼儀だ」と解説してくれた。

私は我が家の長男を14歳の時に「何事も経験」と思ってダイナースクラブが主催したアメリカへのホームステイに出してみた。そのステイ先が何と我がW社の直ぐ近所だった陸軍中佐の家だった。そこで、私はその家に本社に出張した時にお礼を兼ねて挨拶に行ってみた。その家には長男と同じ年齢の息子さんがいたが、子供の英語には一寸解りにくい点があった難渋した。その話を我が上司で典型的なアッパーミドルである夫婦揃ってMBAの家で語って見た。その夫婦にも同じ年齢の中学生がいた。

その息子さんとの語り合いでは何ら問題がなかったので、「君の話し方にはついていける」と言ってみた。すると、その息子さんは少し表情を変えて「私はアメリカのアッパーミドルの家庭の息子です。軍人さんの子供と同じだとは思わないで下さい」と言い切ったのだった。流石に呆気にとられた気がした。翌日に本社でこの件を別の同僚に語ってみたところ、「アメリカの家庭が全部彼の家のように誇り高いことはないと思え。彼と我々では住んでいる世界が違うのだ」と「アッパーミドルとは」を教えてくれたのだった。

この家庭ではその息子さんは後にハーバードのビジネススクールに進んだし、お嬢さんはIvy leagueのブラウン大学を経て州立ではアメリカ最高のUCのバークレー校で文学の博士号を取って大学教授になるという具合だ。当時でも2人を私立大学に進学させたということは、年間に払う学費では日本円にすれば1,000万円を超えていたのだ。その辺りを何と言うことなく負担できてしまうのがアッパーミドルであると、副社長兼事業部長が教えてくれた。彼も息子さんと娘さんをIvy leagueの大学に同時に進学させていた。アメリカにはこういう階層があるということ。

私はこういう例に接する度に一体彼らの年収はどれほどなのかと考えさせられた。今やIvy leagueの大学では授業料だけで6~7万ドルもかかるのだそうだ。そうであれば、彼等のようなアッパーミドルとかそれ以上の階層からしか学費が負担できないのではないか。それ即ち、アメリカの経済界を支配するのは、そういう限定された家庭の子弟が多くなるというのも当然のようである。今回はこの辺りまでにしておこう。



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