被爆の記憶を次世代につなぐ
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浦上天主堂(長崎)
赤レンガを1枚1枚積み上げた天主堂も爆風とその後の火災により
わずかに堂壁を残すのみとなった。 (1945・9 松本栄一撮影)
75年前の8月9日午前11時2分、現在の平和公園上空約500メートルで米国の原爆が爆発し、年末までに7万人以上が犠牲になったとされる。
今朝の北海道新聞に「辺りには焼け焦げた臭い、腐った臭いが立ち込めていました」。長崎の犠牲者だった宮本須美子さん(82)が語っていた記事が載っている。
「兄は水を載せた大八車を押し、母は2歳の妹を、7歳の私はランドセルを背負って、黙々と歩きました」宮本さんは長崎の被爆体験を語る「語り部」だ。
また三笠市の中村政子さんは5年後に生まれた弟は被爆異状児だった。左右の足の長さが違い、背骨は曲がり、内臓障害で寝たきりだったと。弟と生きてきて「苦しみ 痛み 恐怖 悲しみ」を多くの人に伝えたいと「語り部」として人前に立つ。
「原爆は許せない」という思いで当時の記憶をたどって「被爆」の実態を伝える「語り部」の人達も年をとって少なくなってきた。
原爆投下後に被爆地に入った人や、被爆者の救護にあたった人なども大勢の人たちが放射性物質を含んだ「黒い雨」を浴び、健康障害に苦しんだ被爆者たちもいた。
7月29日その「黒い雨」をめぐる司法判断の判決で84人の原告全員を被爆者と認めるよう命じる判決を下した。国は見直しを迫られることになった。
しかし、安倍首相は6日被爆者の願いを無視して広島で控訴するかどうか判断を示さなかった。日本政府に核兵器禁止条約についても署名批准をしていない。
被爆から75年 忘れ去られようとしている原爆投下という悲惨な記憶をたどりながら、黙祷し犠牲になられた人たちのご冥福をお祈りいたします。
沢山の関係者に・・心よりの黙祷を捧げる