こんばんわ。
昨日、大谷の試合がなかったので、平塚美術館で始まった蕗谷紅児展を見に行ってきた。蕗谷紅児の回顧展は2011年に横浜のそごう美術館で見たことがある。また、新潟旅行で新発田市を訪ねたとき、改札口に”ようこそ蕗谷虹児の町しばたへ”の大看板があったのにはびっくりした。ここが生誕地で、蕗谷虹児記念館があり、見学もした。平塚美術館の展示品のほとんどがここの所蔵品である。
ここの看板娘が”花嫁”で虹児、晩年の作である。
花嫁(1968)
本展は以前報告したそごう美術館の回顧展とほぼ同様の展示品なので、今回は簡略に記録しておきたい。
蕗谷虹児は、1898年、新発田に生まれ、12歳で母親をなくし、丁稚奉公に出る。尾竹竹坡のもとで日本画を約5年学び、1920年、幼少の頃から憧れていた竹久夢二を訪ねる。彼の仲介で挿絵の仕事をはじめるようになる。初めの頃の挿絵の女性はどことなく夢二風だ。少女画報、令女界、少女倶楽部の表紙絵、挿絵を次々と描き、評判を呼び、夢二と並び称されるようになった。
睡蓮の夢(1924)
睡蓮の夢 箱(1924)
船 令女界・口絵(1925)
秋の声『少女倶楽部』第3巻第10号口絵)》(1925)
1925年、挿絵画家としての生活に飽き足らず、パリへ行く。エコールドパリの時代でサロンに出展したりして腕を磨いた。藤田嗣治にも認められ、俺の跡継ぎとまで云われたようだ。サロン入選作で晩年まで手元に置いていたという”混血児とその父母”や”柘榴をもつ女”(この絵は98年にパリの画商の倉庫からみつかったもので、オリジナル絵画スタイルを確立した絵として評価されている)などが展示されている。ほかに、パリから送った最新のパリファッションを身につけた少女が描かれた日本の少女雑誌の表紙絵なども展示されている。
柘榴を持つ女(1927)
パリ生活は短く、4年ほどだった。1929年、東京の留守宅の経済的破綻により急遽帰国。借金返済のため、心ならずも挿絵画家の生活に戻るが、パリ風のモダンな画風は一世を風靡した。1935年、詩画集”花嫁人形”出版。しかし、やがて日本が戦争に突入し戦時色が強くなると、虹児の絵は時勢に合わず制作を休止した。
終戦後は、復興された各誌に執筆を再開。講談社、小学館などの20冊を超える絵本の挿絵で子供たちに親しまれた。さらに、1956年、日本初の本格的アニメーションスタジオ(東映動画)に招聘され、”夢見童子”を制作。のちの宮崎駿、高畑勲らのアニメに影響を与えたとされる。
薔薇と少女 1968年
1968年、70歳を迎えた虹児は、画集と刊行すると共に個展も開催する。そしてその頃から挿絵ではなく絵画の制作にとりかかるようになる。1979年に80歳でなくなるまで画業をつづける。亡くなる年に描いた”母の面影”もラストに飾られている。結婚前は湯屋の看板娘だった、うつくしいお母さんを偲ぶ絵である。
胡蝶の夢(1968)
33年ぶりの公開だという。仰向けの女性の横顔と、その唇にとまろうとする蝶を幻想的に描いた。『令女界』1931年6月号の口絵「夢」を下敷きとして、1968年開催の個展のために描いた抒情的な作品である。
”虹児美人”をたくさん見られて幸せ。虹児は浮世絵の”春信美人”を好んだようで、これもぼくの好みと同じ。
大谷ドジャーズ、負ける
パドレスとの地区シリーズ第三戦。6対5まで追い詰めたが、大谷の一発が出ず、惜しくも敗戦。もう負けられない。明日は大谷2号を炸裂させ、ロスでの第5戦に持ち越したい。
では、おやすみなさい。
いい夢を。
倍賞千恵子/花嫁人形
作詞:蕗谷虹児、作曲:杉山長谷夫