新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

7月31日 その2 大和 勇様

2019-07-31 14:31:12 | コラム
大和 勇様

ご丁寧にお見舞い下さいまして、誠に有り難う御座いました。添付頂きました英語教育論も興味深く拝読親しました。そこで、何度かお読み頂いたかと思います、私の英語教育論をなるべく手短かに振り返ってみます。

私は物書きの真似事を始めましたのは1990年の春からでしたが、その頃の紙パルプ業界の専門誌に4年間連載致しましたエッセーが拙著「アメリカ人は英語がうまい」に掲載されておりました。その頃には「我が国の英語教育はあれでも良いのだ」としており、現在のように批判し改革すべしなどと余計な事は論じておりませんでした。それが1994年1月末でリタイアしてからは大っぴらに批判もするし改善すべしと言うように変わりました。

私の改革論の原点とも言うべき出来事は、何処で聞いたか今となっては記憶はありませんが、ある英語教育の討論会で「中学から大学までを含めれば8年も勉強しても話せるようにならないのは何故か」という質問に対して立ち上がった勇敢な女性の先生が「何を仰いますか。我々は英語を話せるようにしようとの目的で教えているのではありません。教科の一つとして生徒たちに5段階での優劣を付ける為に教えているのです」と答えたのには唸らされました、「全くその通りだろう」と。

私は「英語が良く解る事」や「英語をnative speakerのように話せる事」や「外国に行って働いても不自由しないで“I know how to express myself in English very well.”となる事」はごく一部の限られた人にとって必要なだけであると信じております。かく申す私は偶然の積み重ねでアメリカの会社に転進しました。そこでは英語が出来ることなどは査定の対象にはならない事で、そういう所を目指す人には最低限の必須の能力だと思っております。

何年前したか、政府の教育審議会だったかの委員の通産省のOBだった方が「小学校から英語を教えて国際人を云々」という発表をされたのを聞いた事がありました。終わった後で帰路が途中まで一緒だった元の新日鐵副社長のK氏が「万人に強制すべきことではないでしょう」と吐き出すように言われたので賛成した記憶があります。問題は「誰が何処を目指した何の為に英語を勉強するのか」だと思っております。私は我が国では英語を介在させずとも如何なる事でも学べる環境にある先進国だと思っております。

ここで告白しますと、アメリカ人の中に入ってあらためて「これは大変だ」と思い知った事がありました。それはアメリカのように厳然たる階級制度と言うかマスコミ的に言う「差別がある社会」では、国を支配するごく少数で構成された階層では言葉に対して極めて厳格であった事でした。我が国でも一部上場企業でもそういう点では厳格なものがあると承知しておりましたが、アメリカの厳しさというか煩さはそんなものではありませんでした。彼らアッパーミドル以上に属する人たちの厳格さはUKを凌ぐものがあると聞かされました。

私が転進した2社はそういう格式高い会社でしたので、それはそれは厳しいものがありました。それには何とか付いていけましたが、私は万人がそこを目指すような英語が出来るようになる必要などないとは思いますが、そうかと言って文法を無視し、綴りを間違え、“you know”を多発してしまうような語り方をしてしまっては、私がアメリカの全人口の5%もいないだろうと思う支配階層には相手にされないでしょう。だが、普通の日本人がそういう階層の人たちと膝つき合わせて語り合う機会が訪れる確率は限りなくゼロに近いでしょう。

ではあっても、そこかそこに近いとことを目指して勉強しておかないと、志を立てて留学するか駐在員で出ていった場合などには。彼らアメリカ人が口に出して言わないだけで「軽蔑される事は必定だ」と危惧します。簡単な例を挙げれば、夫婦揃ってMBAで共にコンサルティング事務所をやっていた知人と夕食をした際に奥方が「今日会った何とか氏は“Me, too.”という表現を使ったので幻滅した」と言い、夫は「そうか、彼がそんな言葉を使うとは」と言って嘆きました。そういう階層に住んでいる人たちが支配している国だと知って貰いたいのです。

だが、我が国に「アメリカとはそういう点が極めて厳格で、言葉遣いは言うに及ばず、文法も綴りも間違えてはならない世界があるのだ」と言って教えられる英語教師がどれほどいるでしょか。Swearwordとslangの区別が解っているでしょうか。また、native speakerが語るのを聞いて「アッパーミドルか、トランプ様の支持層であるプーアホワイト級かの判断が出来るのでしょうか。それに英連邦には独特のLondon cockneyに代表されるような訛りがあります。それだけに止まらず、慣用句もあれば口語体もあると心得ているか」という問題でしょう。

それですから、私は単語を覚えるのではなく「言葉の使い方は流れの中で覚えよう」と言って「音読・暗記・暗唱」で勉強しようと唱えているのです。そこに加えて必要な事は「真似をしよう」であって、彼らが使う表現を聞いて「なるほど。こういう時にはこう言えば良いのか」と記憶しておいて、「これはこういう時にこそ使おう」と思って、しまっておいた引き出しから出して使ってみる事でしょう。私にとっては英語は「獲得形質」ですから、現場にあっては「真似する事」は重要な要素でした。

何だか、教育論ではなくなって「英語の学び方論」になってしまいました。要するに自分からこういう風にやっていこうとすることが必要なのですが、周囲に真似をしても良いお手本が沢山ある事が進歩の重要な要素になります。という事は「自分からその気にならない事には前に進まない」とも言えるでしょう。こういうことを教えてくれる教師が沢山現ると良いのです。だが、現在の教え方を小学校にまで降ろしたのでは改革にはならないと危惧します。

真一文字拝


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