気ままに

大船での気ままな生活日誌

続・大雄山参道二十八星宿灯

2012-06-03 10:35:17 | Weblog
"大雄山参道二十八星宿灯"第二弾。今回は当時の図録(平塚市博物館)を参考にしながら、基本的な事項をメモしておこうと思う。

まず二十八星宿とは何か?

星宿とは、江戸時代の星座のこと。西洋式星座体系でいえば、黄道十二宮に代わり、中国や日本の星座体系では、二十八の星宿が天の赤道の方向に沿って大空を分割していた。月、惑星は星宿の中を行き来し、太陽は一年で二十八星宿を一巡りするというわけ。日月惑星が星空の中を行く道だったのだ。28の星宿は、東方青竜領域の角から始まり、北、西、南と移動し、28番目の軫で終わる。

東方青龍:角宿、亢宿、氐宿、房宿、心宿、尾宿、箕宿

北方玄武:斗宿、牛宿、女宿、虚宿、危宿、室宿、壁宿

西方白虎:奎宿、婁宿、胃、昴宿、畢宿、觜宿、参宿

南方朱雀:井宿、鬼宿、柳宿、星宿、張宿、翼宿、軫宿

二十八星宿と現行星座との位置関係 
主な星宿は黄色文字で示した、角(1)から左へ順に(やや不鮮明な橙色の文字で星座名が示してある)、下図に移り右から左へ軫宿(28)まで、27,28は上図の右の二つと重複している。現行星座の位置も示している。




太陽と月の通る道の、道しるべを参道の道標にするなんて。何というロマンチックな発想だこと。江戸時代の小田原誠信講のみなさんに拍手。その後の、新吉原講の方々は、それを踏襲した。角の一丁目からはじまり星宿の順番に従い、軫の二十八丁目でおわる。

遠く離れた吉原遊郭の講とのかかわりは?

大雄山の信仰は、”講”による集団参拝が多いことで知られる。そして、その講は関東一円に広がっている。だから、新吉原が講をつくったとしてもなんら不思議はない。遊郭に携わる人々は一般人よりむしろ信仰心が強かったのではないだろうか。星宿灯には寄進者名が刻まれている。たとえば、江戸町1丁目、新明楼 福岡新太郎というふうに。(江戸町とは吉原遊郭内の住所のひとつ)。多くは楼主の立場にいた人たち、次いで引手茶屋名。個人名だけのもあるが、その中には”吉原細見”にも出てくる有名な三業組合取締取締役(妓楼、引手茶屋、遊女でつくる組合の長)や幇間の名前もある。

さて、遠く離れた、吉原が何故、大雄山に。遊郭吉原は元和年間に開かれている。その開設者は、荘司甚右衛門(甚内)。その父親が足柄の人だったという記録がある。大雄山と吉原の結び付きは案外、こんなところにもあるのかもしれない。なお吉原は、国府津の道標、江の島の鳥居、大山の道標も建てていたとのことだ。

ついでながら、峰慶一郎の”吉原御免状”は、宮本武蔵の弟子、松永誠一郎が、武蔵の遺言通り、26歳になり、吉原の荘司甚右衛門に会いにいくところから始まるが、吉原は、傀儡子一族が生き延びるために、つくられた砦、城であるという発想で書かれている。もし、本当であれば、山を故郷と思う彼らが、この天狗信仰の山に魅かれるのは自然のことであっただろう。


長々と書いてしまいました。以下、二十八の星宿灯(複数のもある)のすべての写真を1丁目から28丁目まで順番に掲載します。証拠物件として(汗)。

。。。。。

それぞれ、拡大することができます。

日月星宿 参道はじまり


以下1丁目から順に


なかなか見つからなかった、二つの28丁目


銘。 新吉原、江戸町の文字が


世界一大きい天狗の下駄


次は、吉原探索の予定です。吉原神社や淨閑寺の新吉原総霊塔など。
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