新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

何という名前をつけたのだろう

2019-01-16 08:28:53 | コラム
国語力の低下かまたは破壊か:

正月(休み)の間は他に見たいものもなかったので、サッカー、ラグビー、駅伝、ヴァレーボール、バスケットボールもあったと思うが、そういう競技の高校の全国大会の中継を見ていた。私が採り上げたいのは何処の高校が勝ったとか負けたとかではなく、そこに登場する高校生たちの「名前」(アホなマスコミ用語では「下の名前」だが)の乱れというか、一層激しくなったキラキラ化と当て字、誤字、重箱読み等々の何でもありというか「如何なる頭脳構造でかかる命名をしたのか」と思わせてくれた不可解さに呆れていた。

換言すれば「我々1930年代前半生まれには想像も出来ない従来の命名の仕方の破壊とでも言いたい、我が国の名前の文化を無残に破壊した新時代の到来を確認できた」とでもなるだろうか。そこに使われている漢字には明らかに流行り廃りがあって、新時代にあっては「翔」、「航」、「大」(ヒロと読ませる)、「平」、「太」、「斗」、「介」、「星」、「莉」、「詩」、「乃」等々だが、外国人のファースネームに語呂合わせをした「賢斗」だの「沙羅」というようなものもこれまた多かった。

要するに往年は顕著だった例えば「伊東家」においては必ず「祐」の字を入れるといったような、その家系における伝統などは全く無視されて、我々旧時代の者には絶対に読めないような名前だけがのさばっているのだった。私には昨年甲子園を沸かせた金足農高の吉田君の「輝星」などは、何としても読みようがなかった。また、MLBで栄えある“Rookie of the year”(これを新人王と訳したのは名訳か迷訳かは私には判断できないが)を獲った大谷君の「翔平」などは上記の文字から二つも使った傑作かと思わせてくれる。

正直に言えば、私はかかる命名の仕方が良い傾向だとはとても考えられない。学校教育で国語と漢字の使い方と読み方をまともに教えていないのでかかる結果を生じたのだと思い込んでいる。同時に、我が国の命名の仕方の文化を破壊してしまっていることは好ましいことだとは到底思えないのだ。より厳しく腹蔵なきことを言えば「その程度の命名しか出来ないような、知的な下層階級が増えたのではないのか」とすら思いたくなってしまう。

それだけではない、「外国人のファースネームを真似た当て字をすることは、21世紀の今日でも未だに外国人に対する憧憬の念でもあるのか」と非常に情けなく思っている。その点は精一杯穏やかに言えば「そのような名前をつけておけば、将来海外に進出した際に彼らの世界に馴染みやすくて有利だろう」とでも考えたのかも知れない。だが、これもとんだお笑い種で、その殆どは正式なファーストネームではなく、ニックネームである例が多いのだ。例えば「トム」だの「ケイト」などは言わば略称なのだ。



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