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まどか先生の「ママ達のおやつ」

ママの笑顔は、我が子が幸せであるためのママ・マジック。ママが笑顔であるために、この「おやつ」が役立つことを願っています!

驚いたり、感動したり・・・

2016年02月05日 | にこにこ
 冷たい・・・ あまりの冷たさに目が覚めてしまいました。
よほど疲れていたのか、それとも寝心地がいつもよりも良かったのか、私はベッドに入った時のままの体勢で寝ていたようです。横向きになってウトウトしながら、「ああ、右手がお布団から出ているわ・・・」と思っていたことを覚えていました
 それから数時間。朝の冷え込みで一層室温が下がり、その「お布団から出ていた右手」が氷のようにつめたーーーーくなってしまっていました

 私はまだ夜が明けきらない時間の、薄暗い部屋の中で目を閉じたまま、「何時かなあ・・・やっぱり手をお布団の中に入れて寝れば良かったあ・・・大失敗。まだもうちょっと寝られるかなあ・・・」と思いました。
 お布団の中に入れた右手は、だんだんじわじわと温まってきましたが、私は半分寝ているはずの頭の中で「お布団から出ている手は、あんなに冷たくなるんだなあ・・・」という思いがいつまでも離れず、もうひと寝入りしたいと思っているのに、なぜか脳ミソだけが活動を始めてしまったかのようで・・・
 その次に頭の中に浮かんできたのが、「むー・・・手を出してたらこんなに冷たくなって、目まで覚めてしまったのに・・・じゃあなんで顔は冷たくならないのかな?」「おかしいじゃない・・・顔は毎晩、お布団から出ているのに、どうして冷たさで目が覚めないんだろう?」ということでした
 そっと温まりかけた右手を出して顔をさわってみても、さほど顔は冷たくはありません。
 いやいや・・・考え出すと、どんどん脳は勝手に動きだし、楽しい二度寝はできる様子はなくなってしまいました。

 私達の身の回りには、「どうしてだろう?」「不思議だな?」と思うことがいろいろとあります
そんなにご大層なことではなく、ちょっとしたこと・・・「昨夜に使ったバスタオルは、どうして日なたに干しているわけでもないのに、洗面所のタオル掛けで乾いているんだろう?」そんなことだって、自分できちんと説明ができるか?と問われると、自信はないです ってことは、知っているような気になっているだけで、実際には「不思議だなあ」と思うことでもあります。

 3歳くらいになった子ども達は、よく「ねえ、なんでえ?」「どうしてなのお?」と聞いてきます
最初のうちは、まあうちの子も成長してきたのねなどと、フフフの気持ちだったのに、次から次へと「ねえ、なんで、なんで?」とやられているうちにすっかり面倒になり「もー、なんでなんでばっかり聞かないの とにかく、なんでもなの」などと言いたくもなっています。
 まっ、こんな時の答えるコツは、あまり学術的な説明をしようとするのではなく、3歳は3歳、4歳は4歳の頭で「なるほど」と思えるようなたとえ話などを使って、簡潔に、手短に答えることですよ 完璧に教えよう!などとは思ってはいけません

 それにしても。
私達大人は、いつしか「何事にも驚かなくなり」「おー!というような感動をしなくなる」そうではありませんか?
 そして、それが成長することだ、と思ってしまっている・・・ でも 私はやっぱり何歳になっても、自分の身の回りに起こること、周りの様子にびっくりしたり、感動したり、え?あれ?わー!という感性を持っていなければならない、と思っています
 なんでもかんでも、そりゃあそうでしょう、とか、まあこんなもんじゃない、のような「平坦な感性」では、きっと脳ミソが老化していき、身体の中の細胞たちも、どんどんとどんよりしていくのじゃないかな?と思うのです

 そう言えば。
かわいげのない子っていうのは、大人びた子、だと思いませんか?その大人びたって表現は、いつも平坦な感情で、わー!とかきゃー!とか、すごい!みたいな感情の起伏が乏しく、何でもそんなの当然でしょう?!みたいな顔をする子・・・だと私は思います
 大人も子どもも、「驚いたり、感動したり」する、プルンプルンした感性があったほうが、その人は素適で、豊かな毎日が送れるし、そのほうが生活が楽しいように思います

 ところで、何で顔は冷たくならないのかな?調べてみなくっちゃ
 

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学びは楽し!

2015年11月10日 | にこにこ
 「学びは、楽しい」と、私は今までに何度書いたり、言ったりしてきたことでしょう
何度書いても、何度言っても、言い足りないくらい・・・あっちでも、こっちでも言いたい、と思います。
 「学ぶ」とは、もともとは「知る」と同義語である、と私は考えています。ただ、いつの頃からか「学ぶ」のほうが上等で、高等なことのようなイメージとなり、学ぶことは座学的に「教えてもらうことを、受け身で学習する」という意味に知らないうちになってしまったような気がするのです
 「学ぶ」をこのように捉えてしまうと、私がそうだったように「算数を学ぶことは嫌い」「〇〇先生の説明は難しくてわからない。だから、私は物理を学ぶことが嫌い」となってしまうでしょう
 
 私は、幼い頃から、何でも知ることが大好きです 両親やまわりの大人、学校や先生によって与えられた事に対して深く興味を示したというよりは、自分の目の前で起こること、起こったこと、身近で見聞きしたことに、自然と「へえ、どうしてなんだろう?」「わー、すごい!」「それって何なの?」のように「その次」を知りたくなる・・・
 大人に(いえ、かなりのオバサン)なった今も、それは全くかわりません

 先月、夫の仕事の関係で、二泊三日で福岡に行きました
 二泊三日というとそれなりの旅行に聞こえますが、実質の滞在は1日半程度。そして、その滞在中は夫の会社が主催したセミナーを見学したり、レセプションのために着物の着付けをしたり・・・で、ほとんど自由な時間はありませんでした。
 でも、空いた時間を駆使して、有名な料亭のランチを食べたり、1時間の歴史お散歩ツアーに参加したり、かなり充実した有意義な滞在になりました
 私はこの歴史ツアーで初めて「福岡と博多の違い」を知ったり、一緒にツアーに参加した九大工学部の学生から町家の話を聞いたり、博多織の起源を聞いたり・・・今まで無縁だった町のことをたくさん知りました
 かと言って、今後も私は福岡に移り住むわけではなく、知ったからと言って、何ということもありません。雑学を披露するつもりもありませんしね
 でも、あれ以来、テレビで「福岡」と聞くとすぐにササッとテレビの前に立ち、「ああ、ここをバスで通ったな」「おー、ここはあん時の神社だ」などと、とても親しみを持って眺められるようになりました。
 もしかしたらいつか、私の知っている「〇〇」と、新しく知った「△△」がつながって、「なるほど~ そうだったんだねえ」となるのかもしれません。

 学ぶこと・・・本当に楽しいです
新しいことを知ったり、気づいたり、知っていたこと同士が不思議なところで結びついて、今度は違うものに発展していったり・・・
 
 先日、私の教室の生徒の保護者から、うちの子が夜ベッドに入ってから「ママ、ぼくさあ、おじいさんになってもマナーズには行きたいんだ」と言っておりました、とお知らせくださいました。私は嬉しくて、泣けました。
 11月は私にとっては別れの時期 小学校受験の考査を終えると、子ども達は静かに教室を巣立っていきます。
 こんな素敵なことを言ってくれた男の子とも、別れの時期がやってきます。残念ながら、その子がおじいさんになるまで、マナーズに通ってもらうことは出来ません。それに、小学生になれば、その子には目の前に大海が広がり、もっともっと素敵な世界が待っているのですからね
 でもね、この子が「おじいさんになってもマナーズに行きたいんだ」と言ってくれた理由の中には、きっと「あそこは、いろんなことを知ることができるところ」「あたらしい気づきのあるところ」「たくさん学べる場所」という気持ちがあったからではないか、と思うのです。
 なぜなら、その子の口ぐせは「へえ、知らなかったあ、すごーい」「そうなんだあ」「そっかあ、わかったあ」であり、いつも知ること、発見が楽しそうでしたから。

 私がイタリア語を習いだしてからまもなく、「イタリアでは、カプッチーノは朝しか飲まない。イタリア人は、午後や夜にカプッチーノを飲むことはしない」と、イタリア人の先生から教わりました 
 先生が「ゼッタイニ ノミマセン。コレハ アサノ ノミモノダカラデス!」と「絶対」を強調されたので、イタリア人にとっては、朝以外にカプッチーノを飲むということは、よほど変な「ええーーーっ」「Ma Come」ということなのでしょうねえ。
 確かに、イタリアの町のバールでは、午後にカプッチーノを飲んでいる人は見ませんでした。奇異な事なんでしょうねえ・・・
 私はカプッチーノが大好きで、今までは一日中、時間を気にせず飲んでいましたが・・・一度知ってしまうとねえ・・・
 別に、イタリア人ではありませんし、ここは日本なのだから、と思うのですが、どうもそのことを知ってから、何か朝以外の時間にカプッチーノを飲むことを躊躇してしまうようになりました
 じゃあ、知ることは楽しくないって??? はっはっは

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「自分で気づく」ということ

2015年02月18日 | にこにこ
 「早くしなさい」母親は、一日に何度、この言葉を口にするでしょう
ぐずぐずと支度をし、保育園や幼稚園に遅れそうになる・・・おしゃべりばかりをしてしまったり、テレビにくびったけになって、いつまでも食事を終えられない・・・いつまでも寝ない、いつまでも起きない・・・等々
 そのたびに、「早くしなさい!」と怒鳴ったり、脅したり、諭したり。
 でも、何度も注意をしたところで、本人達が「早くしないと、どんな問題が生じるのか?」「どんな不都合があるか?」がわからない限り、いやいや、実際に早くしなかったことで痛い目に遭わない限り、「早くしないといけない」とは思えないものですね。

 たまたま、子どもに対して頻繁に口にする「早くしなさい」という言葉を例にとりましたが、子どもに限らず大人であっても、人はどんなことも、自分自身で「気づき」、それを意識しない限り、実践、実行は出来ないのだと思います。

 たとえば・・・「どんなに美味しいからと言って、食べ過ぎたら太るよ」と注意されても、やっぱり食べてしまう・・・でも、とても大事なお出かけの日、お気に入りのパンツを履こうとしたら、ギャー、チャックが上がらないーとなって、初めて「ああ、毎日、食べ過ぎてたからだわ」と気づき、やっと、その日からは最後のふたくち、三口を我慢するようになる・・・なーんてね。

 じつは今日、私はとても心に残る、深い話を聞きました。
それは、カトリック校に通う小学校低学年の子の言葉・・・ここのところ、ずっと続いているISILのニュース。その子のご家庭でも、子どもにも理解できるように伝えたり、お父様やお母様のお考えを話したりされていたようです。親としては、何とも不条理な行いの数々に憤り、言葉に出来ない腹立たしさを感じていた時、お嬢様はこんなふうに話したのだそうです。

 「学校でね、あの人達が『自分達の行いが、悪いことだって気づきますように』て毎日、お祈りをしているよ」と。

 この言葉を読み、私は、ああ、なんて深いんだ・・・と心揺さぶられました。
あの人達の行いは「悪」ですと言うのは簡単なことです。けれど、この言葉は、そうではないのですね。自分達の行いが「悪」である、と自分自身で気づけるように・・・祈る、というのです。

 思えば、日頃の生活でもそうですね。
自分の行いが、相手(他者)に対してどういう意味を持つのか?自分の言葉が、相手(他者)にどんな思いをさせる言葉なのか?
 こういうことに自分で気付き、意識、認識できない限り、ずっと人を傷つけたり、不快にさせたりするでしょう。それがたとえ悪意のないものであったとしても・・・です。

 私は、まだまだ幼いこのお嬢さんが、手を合わせ、一心に祈っている姿を想像します
大きな大きな悪の前には、この小さな子ども達の真摯な祈りがどんなに深くても、一朝一夕に届くとは思いません。けれど、それでもなお、子ども達の祈りの深さ、強さに心動かされ、そして「祈り」そのものが子ども達の心に与える大きな意味を感じています。


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楽しむ、楽しい、という感情

2015年01月08日 | にこにこ
 「楽しくてしかたがなかった」「本当に楽しめました」青山学院大学の初優勝に終わった今年の箱根駅伝。駅伝翌日の4日、5日、6日と、日本テレビ系列のチャンネルでは、何度も青学の監督とランナーの姿を目にしました。
 そんな彼らの口から頻繁に飛び出した「楽しかった」という言葉。たぶん、10区間を走った全員が、マイクを向けられた時、1度はこの「楽しい」という言葉を発したはず、です。

 私は、ここ数年、スポーツ選手から多くこの「楽しい」という言葉を聞くようになった、と感じていました。スポーツ選手というものは、古今東西を問わず、基本的にはどんなスポーツの選手であっても、毎日苦しい練習を積み上げ、その成果、結果として立派な成績を残していくものなのではないか、と思っています。
 今ではすっかり運動から遠ざかり、文系人間になってしまった私ですが、50歳になったのをきっかけに、トライアスロンに挑戦するぞと決め、0からクロールと自転車を習い、一応は複数回、オリンピックディスタンスのレースは完走しました
 さすがに、レースに挑戦していた時には、ランニング練習を欠かさず、頻繁に泳ぎ、大井ふ頭でバイク練習もしました。
スポーツ選手と比較にはなりませんし、そんなことをしたら非難ごうごうになりそうですが それでも、真面目に頻繁に練習をしていた当時は、多摩川べりを走っていると、「このまま、いつまでも気持ち良く走れる気がする」と思ったり、プールの中では勝手に手足が動き、息継ぎをすることも無意識でしたし、風を切って走るバイク練習は気持ち良く、坂を登って必死な時も、「この登りを制すれば、あとは気持ち良く下れるのだ」とわくわくしたものです。

 おっと 話を戻さなくてはいけません。
じつは、本来の性格が生真面目な私は、オリンピックやワールドカップクラス級のスポーツ選手達が、試合後のインタビューで「そうですねえ。すごく楽しめました」というようなコメントをすることに違和感を持っていました。「君達は日の丸を背負って出場しているのならば、楽しむとか楽しいなんて感情や言葉は不謹慎だ」なんてね。

 でも、今回、青山学院大学の10人の選手達が「楽しくてしかたがなかった」と表現していたように、苦しい練習を積み、抜擢され、ひのき舞台で自分のイメージ通りに力を100%発揮している!と実感できている時は、本来は「笑いが止まらないほど楽しいのではないか?!」と思えるようになってきました たとえ、母校の襷というプレッシーの中であっても、過度な優勝への重圧をかけられることなく、のびのびと自分の持てる力を発揮できているという状態・・・楽しいのでしょうね

 箱根駅伝に限って言えば、10区間の特性を考えた上で、その区間にフィットした選手を監督が吟味し、抜擢をする、ということ自体、その選手、そのランナーの走りや人となりを「認めている」ということ、ですね。その10人のランナーは、監督から一人一人の「個、ありのまま、特性」を認められた上で、「がんばってこいよ!」と背中を押されている・・・
 そして、ケガでの故障を乗り越えたり、辛く厳しい練習を積み上げたり、十二分に努力をした選手達は、認められ、ステージにあがっている・・・
 やっぱり、楽しいのですね。決して不謹慎なんかではなく、十分な努力の上の「その瞬間、その状況」がすこぶる楽しいのでしょう

 つい、どんなことでも自分の仕事に重ね合わせて考えてしまいますが、この「楽しい」と言い続けた青山学院大学の駅伝選手達と監督の姿は、親と子の関係にも置き換えることができる場面が多々あるのではないでしょうか?
 過度の期待やプレッシャー、我が子の適性を考えない親、我が子を認めず、常にないものねだりをする親・・・18歳から22,3歳の駅伝ランナー達がそうであったように、3歳から6歳の子ども達も、ひたむきにがんばっています。
 中学受験に向かう12歳も、高校受験に向かう15歳も、大学受験に向かう18歳以上の子ども達も、やっぱり、がんばっているはず。

 ひのき舞台に上がる時。心地よい緊張はあっても、辛さや頑張りを経験したからこその、すべてを突き抜けたからこそ味わえるような「楽しさ」がある・・・素敵ですね


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新幹線でのできごと

2014年09月21日 | にこにこ
 新幹線の車内販売・・・どんなイメージをお持ちですか?
そもそも、新幹線に乗ることがないから、イメージさえない、という方がほとんどかもしれません
 月一の帰省のため、私は毎月、東海道新幹線を利用します。片道2時間半の間には、大抵、1度は車内販売のコーヒーを飲みます。昔と違って、今では車内販売のコーヒーも、すてたものではありません

 その車内販売。
売っているものは同じでも、売り手、つまり、ワゴンを押しながら「お弁当にお茶、サンドイッチ、ホットコーヒーはいかがですか?」と乗客に声をかけるお兄さんやお姉さんによって、かなり印象が違ってきます頻繁に乗るようになると、一人一人の「ワゴンを押すスピードや売り声」によって、その人の人柄や、その日の気分・・・なども見えてくるようになります。
 ディズニーリゾートのアトラクションのキャストなどとは違い、売り子さん達のセリフ?はすでに決まっているようですから、「今日の人の売り方は面白かった」なんてことはありません。でも、言うことが決まっているからこそ、その人の個性が見えてくるのかもしれません
 
 すこぶる愛想が良くても、ちっとも心がこもっていない人。言葉に「言霊」がないので、売り声と満面の笑顔だけがワゴンと共にむなしく通り過ぎます。
 仏頂面で、声にも張りがなく、仕事だから仕方なくやってます・・・みたいな売り子さんもいます。
 口を開けないで話すから、「おえんとうに、おや、あんどいっち、おっとおーいはいああ・・・」みたいに、何を言っているのかよく聞こえない、という人もいます。
 まあ、誰だって新幹線の車内販売が何を売りに来ているか?は知っているので、それでも困りはしませんが・・・
もちろん、本当に気持ちの良い売り子さんも大勢いて、それがほんの一瞬でも、ワゴンが通っていく時には、「旅気分」を味わえ、心和む時もあります

 今月の月初め、私は父の介護施設の方と午前中に面談のお約束があったので、いつもよりもかなり早い時間の新幹線に乗りました 駅でサンドイッチを買って乗ったので、できればすぐにコーヒーを買い、朝食を済ませたいと思っていました。
 ところが、新横浜を過ぎても来ず・・・やっと来たかと思ったら、何と!あっという間に通り過ぎてしまったのです 要するに、いつもの「お弁当にお茶・・・」という声が、全く聞こえなかったうえに、通り過ぎていくワゴンのスピードも、まるで急ぎ足で歩いている人のゴロゴロのスーツケースのようでねえ・・・さすがにその速さでは、後ろ姿に声をかけることもできませんでした

 何だかガッカリしてしまい・・・とにかくサンドイッチだけを食べ始め、ワゴンが戻ってくる時、待ち構えて買いましょう、と決めました。
10分ほどしたら、帰ってきました、帰ってきました。でも、やっぱり今度もスピードは新幹線並みで、売り声は「ささやき」級。
 すると、彼女が通り過ぎたあと、車両の前方(ワゴンがすでに通ってきたところ)に座っていたオバサン達が彼女を追いかけてきました そして「ホットコーヒーをください」と声をかけたのです。
 彼女がバックでオバサンの席まで戻っていこうとしたら、今度は、また次の人が席を立ってきて「ジュースか何かはありますか?」とたずねられました。すると彼女は「オレンジジュースがございます。ホットコーヒーとジュースですね」と答えました。
 ・・・と、その男性は「ちがいますよ。僕はあの人達とは違う席です」と言い、席に戻っていきました。スピードが速いのはワゴンだけではなく、お嬢さんは何に対しても慌て者のようでした。
 
 要するに、私と同じように、「買い物をしたかったけれど、彼女に声をかけられなかったお客が複数組いた」ということでした。私もその一人、ですからね、勇気を持って彼女を呼び止めなければ、少なくとも、その車両だけでも3組の人が欲しいものが買えず、彼女自身、3組ものお客様をみすみす逃したことになります

 ホットコーヒーをオバサン達に、オレンジジュースをオジサンに販売した彼女は、私の席あたりまで進んできましたが、またまた勢いよく通り過ぎて行きそうだったので、私は大きな声で「お願いします」と叫びました。彼女は、ハッとしてワゴンを止めました。

 ホットコーヒーを注文し、彼女が紙コップに入れて私の前に差し出した時、私がコーヒーの回数券で払おうとパスモの入ったカードケースを取り出したとたん、彼女はすかさず「現金のみとなっております」と言うではありませんか。
 私は、「いえいえ、私はパスモを出そうとしたんじゃないのですよ。回数券をお出ししますね」と声をかけると、彼女は真っ赤になり、失礼しました、と言って、回数券を受け取り、1回分をちぎってくれました。

 私は、意地悪を言うつもりは毛頭ありません。文句を言いたいわけでもない・・・
彼女が仕事に慣れていない新米さんで、羞恥心も克服できず、余裕を持って車内販売に臨めていないことはよくわかりました。だからこそ、一日でも早く、立派な車内販売員さんになってもらいたい と心から思ったのです。
 とにかく、現時点では最低限、「お客様を相手に仕事をするなら、客を立ってこさせて、注文を受けないといけないような仕事の仕方」は改めるべきですし、回数券の時も然り、焦らず、心の中で深呼吸でもして、お客様に相対することを覚えないといけない、とも思いました。

 何だかね、私は、彼女の手を握り、「大変なお仕事よね。きっと揺れている車内ではコーヒーを入れるもの大変でしょう?横柄なお客様もいるかもしれない・・・でも、がんばって あなたはもう、このお仕事のプロなんだから、がんばらないと!応援してるわ」と言いたい気分になってしまったんですよねえ・・・

 もちろん、お仕事中の彼女に、そんなことは言いませんし、手も握りませんでしたよ。ただ、彼女がコーヒーの回数券を返してくれる時、言ったのです。
 「私ね、あなたが先頭車両のほうに向かって通っていらした時、本当はコーヒーをお願いしたかったのよ。でもね、お声がかけられなかったの。私が思うには、きっと、あなたがワゴンを押すスピードが、ちょっと速いんじゃないかしら。お声も少し小さいし・・・ね、だから、さっきの女性も男性も、あなたをわざわざ追いかけていらしたでしょう?ちょうどあなたが席の横を通られた時には、お声をかけられなかったのだと思うのよ、速すぎて。私もそうだったもの。」と言いました。

 私は、彼女がどんな反応をするのか?は、想像できませんでした。ただ、お節介であったとしても、どうしても言っておきたい、と思ったのでした。
 すると・・・です。

 彼女は私に残りの回数券を返してくれたその後、しっかりと私の顔を見て、「すみませんでした」と言ったのです。
注意されたことがきっと恥ずかしかったのでしょう、耳まで真っ赤にして・・・でも、その声のトーンと彼女の眼差しが、決して拗ねたり、適当な受け答えをしているのではなく、ということが伝わってきました そして、その後は、「教えていただいた、ありがとうございました」と言って、頭を下げられたのです。
 
 正直、その行動は「意外」でした。そう、嬉しい「意外」でしたねえ・・・
『ああ、このお嬢さんは、まっすぐに育てられたのだろうなあ』と思いました。
親や、先生や、周りの人の言葉に素直に耳を傾け、それを受け止め、かけられた言葉に感謝をする・・・なかなか出来ることではありません。
 世の中、老若男女を問わず、大抵、人は「誉められる、賞賛される」ことは嬉しいことで、日頃は仏頂面をした人でも、評価されれば口元がほころびます
 でもその一方で「注意を受ける、叱られる」ということに対しては身構え、顔がこわばり、多くの場合には「ムカッとする」ものです。親の場合は、それが自分の子どものことであれば、その「ムカッ」は一層つのるようで、ほとんど心の中では「でも」と言い訳を考えるものでしょう。

 けれど・・・
「注意を受ける、叱責される」ということは、本当は人として成長できる大きなチャンス、なのですよね・・・その場では、当然、気持ちは良くありませんし、もし周りに人がいたならば、恥ずかしいという強い思いも湧いてきます。
 けれど、人は単純に「知らないから、間違ったことをしたり言ったりしている」場合も多いですし、「まあいっかの精神で、画竜点睛を欠く残念な行為を自分に許していること」もありますよね。
 しっかりとマイナスを指摘されることで、「そうだったのか」や「やっぱり、詰めの甘いことはやめよう」などなど、自分がちょっと上等になれる・・・ステキなことだと思います。

 人から評価を受けたいため、人から誉められたいためにがんばることも大事なことですが、自分自身が常に向上心を持って生きていく、ということは、人間としての値打ち、品格を上げる尊い行為だと思います

 きっと、このワゴン販売のおねえさんは、幼い頃から「きちんと叱ってもらい、そのつど、成長してきた」素敵な女性なのだろうな、としみじみと思いました。だからこそ、受け入れがたいかもしれなかった私からのアドバイスに、至極素直に反応してくれたのだろう、と実感したのです。

 最近の子ども達は、グダグダと母親にうるさく言われることは多くでも、ピシャリとお父さんやお母さん、おじいちゃんやおばあちゃんに叱られた経験が少ないようで、自分が今、「注意されている」「叱責されている」ということにさえ気づかず、平気で笑っていたり、ほとんど堪える様子もない・・・ということが多いです
 白紙で生まれてきた子達が、叱られることもなく、ちょっとしたプラスの行為だけで大層に誉められ、ご満悦で育っていくとしたら・・・行きつく先は「傲慢で、我がまま。学習意欲のない、成長できない人間」になっていくのは目に見えています

 次にワゴンが回ってきたのは、あと数分で新大阪に到着する、という時でした。
降りるための身支度をしている私に、笑顔で会釈し、「ゆっくりと」ワゴンを押していく彼女を見た時、私は本当に嬉しい気持ちになりました。
 ガンバレ 応援しています 彼女の後姿に静かに声をかけました。


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