新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

英語の文章の書き方とその勉強の仕方

2024-01-08 08:16:08 | コラム
「易しい単語を使って、短い文章で誰にでも理解されやすく書く事」に尽きる:

昨7日には青森山田高校のサッカーのサッカーを論じたのと一緒にしてしまったので、主張がハッキリしていなかったと反省した。そこで、今回は私の年来の主張を中心にして「英語における文章の書き方(話し方にも通じると思うが)」を取り上げてみようと思う。基本は見出しのように飽くまでも易しく、難しくない文語的ではない単語と句と節を使って書く事であるのは言うまでもない事。

因みに、私は英語力が最も良く現れるのは英作文だと思っている。そこで、昨日何を述べていた事を基にて英語での書き方を述べていこう。

その英文の書き方(話し方でも同じだと思う)が上達していく過程には二段階があると思う。その二つの段階を繰り返して経験していく間に、自分の書き方(話し方)が確立されていくのである。その二つの段階とは、

*非常に易しい中学1~2年の教科書に出てくるような単語を使って、誰にも分かりやすい話し言葉のような文章で思う事が表現できる段階。ここでは単調になる事を恐れずに、短い文章の繰り返しになってしまう事を厭わないのも必要な要素となる。

*難しくて文語調の難しい単語(big wordなど呼ばれている)を多く使って格調を高くして、荘重で重苦しく理解するのが難しい文章にして、その出来映えに自己満足する書き方。例えば「コラボ」などというカタカナ語にまでされたcollaborateなどは、そういう言葉あるとは知っていたが、ついぞ使える機会は訪れなかったのだが、何処かで誰かが日本語に加えてしまった。

だと、考えている。ここには一つ、絶対に忘れてはならない条件がある。それは「如何なる場合でも文法的に正確である事」である。この点は、アメリカでも英連合王国でも「文法が間違えている事」即ち「非知的階層に属していない人物である」と看做されてしまうからなのだ。だからと言って、文法に縛られて思うように自分の思う事を言えないというのはまた別の問題であろう。

これらの二つの段階は当人が意識していようといなかろうと、順番に回って来るのだと経験的に言えると思う。何故そうなってくるのかと言えば、最初に上げた段階で書いた文章を、次の段階にある時に読んでみると、屡々「何だ、この幼稚さは」のように思えて、より格調が高い書き方をしようと反省してしまうのだった。だが、その格調が高いと思っていた書き方が、何時かは「この回りくどくて堅苦しい表現は何だ」と驚く事になるのだ。

私が思う最も優れた英文の書き方(話し方)とは「中学校1年の教科書に出てくるような易しくて平明で簡単な単語を使って、単調になっても構わないから短い文章で思う事を表現すること」なのだ。上記の二つの段階を繰り返して通過している間に、自然に両方の特徴を取り入れて、平明にして格調の高さも備えた各人の書き方が出来るようになるものである。

ここに至るまでに、非常に重要な事がある。それはなるべく機会を捉えてnative speaker、それも知的な階層にある人たちが書いた文章を読んでみる事、それも恥も外聞のなく音読して「彼らがどのようにして優しい言葉ばかり使って難しい事を表現しているか」を知る事であり、その表現を記憶しておき、何時かは自分の言葉にして使ってみる事なのだ。

要点は「こういう時にはこう言えば良い」という例文を沢山覚えておく事」が上達への道なのだ。但し、何故そう言うかの詳説は避けるが、新聞の表現は参考しない方が良い。

繰り返して言うと、この2段階への出入りを繰り返している間に、自然に立派な英語力が身につくのだと信じている。究極的には「易しい単語を沢山使って、誰にでも解りやすく、文法的に正確な文章」の域に達すべきなのである。

最後に、留保条件も付けておこう。それは我が国の学校教育における「単語を数多く覚える事、文法で束縛する勉強法」を時には無視しても構わないという事。私が長年唱えてきた勉強法は「音読・暗記・暗唱の繰り返し」だった。この方法で「頭の中から自然に、解りやすく、文法的にも正しい言い方しか出てこないようになるよう」に訓練が出来て、良い書き方を習得するのだ。

次なる問題点は「単語としての意味だけを覚えても、流れの中でどのように使われるか」を知らないのでは「チャンとした英文は書けない」と知るべきなのだ。即ち、その単語の例文をも同時に覚えておき、文章の流れの中でどのように使われているかを知る事が肝心なのだ。更に英語の先生方は「単語を教える場合に、それが口語なのか文語なのか、または隠語なのか禁句なのかも教えて置くべき」なのだ。そうではないと、上記の二つの段階が混在する英文になってしまう危険性が生じるのだ。

もしかすると、結果的には我が国の英語教育法の批判になっているかもしれないと思う。だが、あの教え方は上手く話せるようにすることを目的にしていないのだから、そこから離れて独自の勉強で行こうとなってしまうのではないか。少なくとも私は、学校教育とは異なる方法でnative speakerたちの中に入っても苦労しなかった。また某商社の若手に「何でそんなに易しい単語ばかり使って、難しい事がスラスラ言えちゃうのですか」と言われたのだ。