工作台の休日

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バンパイア練習機に出会った日

2020年03月23日 | 飛行機・飛行機の模型
 私の手元に、一通の手紙があります。差出人は航空自衛隊・浜松北基地広報班となっています。昭和60年(1985年)、私が浜松北基地(当時の浜松基地は南北に分かれておりました)に問い合わせた手紙の返事でした。この手紙に行きつくまで、さらに1年ほど時計を巻き戻す必要があります。
 昭和59年、自衛隊が30年を迎えた折に、酣燈社から「自衛隊航空機の30年」という本が出版されました。自衛隊で使われた機体については知っていたつもりの私が初めて目にした機体の一つがバンパイアでした。なんとも変わった形の機体のことがその時から気になっておりました。
 その年の秋の浜松基地航空祭をレポートした航空ファン誌の記事の中にバンパイア練習機の事が載っており「どうやらバンパイアは浜松にいるらしい」ということが分かり「この目で見に行ってみよう」という気持ちが募りました。そして、昭和60年に私は浜松北基地に手紙を書いて確かめてみました。バンパイア練習機が航空祭で展示されるのか、バンパイア練習機がどのように運用されていたのか、ということを。
 返事にはこうありました。「バンパイア練習機は昭和30年に購入され、実験航空隊(現・飛行開発実験団)でテストされ、昭和32年頃退役。現保有は浜松南基地のため、詳細は浜松南基地に問い合わせてください。」と。さらに浜松北基地航空祭で展示されます、と記載がありましたので、昭和60年11月17日、勇躍浜松に赴くことになりました。以前上田交通の記事を書いた際、浜松には昭和61年に初めて行った、と書きましたが、昭和60年の誤りでした。記憶だけを頼りに書くとろくなことがありませんね。反省です。
 入間基地や百里基地には行ったことがありましたが、関東圏以外の基地は初めてでした。入間に比べると面積も広く、まずそれが驚きであったのですが、てくてく歩いていくうちにバンパイア練習機と出会うことができました。当時のメモによると「とても背の低い飛行機」とあります。やっと会えたという感想を持ったのと、この機体以外にもイタリアから初めてやってきた飛行機の「フェラリン機」や零式艦上戦闘機なども並べられており、初めて見る機体もあって驚きでした。これらの機体は後に浜松広報館で展示されることになります。この時の航空祭、既に退役したブルーインパルスのF86Fが煙を吐きながら地上滑走したり、飛行開発実験団のF104Jがフライトを行ったりと、収穫の多いイベントとなりました。この日はあいにく雨まじりの天気で、バンパイアを始めいくつかの古い機体は早々に格納庫に収められました。バンパイアは一旦前脚を外してトーイングバーを装着して牽引車に引かれていきました。私のメモには「老兵は冷え症らしい」とあります。 
 こうしてバンパイア練習機とも出会うことができたわけですが、しばらくは航空祭でのみ会うことのできる存在でした。浜松広報館ができてからは好きな時に出会えるわけで、まさに「会いに行けるアイドル(苦笑)」となったわけです。
 バンパイア練習機については実験航空隊でテストされたという記事はあるのですが、飛行中の写真もほとんど残されていません。実験航空隊は昭和30年当時は浜松にありました。昭和32年に岐阜基地に移動し、現在に至っているわけですが、バンパイア練習機が果たして岐阜まで移動したのかは写真等では判別できず、詳しいことは分からずじまいでした。書類上は昭和35年に退役とありますが、浜松北基地の手紙にあるように昭和32年頃退役していたということになると、岐阜には移動していなかったのかもしれません。退役後は浜松基地で保管されることになりましたが、全国各地でのイベントでも展示されていたようです。「航空情報」2013年9月号の「自衛隊機列伝」によれば、分解されてトレーラーで各地に運ばれ、飛行場に関係のないイベントで展示、コックピットなども公開されていたそうです。遊園地のような場所で撮られた写真もあって不思議に思ったことがあったのですが、そういうことだったのですね。
 今は浜松広報館が安住の地となったわけですが、隣にはT-28練習機がたたずんでいます。さらにその奥にはT-1練習機もいます。バンパイア練習機とT-28は国産練習機開発の比較検討のために導入されたということもあり、現役時代も格納庫で隣り合わせに映っている写真がありますが、今も仲良く翼を並べています。
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