気ままに

大船での気ままな生活日誌

菱田春草展

2014-09-30 11:22:37 | Weblog

下村観山に第三の男とはいわせないと言わせた男(笑)、大観と並ぶ再興院展の巨匠、菱田春草。その回顧展が東京国立近代美術館で開催されている。初日に出掛けたが、感想文はだいぶ遅れてしまった。

何と、春草の作品に重要文化財が4点もあるという。これは、近代美術家の中でトップだそうである。それも、36歳という短い人生の中で。それらが、前後期合わせて、全部、みられるというのだから、又とない機会。ただし、前期は、”王昭君”、”賢首菩薩”そして、”落葉”の3点。”黒き猫”は”落葉”と入れ替わり、後期でしかみられない。その代わり、別の黒猫がいるので猫好きへの配慮は怠りない(笑)。

もう、若くはないから、本箱は増やさないと、今回も図録は買っていない。それに代わる参考書として、昨日、図書館で”日本の名画/菱田春草(中央公論社)を借りてきた。重文4点をはじめ主要な絵画がうつくしい画像で載せてあるし、評論家の文章も面白い。

大岡信が、こんなふうに述べている。もし春草が、最晩年の”落葉”と”黒き猫”を描くことなく、亡くなっていたら、これほど多くの人に愛される画家になったかどうか疑わしい。二十代に描かれた水鏡、菊慈童、稲田姫、王昭君は春草らしい、優れた作品ではあるし、その後の作品も素晴らしいものではあるが。三十代にインド、欧米に渡り、”春野”、”風”、”夕の森”など印象派やターナー、ホイッスラーあたりをみつめてきたことを伺わせる作品を描く。さらに、”賢首菩薩”、”紅葉山水”のような澄明堅牢な作品を描き、”秋木立”に始まる、一連の落葉シリーズを経て、六曲一双の”落葉”や”黒き猫”の高みに達するのである。

では、その最高傑作から入ってみよう。ぼくはむづかしいことはわからないが、この秋の雑木林の寂寥感が好き。目の治療にため、五浦から代々木に移ってからの作品で、近くの雑木林を描いたものだ。木々の幹が視覚より触覚的に誘いかけてくると、大岡は言う。なるほどと思う。

秋木立は、その8か月前に描かれた。

いきなり、クライマックスから入ってしまったが、展覧会ではほぼ時系列に進行する。1章日本画家へ/考えを描く 

16歳の作品”海老とさざえ”から始まり、学生時代の作品 ”秋草山水”、そして、卒業後の入選作品”水鏡”。天女もいつかは美貌も衰えるというテーマで水面に映る影でそれを表す。初期の代表作という。

2章 朦朧体へ、空気や光線を描く
輪郭線を描かずに、空気や光を描くという”朦朧体”。朦朧と言われるくらいだから、当時の画壇では酷評されたが、渡米したときには高く評価されたようだ。24歳、”秋景(深山紅葉)”は朦朧体の典型。ぼくはもう老体(爆)。そして”菊慈童”。周のぼく王の待童で、とがを受け、山奥に捨てられた。水だけを飲んで生き延び、いつまでも少年の姿だったという伝説が画題。朦朧とした紅葉の山奥に包み込まれるように少年がひとり。

そして、朦朧体がもたらした実りといわれる、名作、”王昭君”が生まれる。画家に賄賂を渡さなかったため、醜く描かれ、野蛮な匈奴の王の元におくられることになった王昭君。ぼくも好きな絵でござる。

あの素晴らしい王昭君をもう一度(笑)

3章 色彩研究へ:配色を組み立てる
いくつかの作品について、使用絵具の調査をすすめたところ、”賢首菩薩”では、何種類かの西洋顔料が使われていたようだ。研究熱心な春草らしい。賢首菩薩は描いた当時はあまり評価されず、展覧会ではあわや落選だったが、天心、大観の後押しで二等賞になった。それを伝え聞いた春草は、来年はもっと程度を下げて、審査員に分かるような絵を描こうかと言ったそうだ(笑)。いつの時代でも、どの分野でも同じ(笑)。この頃から目がおかしい、と言っていたらしい。

”風”。欧米から帰国1年後に描いた作品。英国風景画の影響が強くみられる。

そして、最終章へ ”落葉”、”黒き猫”へ、遠近を描く、描かない 

ここで”振出しに戻る”(笑)だが、絶筆といわれる”早春”をフィナーレに。その17年後の春草未亡人の話が残っている。黒い猫のあとで金屏風を一枚、描きましたが、そのときは全く眼が駄目になっていて、絵具を溶かしている私にかくして、そっと涙を拭いていたときの春草の姿は、今も手に取るように思い出します。

 

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