工作台の休日

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1994年5月 悪夢の週末

2020年05月01日 | 自動車、モータースポーツ
 こういう時節に辛い話を書くのも何なのですが、やはり自分の中で書いた方がいいだろうと思い、パソコンに向かっています。
 今日は1994年F1サンマリノGPの決勝レースでアイルトン・セナが亡くなった日です。このグランプリではその前日にローランド・ラッツェンバーガーが予選中の事故で亡くなっており、F1にとっては悪夢のような週末となりました。
 この年の第3戦となったサンマリノGPの週末、土曜日には「サンマリノGPに乾杯!」とか言いながら、自分でパスタをゆでて、トスカーナの赤と一緒に賞味していい気分になっていたのですが、翌日曜の朝、新聞のスポーツ欄かテレビのニュースだったかで、ラッツェンバーガーの訃報を知りました。オーストリアの出身で日本のレースにも出場していたので、名前は知っていました。このシーズンからF1デビューを果たし、新興チームのシムテックに在籍していたのですが、シムテックチームが多くの新興チームがたどった道と同じように参戦当初から厳しい戦いを強いられ、予選通過もやっと、という感じでしたので、新しいチームでルーキー(とは言っても30代でしたが)ドライバーの組み合わせが悪い方向に流れてしまったのか、とその時は思いました。
 ただ、この年はテストなどでドライバーの怪我が報じられたり、このグランプリの金曜日にもR.バリチェロが怪我をしています。この年からハイテク禁止になり、マシンの設計、メカニズムにも変化が生じていましたが、初戦2戦をテレビで見た感じでは「今年のマシンは挙動が神経質だなあ」という印象を受けました。
 そして日曜日の夜(ヨーロッパ時間の夕方)、セナの事故を知ったのは23時台にF1の中継の前に放送していたフジテレビのスポーツニュースでのことだったと思います。事故の様子とコース上で行われた救命活動の様子を見たときに、これは深刻だなと直感しました。F1の放送の時間になってからも現地から実況、解説陣がレポートしていましたが、その中でピットレポーターの川井一仁氏が「この週末は事故が多発したことで関係者が早くここ(サーキット)を出ていきたいという気分になっている」といったニュアンスのコメントをしていました。これらの大事故以外にもマシン同士の衝突が元で破片が観客席に飛び込んで負傷者が出たり、ピットでもタイヤ交換のタイヤが外れてあらぬ方向に転がり、メカニックに当たって負傷、というアクシデントがあったからでしょう。余談になりますが、2014年日本GPでジュール・ビアンキの事故があった際にも、私がいたスタンドからは事故の様子が見えなかったのですが、それでもサーキットをとても重い空気が伝染するかのように広まったことを覚えています。このときのイモラサーキットも、きっとそんな感じだったのでしょう。
 しばらくはセナの容態も分からず、フジテレビもセナの事故で中断していたレースが再開したあとの様子を流していましたので、私も遅くまで起き続けるのもどうかと思い(その頃新しい職場に移ったばかりで緊張の日々を過ごしていたのです)、布団に入ったのでした。セナが亡くなったというのを家族から聞かされたのは翌朝でした。
 他のカテゴリーでは死亡事故を見聞きしていましたので、モータースポーツを見る中で避けて通れないことであることは理解していましたが、F1に関しては決勝レースでの事故は82年以来、テストも含めると86年以来ですので、F1に関してはめったなことでは大きな事故はないだろう、というような思いが私にもあったように覚えています。セナの死には「こういうことが起きるのもF1だ」と、自分を納得させようとする思いと、そこで亡くなったのが経験のある、一番速いドライバーだということがやはり心のどこかで受け入れられず、その思いは今もなお、持ち続けています。
 また、それと同時にあのとき大事故に遭わなかったら、その後のセナはどんなドライバー人生を歩んだのかも想像することがあります。おそらくこのシーズンはベネトンに乗るシューマッハに勝つことが容易ではなかったかもしれません。そして、1996年にフェラーリ入りしたのは、シューマッハではなくセナだったかも知れない、などと思ったりしています。
 この日のイモラサーキットに戻りますが、ドライバー達もショックを受けておりました。例えばこの年にティレル・ヤマハのマシンを駆っていた片山右京はサンマリノGPの終了後(レースでは5位に入賞しており、もしかしたら表彰台も狙えたかも、という展開でした)、セナの容態を聞きたくてもチームもあえて教えてくれず、様子が分からないままサーキットを出て当時の住いのあったモナコに帰るため自ら車を走らせていたのですが、途中のサービスエリアでテレビの画面からセナの死を知り、その後はショックでどうやってモナコまで車を走らせて帰ったか覚えていない、ということをインタビューで語っていました。
 私はセナを高く評価していましたし、セナがホンダと日本を愛していることもあって共感を持って見ていましたが、ライバルのプロストやマンセルも同じくらい好きでしたし、この時代は若手だったシューマッハやハッキネン、もちろん日本選手も応援していました。むしろ日本国内で「アイドル的に扱われるセナ」に対して違和感を抱いておりました。セナ没後の報じられ方や扱われ方もなんだか「神格化」されているところがあって、それもまた違和感を増幅させることになりました。
 このシーズンはその後も事故が発生、モナコでカール・ヴェンドリンガーが選手生命にかかる大怪我を負いました。シーズン途中から安全対策が進められたため、マシンにもサーキットにも急ごしらえの制約が加えられ、混乱もはらみつつシーズンが推移しました。やはり死亡事故も含めた大事故が多く、タイトル争いも異例の展開となった1982年シーズンはこんな感じだったのかなあと思ったものです。そんな94年ですが、唯一の明るい話題が片山右京の活躍で、優勝や表彰台には届きませんでしたが、アグレッシブな走りはトップチームからも誘いがかかるくらいの注目を集めていました。
 さて、この1994(平成6)年は、個人的にもとてもつらい出来事があり、記憶がところどころ今も飛んでしまっております。あれから26年経って私もさまざまなことを経験していますが、この年を思い出すと、今もなお心に深く何かが沈殿しているような気分になるのです。
 今夜はセナの追悼企画盤T-SQUARE & FRIENDSの「SOLITUDE」を聴きながら、二人のドライバーのことを思うことにいたしましょう。

二人のドライバーにとって最後のグランプリとなった1994年サンマリノGPのプログラム(左奥)。その昔、恵比寿にあった「Mr.CRAFT」で買いました。右奥はセナ追悼企画盤の「SOLITUDE」。

岡山のTIサーキット英田で開催されたパシフィックGPのプログラムから。ラッツェンバーガーは「どんなカテゴリーの車でも器用に乗りこなす」と評価されています。

ラッツェンバーガーのシムテックのマシンは成績は振るいませんでしたが、カラーリングに人気がありました。

サンマリノGPのプログラム、セナを紹介するページ。

セナ最後のマシンとなったウィリアムズルノーFW16。それまで見慣れた赤いレーシングスーツから一転、白と青のレーシングスーツを着たセナでしたが、ずっと違和感がありました。
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