ダーリン三浦の愛の花園

音楽や映画など徒然なるままに書いてゆきます。

明日のためにその166-シロモンテイロ

2015年09月07日 | ワールドミュージック
サンバ界の名歌手。

熱いリズム、はじけるダンス、毎年行なわれるブラジルの「リオのカーニバル」は強烈だ。
この祭りの、下支えとなっている音楽は「サンバ」情熱的なリズムだ。
ブラジルの音楽も多彩だ。
「ショーロ」に「ボサノバ」そして「サンバ」代表的な音楽を挙げると、このようになる。
19世紀半ばには、演奏されていたという「ショーロ」1920年代から活発になった「サンバ」そしてこの中では最も歴史の浅い「ボサノバ」ブラジルは、様々な音楽を発信し続けた。
私は最初「ボサノバ」を主に聴いていた、王道であるが「アストラッド・ジルベルト」が好きで、彼女の声に癒されたものだ。
「サンバ」にも興味はあった、しかし、聴く機会が無くそのままになっていた。
「サンバ」は1920~1930年代に大きく発展した音楽で、その元になっていたのが、アマチュアのソングライターによる優秀な楽曲が殆どであった。
「サンバ」のソングライターで、忘れてはいけない人物がいる「ノエール・ローザ」である。
1910年生まれ、早くから楽器を弾き、ソングライターとして、頭角を現す。
しかし、破天荒な生き方が災いし、1937年26歳の若さで夭折してしまう。
私が「サンバ」を聴くきっかけとなったのは、この「ノエル・ローザー」を知ったおかげである。
また、「サンバ」と言えば二人の偉大な歌手達が思い浮かぶ。
一人は女性の「カルメン・ミランダ」もう一人は男性の「シロモンテイロ」今回はこの後者について紹介する。

シロモンテイロは1913年リオデジャネイロ生まれ、主に1940年代を中心に活躍した。
その風貌とは似つかぬ、ソフトで甘い声は広く民衆に受け入れられた。
彼は「エリゼッチ・カルドーゾ」や「イズマエール・シルヴァ」等に比べて、若干評価が低いのか、彼に関する資料は、残念ながら殆ど無い。
私も、本やネットで調べてみたが、彼の生涯を紹介するような記事は、見つからなかった。
しかし、彼が偉大な歌手であったことは間違えがない。
私は様々な音楽を聴いているが「シロモンテイロ」は記憶に残る名歌手であると言える。
下に彼の代表曲でもある楽曲を貼った。
是非、その歌声の素晴らしさを、堪能していただきたい。

シロモンテイロ おい、オスカル君

明日のためにその165-ハナ肇とクレージーキャッツ

2015年09月04日 | お笑い
クレージーキャッツと植木等。

私がまだ幼い頃、そう、第二次漫才ブームの時だった。
この時期は様々なコミックバンドが寄席を賑わした。
しっかりした演奏テクニックに、おちゃらけた演奏芸、しかし最後はそのテクニックを活かした抜群の演

奏で舞台をしめくくる。
私は幼いながら「凄い人達がいるなぁ」と感心したものだった。
私の記憶が正しければ、第三次漫才ブームの時は、唯一「いそがしバンド(後のビジーフォー)」がコミ

ックバンドの系譜を引継いでいた。
皆様が「ビジーフォー」で、思いだされるのは「グッチ雄三」と「モト冬木」ぐらいではなかろうか。
初期の「ウガンダちゃん(故人)」がいた頃を知っている人は少ないだろう。
しかしこの初期の「ビジーフォー」こそ、コミックバンドの王道で、私はいつも彼らを見ながら爆笑して

いた。
その元祖にあたるのが「ハナ肇とクレージーキャッツ」だろう。
紆余曲折を経て集まった、演奏力はしっかりしているが、一癖も二癖もある連中だ。
彼らは主に、戦後の米軍キャンプで演奏し、腕を磨いた。
既にその頃、バケツ等でメンバーの頭を叩くギャクを行なっていて、米兵から「お前達はクレージーだ」

と言われていた、これが「クレージーキャッツ」命名元とされている。
所属事務所は、芸能界の大御所渡辺晋ひきいる「渡辺プロダクション(通称ナベプロ)」
1950末年代から1960年代に人気をはくした彼らは、映画製作に関わることになる。
これが日本喜劇映画の名作「無責任」シリーズだ。
主演は植木等、ひょうひょうとして、しかし、妙に頼りがいのある男を好演した。

植木等、1927年、三重県に生まれる。
父親は寺の僧侶、12歳の時僧侶になるべく、上京し、小僧となる。
17歳のころ、バンドボーイのアルバイトを始める、これが植木と音楽の係わり合いの始めとなる。
23歳ごろから、様々なバンドを転々とする、その中には「ジョーダン音楽(コミックバンドではない)」

を日本に流行らせた「フランキー堺とシティスリッカーズ」も含まれる。
30歳のころ「クレージーキャッツ」の前身「キューバンキャッツ」へ加入。
以後前述のように、映画主演で一躍トップスターとなり、映画、テレビへの出演が激増する。
1993年ハナ肇の逝去により、事実上バンドは解散、植木は一人で順調に仕事をこなす。
70歳の時、肺気腫を患い、表舞台から姿を消す。
2007年80歳にして逝去。

植木等の略歴は以上のとおりだ。
植木はバンドでギターを担当し、しっかりしたテクニックも持ち合わせていた。
植木は根っからの、真面目人間だったという。
植木は「無責任男」を演じながらも「僕はああいう生き方はできない」と周囲に呟いていたと言う。
私はリアルタイムで植木の映画を観ていない。
私が大人になってから、地元のミニシアターで「無責任」シリーズの映画を公開してくれた。
喜び勇んで、私はそれを観に行った。
まさにカルチャーショックであった、スクリーン狭しと動き回る植木と、何故か滅茶苦茶な仕事ぶりだが

、不思議にも植木演じる「無責任男」は出世してしまう。
それは当時の私にはとてもかっこよく見えて、以来、植木は私にとってスパースターとなった。
「クレージキャッツ」のようなバンドも「植木等」のようなキャラクターも今は望むべくも無い。
日本の高度成長期、それとともに上りつめた「クレジーキャッツ」と「植木等」まさに時代の呼んだヒー

ロー達だったのではないだろうか。
下に、映画「ニッポン無責任時代」のエンディングである楽曲「無責任一代男」を貼った。
植木の素晴らしい歌唱を堪能していただきたい。

「無責任一代男」植木等(ハナ肇とクレイジーキャッツ)

明日のためにその164-麦子さんと

2015年09月02日 | 邦画
母親の青春。

時の流れは速い。
私自身、あっと言う間に年をとった、光陰矢のごとしである。
青春時代は、今やすっかり記憶の彼方だ。
昔の歌謡曲で「森田公一とトップギャラン」が歌った「青春時代」と言う歌がある、その歌詞の中で「青春時代が夢なんて、あとからほのぼの思うもの」と言う一節があるが、まさにそのとおりである。
青春時代に青春を感じている人は多いのだろうか、過ぎ去ってはじめての「青春」と言う「時代」をかんじるのではなかろうか。
今回紹介する作品は「麦子さんと」
自分を捨てた母親と、子供の物語である。
ストーリーを紹介しておこう。

麦子はアニメ声優を目指し、コミックショップでバイトをするフリーター、無責任を絵に描いたような兄と二人暮らしである。
正確には最近父親が他界し、二人暮らしになった。
そんな二人の前に彩子と名乗る女性が現れる。
彼女は自分は母親だと二人に告げる、二人にとっては自分達を捨てた母親だ。
彩子はその日から二人と暮らし始める。
そんな彼女を二人は絶対に母親と認めず、無碍な態度をとる。
そんな或る日、彩子は突然亡くなる、末期のガンであった。
麦子は兄と二人で葬儀を終えた後、母親の故郷に納骨をするためむかったのだが..........

ある手違いがあり、麦子は二日ほど母親の故郷に留まることとなる。
知り合いの民宿で、麦子は若かりし日の母親の写真を見る。
驚いたことに、その顔は今の麦子そっくりだった。
母親の故郷の男性達は口々に、母親の事を「地元のアイドルだった」「あこがれの的だった」と麦子に話す。
母の故郷では、彩子そっくりの娘、麦子を大歓迎する。
そして麦子は、母親が歌手を目指し、町のお祭りなどでステージに立ち、歌を歌っていたことを知る。
自分の母親の青春時代を、垣間見るのだ。
やかて、麦子は、母親への恨みが徐々に消えてゆくことを感じる。
母親の故郷で世話になった、母親と同級の女性ミチルから、母が歌を諦め、結婚し、麦子を妊娠した時の事を聞く。
ミチルは「彩子ちゃんはその時、今まで見たことの無いような、優しく幸せな笑顔だった」と麦子に話す。
その瞬間、麦子は母親に対する恨みが一気にはじけとぶ。

私達は生まれて、ものごごろがついたころ、当然のように両親は存在する。
しかし、私達は、両親を両親としてしか見ず、男性、女性と認識したことがあるだろうか。
私達がそうであったように、両親にも若い時代があり、青春の時を過ごしていたのだ。
まぶしく、輝くようなその時代を、両親がどのようにすごしていたのか、知る人は少ないだろう。
しかし、少しでも両親のそんな時代を想像すると、胸が熱くなるではないか。
人は生まれ、成長し、やがて結婚して、子供をもうけ、家庭を作る。
その過程において、若き日に自分の夢や希望を持つ。
そして時は過ぎ、自分の子供を持つときには、若き日々はある種「心の禁猟区」になってしまう。
私達は、同じ「時間」と言う環境の中で過ごした、両親の日々があったと言うことを、心に留めておかねばならない。

私事ごとで恐縮だが、今月は私の誕生月である。
今は天に居る両親に、感謝とこの言葉を送りたい「命をありがとう」

2013年日本製作、カラー95分、2013年12月日本公開、監督:吉田恵輔