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まどか先生の「ママ達のおやつ」

ママの笑顔は、我が子が幸せであるためのママ・マジック。ママが笑顔であるために、この「おやつ」が役立つことを願っています!

就職戦線に思うこと・・・

2012年03月27日 | めそめそ
3月もあと数日です。いよいよ、本格的な春の到来ですね。そろそろ、西のほうからは桜の開花のニュースも届くようになりました
 昨年の今頃は、まだ震災後間もない時期であり、世の中全体、特に余震のあった関東では、悲しみと、どこかで常に神経が張りつめた状態の時期でした。テレビを点けても、あまり賑やかな番組はなく、民放でも企業CMはなく、総理府から流れる同じメッセージだけで・・・ まだまだ復興というには程遠い被災地を思い、心を痛めながらも、あれから1年の時が過ぎたのだなあ、と、来る春を思うこの頃です。

 先週末、あちこちで「袴姿」の女子大生を目にしました 多くの大学では、先週、卒業式があったのですね。我が家の息子と娘は、昨年、大学卒業を迎えましたが、二人がお世話になった大学、どちらも卒業式も入学式も中止でした。あらためて、わが子達は大変な時期に学業の全過程を終了し、社会人として、世の中に出ていったのだなあ・・・と思います。

 そんな思いの中で、私はいつも、スーツ姿の若者達を眺めます。
私は仕事がら、小さな子ども達の姿に目を留めることが多いですねえ そして、特にこの時期は、入学や卒業の子ども達の姿を見ると、胸がいっぱいになり、心の中で全員にエールを送ります

 しかし、わが子二人が成長したことによって、以前は全く気にも留めなかったことに、新しい視点が生まれました
今までは、試験と言えば「入学試験」しかイメージにありませんでした 幼稚園受験、小学校受験、中学受験、大学受験・・・仕事の上でも、母親としても、「あまたの」試験をサポートする経験をしていますからね
 でも、じつは「就職試験」というものがあるのですよね・・・そして、リーマンショック以来の長い長い不況、そして震災。日本は、就職超氷河期の中にいます
 
 私も子どもが小さな頃は、テレビで流れる就職の話題や、ニュースでの報道に、「ふーん、そうなんだねえ。」程度の関心しかありませんでした。しかし、実際に、わが子達が大学3年になり、就職活動が始まる という時期になると、上手く言えませんが、何が何だか「???」の気分でした。なぜなら、昔の親の経験は、ほとんど役には立たなかったからです。インターネットが当たり前のものになった今、「エントリーシートをダウンロードして・・・」と言われても、ピンとこない・・・
 試験とはいうものの、入試のための勉強ではないので、塾や予備校に行くわけではありません。でも、どの試験の時よりも、独特の緊張感がありました
 我が家では、娘のほうが1年先に大学3年生になり、就職活動が始まりました。娘に付き合い、「黒のスーツ選び」をした時には、そんなものなのねえ・・・という感覚。1年後、息子の場合は、かなり特殊な状況でしたので、その不思議な感覚は一層強かったように思います。
 2年前の1月の末、まだはっきりとした退院の日が決まらず、入院中だった息子は、外出の許可をいただき、とにかく逸る心を鎮める意味でも、「とりあえず、リクルートスーツを買いに行こう」ということになりました。出かけはしたものの、すぐに疲れてしまい、駅のベンチやホームで、何度も座って休憩しながらの買い物で・・・本当ならば心配ばかりが先立つところですが、なぜか、強い祈りが「母と子の興奮」にもなっていたかもしれません

 おっと。話が横道に逸れてしまいました
私が今日、伝えたかったこと・・・それは、就職試験というものは、バッタバッタと「落ちる」ということ。そして、それを横で眺める(それを遠くで知る)親は、ひたすらチアアップしないといけない、ということです。そのチアアップの方法は、相手が「大人」であるだけに、それはそれはむずかしいこと、なんですよ・・・「就職すること」は、自分の足で立ち、生きていくための基本です その意欲があるからこそ、必死に就職戦線に立ち向かっている・・・
 そんな若者達が、どんどん、試験に落ちるのです それでも、めげたり、くさったり、落ち込んだりしている暇はなく、ひたすら前を向き、立ち上がり、次の就職試験に向かわなければならない
 これがね、大学受験だったら、「いやになった」「ちょっとの間、考えるのを止める」「ちょっと休憩する」と、浪人の期間、リハビリをすることが可能です。でも、就職試験の場合は、「休むこと」は許されません 卒業の時期はやってきます・・・
 わが子の就職先が決まらない・・・まだまだ小さな子どもをお持ちのみなさんには、それがどんなことか、なかなか想像できないことかもしれませんが、わが子の就職試験を経験してみて、「就職試験に落ちる」ということの「辛さ」「痛さ」が、いかに深く、重いものであるかを実感しました それは、そこに苦渋の決断が必要であったとしても、何らかのかたちで、進学先は決まっていく学校の受験とは、異質のものでした。

 あと1週間もすれば、世の中に「新入社員」達が誕生します でも、きっとほぼ全員がいくつもの「不合格」を経験し、打ちのめされる・・・立ち上がる・・・を必死の思いで繰り返してきた若者達なんですよ。
 地方から出てきて、一人暮らしをしている大学生達の場合は、親はわが子の就職活動を身近で見ることはありませんが、子どもは、その現実に立ち向かい、入社の日を迎えています

 子どもが幼い時には、話した 立った 歩いた と喜び、親子でともに「ほとんどがプラス」の体験を重ねていきます それが、ピタリと心身の成長と結びついています。こういう成長に慣れてしまった親達は、子育て中の「わずかなマイナス」で傷つき、悲嘆にくれることは多いものです
 でもね、やっぱり、世の中には「プラス」があって「マイナス」があるのです。それが道理だと思います。

 秋以降、リクルートスーツを着ている大学生達を目にすると、心の底から、私は「がんばれ!がんばれ!」とエールを送ります。
 愛する大切なわが子に「マイナス」が降りかかった時、悲劇のヒロインのママに成り果てて、さめざめと泣いたり、ワーワーと泣き叫んだりするのではなく親ではなく、「災い転じて福と成す」というバイタリティーを持って、わが子をあたたかく照らしてあげる「太陽の母親」になれるよう、精進すること・・・
 それが、母親としての責務ではないのかな?と・・・スーツ姿の若者達を見ながら考えています。

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人の心は見えるもの

2012年03月06日 | にこにこ
  人の心は見える、人の心は伝わる・・・私は、常々そう思っています
このことはよく、小学校受験の模擬面接の時にも、大真面目に語ります。思ったことを、心を込めて語ってくださいね、と。なぜなら、アナウンサーや講演者でない限り、立て板に水、で話す必要などないのですもの とつとつと話したとしても、言霊のこもった言葉には、色合いも重さもあり、相手に必ず伝わるものですから

 これから小学校受験の面接に向かわれるお父様、お母様は、書店に並ぶ虎の巻を購入し、そこに書かれたひな型で練習を積まれます。
 歯の浮くような賛美の言葉を並べ、声が裏がえらんばかりに力が入り、前のめりになって語られる・・・でも、そこに「心」が伴っていなければ、それらの言葉は口から出た瞬間にバラバラと床に落ち、何の感動もない言葉達が床に散乱する・・・
 きっと、小学校受験の面接が終わると、先生方は踵が隠れるほどの色と重さのない賛美の言葉達を掃いて・・・苦笑しながら捨てられるのでしょう

 じつは、なぜ急に面接の時期でもないのに、こんなことを言いだしたのか、と言うと。
日曜日、三浦海岸で第30回三浦国際市民マラソンが開催されました 当日はあいにくの曇天。ときどき、ポツポツと雨が降ることもあり、決してマラソン日和とは言えませんでした。海岸線というコースは、海からの風をまともに受け、体感温度は真冬だったことでしょう 三浦海岸の気温5℃。天気予報は、この日はうそつき、でした

 30回の記念大会ということで、何とこの日は「サプライズゲスト」として、高橋尚子さんが招待されていました そうです、キューちゃんの愛称で呼ばれる元オリンピック代表選手のランナーです。
 私は、昔からこの人が嫌いでねえ・・・42,195キロ走った後に、必ず「楽しかったですまた走りたいです」と満面の笑顔で話すのを見ていると、いったいこの人には「疲労」という感覚はないのだろうか?とか、サバンナの動物じゃあるまいし、そんなに「走る」という行為が最上の喜びなんて、どんな感性なんだろう?とか、どうしても思ってしまったわけです
 でも、現役引退し、マラソンの中継車に乗られたり、スポーツイベントで解説をされたりしているのをテレビで観ていると、非常に冷静、かつ的確な解説をされ、表現力も豊かで・・・だから、何というのでしょうか、語られる言葉に「温度」があるように感じるのです・・・
 そんなことで、最近では、少々認識をあらためる?ひどいことは言わない!ようになってはきていました

 この日は、私は応援でした
10キロとハーフマラソンに出る仲間達をスタート時点で見送り、コーチと一緒に歩いていると、高いところに設営された放送ブースの中にいるキューちゃんを見つけました
 彼女は、自分の前をゆっくり進んでいくランナー達に向かって身を乗り出し、「がんばってー」「寒いですからねえ。しっかり体を動かしていってくださいねー」「いってらっしゃーい私もあとから追いかけますよー」「がんばれー」「しっかりー」と、全員がスタートし終わるまで、ずっとずっと声をかけているのです。
 その様子に、とてもひきつけられました。
ビニールシートのようなもので囲われているスペースにいらしたのですが、キューちゃんのところだけ、温度があるというのでしょうか・・・遠目にも、そこだけが違って見えました

 マラソンの大会やトライアスロンの大会に行くと、必ず「MC」の人はいて、スタートの時や折り返し、トランジションの時には声をかけてくれます。
 便利な日本語の「がんばれー」「がんばってー」です。でもね、残念ながら大抵の場合、「ああ、この人、ずっとずっとこうして『がんばれー』ばっかり言わないといけなくて大変だなあ・・・」という気分にしかならない「がんばれー!」を言われるのですよ。そこには、何の温度も重さもなく、「が」「ん」「ば」「れ」という音の羅列でしかない・・・

 でも この日の高橋尚子さんの「がんばれ」は、全く違うものでした。
その後、私は走り終えて帰ってくるお仲間達のために、おでんを温めることに一生懸命で(海岸からの風が強く、カセットコンロの火がすぐに消えてしまうのです)、高橋尚子さんがどうされたのかは知りませんでした。
 そろそろ10キロのランナー達が帰ってくる頃になって、初めて、キューちゃんも後を追っかけて、同じコースを走りに行ったことを知りました。
 そのうちに、10キロの人達が帰ってきて・・・おでんは大好評 吹きっさらしの海風の中、おでん番をした甲斐があったというものです そして、ハーフマラソンの人達も完走し、戻ってきました。

 それから20分。ハーフマラソンの制限時間が迫ってきました。2時間20分。結構、この時間設定は厳しいものがあり、マイペースランナーでは時間内での完走は難しい?と思われる時間です
 私のお仲間も、2名がまだゴールしていなかったので、「制限時間まで、あと3分」という頃になって、コースの沿道に観に行きました。
 すると、たまたま目の前のコース上に、ゴールとは反対方向を向き、一人一人のランナーに声をかける高橋尚子さんがいたのです
 キューちゃんは自分は早々とハーフの距離を走ってきて、ゴールはせず、ゴールまであと7,80メーターというその地点に立ち、ランナー達に言葉をかけていたのでした。
「あと3分。がんばれ、あと少し」「大丈夫ゴールできる!あとちょっと」「走れ!ダッシュダッシュ
「あと2分。よくがんばりましたね。あとちょっとですよ」「すごいです!あとちょっとです」「がんばれ!まだ間に合う!ダッシュ
「あと1分 間に合います!走って」「ガンバレガンバレ!あとちょっと!ダッシュ

 あと30秒、あと15秒、あと5秒・・・という時まで、ずっとずっとランナーに声をかけ、一人一人の顔を見て、必死に叫んでいました
 不覚にも・・・私はその様子をずっと見ていて、涙が出てきました・・・

 この人は、真剣に目の前の人のことを応援してるんだ・・・
 この人は、本心から、がんばれ!と言ってるんだ・・・
 この人は、今自分の目の前を通りすぎる20キロ走ってきたランナー達に、深い愛情を持って語っているんだ・・・
 それが伝わってきました

 彼女の現役時代、「きっとこの人の脳ミソまで筋肉やねんわー」なんて、罵詈雑言で罵倒していたことを、心の中で何度も詫びました。

 たまたま夜、NHKを見ていると、笑福亭鶴瓶さんと一緒に、各地を訪問する番組に高橋尚子さんが出ていました
 岩手県大船渡市を訪れ、高橋さんは昨年の4月、陸前高田市にランニングシューズを届ける前に立ち寄った大船渡の海岸線で出会ったご老人のことを語っていました。
「私はあのおじいさんに会いたい。あの方の言葉に、大きな大きな力をもらい、あの時から、ずっと私はあの方のことが気になっていたんです」と話していました。
 昔の私なら、「ほらほら、また~」みたいなことを思ったのでしょうが・・・
 運よく、そのおじいさんと再開し、手を取り合って喜んでいる高橋さんを画面の中に見ながら、「やっぱり、本当に心のある言葉は、見えるよなあ・・・」と思ったものです

 お母さんがかける朝のひとこと「気を付けて、いってらっしゃい」も、本当にお母さんの心の底からの思いがあれば、単なる慣例的なあいさつ以上の意味を持ち、子ども達にその日一日の勇気と力を与えるでしょうね



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明日の私が、もっと素敵であるように。

2012年02月05日 | う゛う゛ー
 毎年、冬ってこんなに寒かったっけ?真面目に、毎日そんなことを考えながら過ごしています
 この冬は、流行するのが少し遅かったインフルエンザですが、やっぱりこの時期にやってきました。町に「がんばれ!中学受験生」のポスターが貼られる頃、決まってインフルエンザが流行するのですよねえ・・・
 小学校受験は、夏から秋への季節の変わり目で、気温、気候が安定しない時期。中学受験は、まさにインフルエンザの流行時期。
 もちろん、高校受験をするディーンエイジャー達や、大学受験をする高校生達にも災難降りかかることなく、無事に受験を終えてもらいたいと切望しますが、小学校受験、中学受験は、まだまだ受験生が幼いということもあり、万全の体勢で臨めないのは哀れでなりません

 さて・・・
みなさんは、一日、どれだけのことを真剣に考えたり、感じたりしますか?
 もちろん、お仕事をされている時には、とても真面目に、真剣に目の前のことを考え、対応されていることでしょう。しかし、私が今、たずねてみたいなあと思ったのは、普段何気なく過ごしている時間、特別のことをする時ではない、そんな平凡な時間に、どんなことを感じたり、考えたりされているのだろうか?と、ふっと思ったのです。

 ここのところ、ちょっと考えてしまうこと・・・がたくさんありました。今日はそのうちの一つを、お話させてください
 先日、私は郊外の駅で電車から降りた私は、約束の時間まであまり余裕がなかったので、ホームを慌てて歩いていました。 改札口に向かう下りエスカレーターに乗る直前、私はコーンと何かを蹴っ飛ばしたのです。コロコロと転がっていくものを目で追うと、それは見慣れた緑色のリップクリーム。医療系メーカーが販売している強力メンソールのあれ、です。コロコロと転がっていった先は、ホームのベンチの下でした。
 私は自分のリップクリームではありませんでしたし、あまり深い考えなく、「ああ、落ちていたのを、蹴っちゃったんだ」程度に思い、そのまま、足早にエスカレーターに乗り、歩きました。
 何段か降りた時、後ろで何か呼び止める声が聞こえました。でも、はっきりは聞こえなかったのです。私がそのまま降りつづけていくと・・・
 「もしもし、前の人!」
と、今度はしっかりと聞こえました。「?」と思った私は振り返りました。すると、年の頃、60代後半と見える女性が、
 「これこれ、あなた、落としましたよ!
と、リップクリームを差し出されました。私は咄嗟に、「あ、それ、違います」と応えていました。
 するとその女性、「ああ、そうなの・・・」と言われ、あとは、独り言のように、「どうしようかしらねえ、駅の人に・・・」と、そこまでは聞こえました。
 改札階まで降りで、数歩歩いた私は急に気にかかり、振り返って女性を探しました。あらためて声をかけ、お礼を言おうと思ったのです。
 しかし、その方の姿は、なぜか見つけられませんでした・・・

 私は駅を出て、歩いている間も、ずっとずっと気になりました 確かに、あのリップクリームは私のものではありませんでした。でも、蹴っ飛ばしたのは私です
 私よりもずっと年配だったあの女性は、「落とし主である私のために」、ベンチのところまで行き、身体を屈めて、手を奥に伸ばして、あのリップクリームを取ってくださったのです・・・
 そう考えたら、見ていなかったその光景が、まるでしっかりと自分で見たかのように頭の中に浮かびました。
 屈みこんだとき、ご自分が持っていたお荷物はどうなっていたのだろう?
 日頃はなかなかとらない姿勢をして、どこも痛くはならなかったのだろうか?
 私に遅れをとらないように、慌てて追いかけ、躊躇することなく、大きな声で呼びかけてくれたんだ・・・
 それなのに、私はケンモホロロに「あ、違います」と一言だけ言い残し、エスカレーターを降りつづけた・・・とても後悔しました

 確かに、他のお客様も降りていたエスカレーターでしたので、そこで立ち止まり、頭を下げてお礼を言うという状況ではありませんでした。
 でも、もっともっと、「言葉」ではお礼の気持ちを伝えることはできたでしょう。それに、自分のものではないと伝えるにしても、木で鼻をくくったような「違います」というのではなく、心のある言葉、違った言い方はあったはず・・・ 

 あの日から5日。
私は今もずっと考えているのです・・・ どうしてあの日、私はあんな対応しかできなかったのか?あの女性の厚意に応えるためには、どのようにして、どんな言葉で私の思いを伝えるのが最善だったのか?
 明日の私が、今日の私よりもっと素敵であるように、私はいつもいろんなことを心で感じ、考え、生きていたい、と思っています・・・



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脇役は重要です!

2012年01月22日 | う゛う゛ー
 先日、叔父と一緒に映画を観てきました
年末、一人暮らしの叔父を招き、クリスマスを一緒に迎えた時、プレゼントとして「目録」を渡していたのです。『映画を観て、美味しい牡蠣の夕食をご一緒しましょう』という目録。
 映画は、叔父のリクエストで、年末から話題になっていた邦画を観ました。年末には、三年越しでNHKの「坂の上の雲」を観ていたので、私も「海軍モード」になっていたこともあって、叔父のリクエストを快諾
 まるで、近現代史を学ぶような感覚の2時間でしたが、とても良い映画でした 主役の俳優さんが、良い味を出していて・・・むかーし昔、確か1970年頃だったと思いますが、両親と一緒に観た「トラ・トラ・トラ」という映画を思い出しました。しかし、何よりもあの頃とは違い、飛躍的に進んだCGの技術のおかげで、戦闘シーンも連合艦隊が航行するシーンも、非常にリアルで、タイムスリップした気分になりました

 しかし・・・この映画。製作費に多少の不安があったのでしょうか・・・それとも、もともと意図的にそのようにしたのでしょうか・・・主役級の俳優さん以外は、あまり普段は映画でもテレビでも観ることの少ない俳優さん達が「重要な脇役」を固めていて・・・見ごたえ、という点から言えば、やはり、主役級の俳優さん達との間にあきらかな「差」が浮き彫りになってしまい、とても残念だったなあ、という気がしてしまいました
 平たく言えば、素人の私が初めて「やはり、演技力の差って、こんなにもあるんだあ」ということを実感した一作でした。

 こういうことをあちこちの場面で感じながら、どこか映画の中にのめりこめない思いで鑑賞していた私は、ふっと、全く映画とは関係ないことを考えていたのでした

 世の中(それが大人の世界であっても、子どもの世界であっても)にはリーダーになるような人材と、リーダーのもとで動く人材がある。乱暴な表現をすれば、リーダー以外の人材は、それぞれが相応の力を持つ「駒」となって、構図としてはリーダーの元で動いているように見える。
 一般的には、リーダーには大きな実力が求められ、「駒」は、集まって初めて大きな力としての意味を持つ・・・
 
 でも
私がこの映画を観ていて随所で痛感していたことは・・・駒1、駒2、駒3は、脇役的な存在に思えるけれど、たとえ配役としては「脇役」であったとしても、決して各人はリーダーのための構成員でも、リーダーの引き立て役でもない セリフが一つ、二つだったとしても、そこで語られるセリフには大きな意味がある 「リーダー」映画で言えば主演級の俳優だけが重要なのではなく、脇役である「駒1」「駒2」「駒3」・・・が、どんなに大きな意味を持っていることか
 この作品では、それぞれの「駒」である脇役が力不足であるために、こんなにも作品そのものが見ごたえのないものになっている(あくまで、私個人の主観ではあっても)。
 やはり、脇役には重要な実力が求められ、それぞれがかけがえのな意味深い登場人物として、物語を作っていっているのだ

 とかく親というものは、主役級のリーダーのポジションに我が子を起きたがります。
グループリーダー、クラス委員、キャプテン、部長、生徒会長・・・スポットライトのあたるところに我が子の姿があるとそれは嬉しいですね ビデオだって回しがいがあるし、有給休暇をとっても、行くだけの価値がある
 
でも、私はやっぱり、Aちゃん、Bちゃん、Cちゃんそのものが存在する意味、その子の素顔を大事にして、Aちゃんの役割、Bちゃんの力、Cちゃんだからこその味・・・そういうものを、誰よりも親が気づき、親が評価してやれなければならない!と強く感じています

 「主役のオーディションに落ちた」「クラス委員の選挙に敗れた」「副リーダーにしかなれなかった」etc.etc. そんな我が子の嘆きを聞いた時、「良かったじゃないの。トップは大変よー。失敗したら大恥かくし、責任重いし 主役でなくって良かった良かった」などと、訳の分からないネガティブな慰めを言って、自分自身をも慰めるのではなく、我が子の良さと味に気づき、その力を十二分に発揮できるように、親こそがその子の力を評価し、エールを送ってやらなければならないと思っています。

 ああ、それにしても・・・
脇役にも名脇役と言われ、評価されているような俳優さんを揃えてもらった上で、あの映画が観たいなあ なんて、不可能なことを思いながら、叔父との牡蠣三昧ディナーを楽しんだ私でした

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新年、発想を変えてみる

2012年01月06日 | にこにこ
 あけましておめでとうございます
激動の2011年でした。何とか、今年2012年は、穏やかで、あたたかいニュースでいっぱいの年であって欲しい!と心から願っています

 さてさて。
年末は・・・日頃さぼっていることを、たーくさん片付けないといけない・・・というのが私の常、です あれもしなくちゃ!これもしないといけない!考えているだけで、胸が苦しくなります

 もともと、私は自分で自分にたくさんのことを課して、そしてそれを達成した自分を自画自賛するタイプでした そんなふうに、ずっとずっとやってきました。
 他人に評価されることも嬉しいですし たとえ他人からは十分に評価はされなくても、そんなふうに「がんばっている自分、がんばった自分」が好きなんですねえ・・・究極のナルシストだったかもしれません

 けれど、人生観が変わって以来、もうあまりそんなふうには思わなくなりました。
自分に無理難題を課して、自分で自分の首を絞め、時には忙しさのあまりに人に当たりちらし、青息吐息で達成し、そして自分を誉める・・・今はそんな馬鹿なことは止め、その「一瞬、一瞬」を大事にするようになりました
 目標は立てても、大きすぎる目標によって自分を追い込んでしまい、苦しくなるようなことはせず、今は、小さな目標をたくさん作るようにしました
 いきなり10歩先のことを目標にするのではなく、3歩先程度のことを目標にして、1,2,3・・・と、一歩ずつ進み、その過程を愛おしみ、楽しむようにしたのです。

 そんなことで・・・
昨年末、私には大きな変化がありました 自分でも驚いたのですが・・・
以前は、リストアップした「〇〇をする」「△△をする」が1つ終わると、それを線で消しました。そして私は必ず思ったものです。「ああ・・・まだこんなにもある・・・これだけ残ってる・・・いったい、いつまでかかるだろう・・・」そんなふうに思ったとたんにうんざりし、顔からは笑顔が消えました。イライラし、雑事や仕事を溜め込んだ自分を罵倒したり、腹を立てたりしていました
 当然、リストアップしたことをやっている時は気が急き、頭の中には「これからしないといけないことのリスト」がちらつき、気分はブルーでした。

 でも
昨年末は、発想を変えました。1つのことを済ませたら、「ああ、一つ終わったぞ 一つ、確実に終わらせることができた ああ、良かった」そう考えるようにしたのです。
 まだBもCもDもEも残ってるじゃないか・・・と思うのではなく、「A」をきちんと終えることができたー!無事に終わらせた、良かった良かった!と思うようにしたのです。
 すると、とっても気分が軽くなりました。そして、Aをやっている時は、自然とAだけのことを考え、慌てることも焦ることもなく、愛情を持ってAに専念できました

 これは、例のお寺のご本堂のお掃除の時に、「心をこめて一つのことをする」ということから、自然に会得したことかもしれません。
 実際に、Aに取り組み、Aを終えたら、すべきことは一つ確実に終わるのです。ところが、BもCもまだ残っている、と考えている時には、終わらせたAには心はない・・・ということ、ですよね。要するに、Aの時にはAのことを考え、Aを終わらせたらAを終えた!ときちんとAへの気持ちを完結すること・・・そして、あらたな気持ちでBに向かう!ということでしょうか。

 すると不思議ですよ。一つ、一つのことを終わらせる時、とても充実感があって、あたたかい気持ちになれます 気持ち良く次のことに移れるのです。これは、年末に限らず、どんな時に、どんなことをする場合も同じだと思います

 何だか、私は大きな真理を得た気分で・・・年末年始、帰省をした実家で、のんびりと座る暇もなく、あちこちに気を遣い、コマネズミノように働いた時も、今までのようにストレスは感じませんでした。(でも、大層疲れて戻ってきましたが

 どうぞ、みなさまも試してみてください こんなふうに気持ちの持ち方、発想の転換をするだけで、自分が楽になり、そして、すべてのことが好循環になりますよ



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