工作台の休日

模型のこと、乗り物のこと、ときどきほかのことも。

鉄道開業時のレール

2024年10月14日 | モノものがたり

私のような趣味人というのは多分にコレクター気質もございまして、長く趣味を続けてまいりますと、さまざまなものが手元に集まってまいります。
そんな私の周りにあるものから、趣味に因んだ珍しいものやおもしろいものをご紹介するのが「モノものがたり」です。

今日は「鉄道の日」ということで、それに因んだものを紹介したいと思います。

こちらでございます。

この画像にピンと来た方は鉄道の歴史に詳しい方かと思います。これは、明治初期に鉄道が開通した際に輸入されたレールをスライスしたものです。通常のレールと何か違いますね。通常のレールならば片側(下側)が広く平らになっていますが、こちらは上下ともに車輪と接する面になっています。

こういったレールを「双頭レール」と呼び、鉄道開業時の日本にイギリスからもたらされたものでした。ダーリントン・アイアンというメーカーのもので、双頭式にすることで片側が摩耗しても上下逆さにして使える、ということでしたが、実際には摩耗の関係で片側しか使えなかったそうです。このため、双頭レールはダーリントン製の一部に限られ、ほどなくして平底型の(我々がよく知っている)形のレールが入ってきました。この中にはダーリントン製のものもあったそうです。失敗だった、ということなのでしょうね。一般的ではない錬鉄製というのも珍しいところです。

役目を終えたこれらのレールはホームの屋根を支えたり柵になったりと第二の人生を歩むわけですが、鉄道とは関連の無い建物の基礎や柱になつたものもありました。有名なところでは三越大阪店を解体した際に建物の基礎としてこのレールが使われていたことが判明したということで、特に第一次大戦時やその直後は鉄材も相当不足したと言いますから、役目を終えたレールは格好の材料となったことでしょう。今でもウクライナ紛争などで半導体が不足している、という話を聞きますが、歴史は違う形で繰り返すのです。

さて、このレールですが、役目を終えた後で国鉄(当時)の静岡鉄道管理局に保管されていたものだそうですが、昭和44年に切断されて倉庫に眠っていたと商品説明にあります。

私も古いレールを見つけにあちこちに出かけておりますが、双頭レールがスライスされて売られていると聞きまして、飛びついたわけです。「毒食らわば皿まで」なんていう言葉を思い出しましたが、鉄道開業時のレールの実物に行きつくとは、どこか必然だったのでは、と我ながら思いました。

 

今日(10月14日)は鉄道の日、ということで新橋~横浜間に鉄道が開通してちょうど152年目に当たります。入手したのが去年でしたので、鉄道150年に間に合わなかったわけですが「モノものがたり」に相応しいと思いまして採り上げた次第です。

 

今夜は家人と子供がいないのをいいことに、簡体字の看板と中国語が飛び交い、今や「ここは上海か重慶か」といった風情の高田馬場の街を歩き、知り合いのビアバーに向かいました。いつもならテレビに映している野球中継も今夜はありません。代わりに「みんなの鉄道」を流していました。旅情あふれる風景を肴に一杯いただき、ご主人がその昔、ヨーロッパでクシェット(簡易形の三段寝台)で大変な目にあったという話を聞きながら、旅に思いをはせておりました。

 

 

 

 

 

 

 

 


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あの日、俺たちは佐藤琢磨の表彰台を信じていた 2004年日本グランプリ

2024年10月14日 | 自動車、モータースポーツ

 昨日に引き続き2004年のBAR006ホンダをめぐる話です。2004年シーズンはミハエル・シューマッハが独走でタイトルを獲得、実に5年連続の王座となりました。そんな中で迎えた日本GPでしたが、いきなり不穏な空気に包まれます。台風22号が接近していて、週末には中部地方を直撃するのでは、と言われていました。

(2004年日本GP プログラム)

 初日の金曜日から既に強い雨となっていました。私はグランドスタンドにいましたが、当時は屋根のある席は限られており、私は野ざらしでベネトンのポンチョを被り、背もたれの無いベンチシートで見守りました。雨具がきかないほどの強い雨で心も折れます。おそらく、サーキットにいる時点で耳にしたとは思いますが、土曜日は台風が接近するのでサーキットは閉鎖します、予選と決勝を日曜にまとめて行います、ということでF1史上初めての「ワンデーレース」となりました。金曜日にいつまで私がサーキットにいたかは覚えていませんが、津まで伊勢鉄道で出て、近鉄特急に乗った途端にすごくほっとした気分だったことはよく覚えています。

 名古屋も台風が接近している、ということであわただしくなっていました。特にメディアなどで「伊勢湾台風以来」という言葉が聞かれたのでなおさらです。確かに予想進路が伊勢湾台風のそれと酷似していましたので、中京地区の人にとっては昔の話なれど、やはり「これは大変だぞ」という気持ちになったことでしょう。しかし、近年のように交通機関が計画運休する、とかお店を閉める、といったことは少なかったように思います。ホテルは繁華街の栄にありました。今は無くなってしまったようですが、古めかしい感じで、鉄の扉にアクリルの棒状のキーホルダーという、なんとも風情のあるお宿でした。当然オートロックでもなかったような・・・。雨で濡れたズボンを乾かし、靴に新聞紙を沢山詰めて何度も取り換えて・・・と思わぬ金曜日の夜を過ごしました。気温も下がってまいりまして、サーキットで買ったルノーのパーカーが役に立ちました。

 さて、これで土曜日の予定が丸々空いてしまいました。長久手にあるトヨタの博物館が開いているようだったので、地下鉄に乗って行ってみました。同じような理由で訪れている方も見かけました。初めての訪問でしたが、珍しい車もたくさんあって興味深かったです。台風は当初より東寄りにコースを取りましたので、静岡、関東で被害をもたらします。この土曜日に日比谷野外音楽堂でT-SQUAREの公演が予定されていましたが、当然中止になりました。私の友人夫妻が霞が関まで行ってやっぱり中止だと知って帰った、と後で教えてくれました。

 名古屋駅前の百貨店も開いていて、少し遅めの昼を食べてホテルに戻りました。それでも時間が空いています。途中のコンビニで買った食玩の飛行機を組み立てたり(あの頃は食玩をコンビニでよく見かけました)、ホテルの中のテナントにマッサージのお店があって、服を着たままマッサージできます、ということで体の疲れをほぐしてもらったりしました。栄で晩御飯を食べ、初のワンデーレースに向けて英気を養いました。サーキットにいたドライバー達もそれぞれのお休みを過ごしたようで、M.シューマッハは遊園地・ホテル併設のボウリング場で楽しんだ、という記事を見かけました。自由席で観戦される方の中には徹夜で場所取りとか、オートキャンプ場で夜を過ごす方もいましたが、どこで、どうやって一夜を明かしたのか、みなさん大変だったと思います。

 日曜日はJRと伊勢鉄道を使ってサーキットに着いたと思います。GPスクエアと呼ばれる広場でT-SQUAREがリハーサルをしています。野音の中止の後でどうやってここまで来たのか不思議です。T-SQUAREは特設ステージでミニライブを行い、私も観ました。

(リハーサル風景・安藤正容さん(左・ギター)、伊東たけしさん(中央・ewi)の姿が見えます)

 午前9時からの予選は当初ウェット路面でしたが、次第に乾き始めてドライコンディションになりました。ポールはミハエル・シューマッハ、そして2位に弟のラルフ・シューマッハ、3位がジャガーのマーク・ウェバー、4位に佐藤琢磨、5位にジェンソン・バトンと続きます。日曜午前にはサポートレースや、ホンダの初参戦40年を記念したパレードランが予定されていましたが、確か両方とも中止になったのではないかと思います。佐藤琢磨は4位でしたが、ウェバーなら前に出られそうですし、もしかしたらラルフ・シューマッハのウィリアムズにも勝てるんじゃないか、と思っていました。

(予選に向かうM.シューマッハ)

 

(BAR・ホンダのピット)

 

(ウィリアムズ・BMW ラルフ・シューマッハのマシン。白と紺のBMWカラーはすっきりとしていて好きでした)

 

(今も2コーナーあたりはジャパンパワーの応援席ですが、このときも琢磨の応援席がありました)

 

(グリッド上に向かうメカニックたち。BARの外国人メカニックはハチマキしています)

 

(ピットレーンの出口が良く見える席でしたので、ピットスタートのミナルディチームのマシンが見えました。ミナルディのバウムガルトナーは琢磨が3位に入ったアメリカGPで8位に入賞。これがシーズン中チーム唯一のポイントでした)

 

 決勝は午後2時半スタートでした。スタートが良かったのはバトンで、琢磨とウェバーを抜いて一気に3位に上がります。バトンに前を押さえられてしまったことで、バトンより1回多いピットストップ・給油戦略を取っていた琢磨は不利な展開です。

(フェラーリ・シューマッハに対するサインボード 現在1位、4.6秒後方にラルフ(シューマッハ)、14.3秒後方に佐藤(琢磨)、9周目 という表記です)

 一度は琢磨も3位に立ちましたが、バトンに逆転され、結局レースはそのままむの展開で進み、M.シューマッハが一度もラップリーダーを渡すことなく勝利。2位に弟のラルフ・シューマッハが入り、兄弟での1-2という結果が生まれました。3位にバトンが入り、佐藤琢磨が4位でした。地元鈴鹿で期待されていた表彰台に届かず、私も嬉しかったというよりも残念な気分になりました。もし、角田裕毅が4位に入れば、今なら大騒ぎでしょうが、この時の佐藤琢磨に関しては「琢磨ならもっと上に行けたはず」と当時の私は思っていたわけです。

 表彰式もそこそこに名古屋に戻りました。日曜も名古屋に泊っていたかもしれません。長く感じるグランプリの週末でした。

 この後、私は上下別になっている雨具を買い、雨の予報がなくとも荷物に入れるようになりました。ちなみに今使っているのはワークマンのものです。雨への対処は秋開催だろうが春開催だろうが求められますので、雨具だけでなくバッグをカバーで覆ったりとか、いろいろなことをしています。

 ワンデーレースはその後も日本GPをはじめ、いくつかのグランプリで行われています。それだけ気候変動でひどい天気になることが多くなっているわけでもあります。史上初のワンデーレース、さらに史上初めて同じ日にポールポジションと決勝の優勝を果たした、M.シューマッハのレースを目撃したというのは貴重な機会となりました。

 

ホンダ参戦40年を記念した展示から

1966年デビューのRA273 タミヤの1/12キットでおなじみです。あまり見かけない感があります

 

第二期初期のマシン スピリット・ホンダ

 

エンジンなどが入っていない展示用と思われますが、マシンも随分みかけました。

BARホンダ

 

オリンパスのブースにフェラーリのマシンがありました。中継のスポンサーにもなっていましたっけ。

 

マクラーレン・メルセデス

 

マイルドセブンはルノーを支援していました。以前は試供品(当然タバコですが)を配っていたこともありました。

 

トヨタもワークス参戦していました。

 

日本GP仕様としてミニカーも後日発売されました。

(タバコ広告禁止はミニカーの世界にもおよび、本来ならあるはずの「ラッキーストライク」の広告はありません)

 

20年前は今よりも不便なところは多かったし、トイレは仮設が並ぶ野外フェス状態でしたが、それでもまだ企業ごと、自動車メーカーごとのオリジナリティのある展示があったりして、それはそれで楽しかったものです。パチモンすれすれだったり、F1と直接関係ないけど自動車ネタのグッズも見かけました。残してあった当時のチケットを見たら、この20年で値段も倍、場所によってはそれ以上になっています。俺の給料、倍になっていないのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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あの日、俺たちは佐藤琢磨の初優勝を願っていた BAR006と2004年のF1シーズン

2024年10月12日 | 自動車、モータースポーツ

 今日からしばらくジオラマの話は横に置き、別のネタになりますがご了承ください。

 いつもならこの時期はF1日本GPのお話を書いているわけですが、ご存じのとおり日本GPは今年から春開催となりました。今日はちょうど20年前の2004年シーズンに活躍したマシンとドライバーの話です。

 三栄のGPCar Storyが夏にBAR006というマシンを特集しました。こちらはホンダ第3期にホンダエンジンを積んで好走したマシンです。BARというのは「ブリティッシュ・アメリカン・レーシング」のことでラッキーストライクや「555」といったタバコでおなじみの「ブリティッシュ・アメリカン・タバコ」がスポンサーとなり、当初はジャック・ビルヌーブ(1997年年間王者)のためのチームでした。ホンダの第三期参入の際では、こちらとジョーダン・チームと組んでおりましたが、2003年時点ではジョーダンとのジョイントは外れ、ホンダがエンジン供給をBARに一本化しています。

 ドライバーはジェンソン・バトンと佐藤琢磨でした。琢磨は2002年にジョーダンでデビュー、2003年は「浪人中」でしたが、最終戦からビルヌーブの代わりにBARに加入、日本GPで6位に入る活躍をしています。バトンは20歳で鳴り物入りのデビューから5年目でしたが、この時点では表彰台に上がることはありませんでした。

 果たしてBAR006ですが、開幕前からなかなかの好調ぶりが伝えられ、シーズン入りしてその実力が証明されます。シーズン序盤のマレーシアを皮切りにバトンが10回の表彰台、佐藤琢磨も9度の入賞、そのうち1回はアメリカGPでの3位表彰台ということで、優勝こそありませんでしたがバトンはランキング3位、佐藤琢磨は8位で、コンストラクターズでも2位ということで、フェラーリ(シューマッハが18戦13勝と圧倒しました)に次ぐ成績で締めくくりました。

 本書ではいつものように、ドライバー、チーム関係者らの証言から、このマシンを紐解いています。バトンは「優勝できてもおかしくないくらいのマシン」と評していますし、佐藤琢磨にとってもリタイアが多いとは言え(しかもエンジンが理由と言うことがバトンよりも多く、ファンはそのたびに落胆したものです)、勝利を狙える位置でのレースはやはり充実したものだったことがうかがえます。マシンが良くなった理由に、空力面などの車体開発、エンジンの改良、ミシュランタイヤへの変更など、さまざまな要因が上手く重なったことが挙げられます。確かに車体は奇をてらわず、オーソドックスなつくりではありますが、見えないところでの工夫も随分となされていたようです。また、ミシュランへの変更については、ブリヂストンが事実上フェラーリの「ワークス」だったこともあり、このままでは勝てない、という思いがあったようです。個人的には「オールジャパン・パッケージ」に憧れたのですが・・・。テストドライバーりアンソニー・デビッドソンもミシュランとのマッチングの良さを挙げています。

 ジェンソン・バトンに対しては「俺が俺が」というタイプのドライバーではないところがあったとは言いますし、この時点ではタイヤの「使い方」は後にタイトルを獲ったアロンソなどに比べると上手ではなかった、という声もあります。しかし、バトンにとってはキャリア初の表彰台から表彰台の常連へあっという間、ということで大きな飛躍の1年となりました。ただ、このチームで優勝するのは2006年まで待つことになりますし、さらにタイトルを獲るのは2009年のことになります。

 佐藤琢磨のエンジンばかりが壊れる、というのは、ホンダのスタッフのインタビューなどではシフトアップ、シフトダウンでエンジンに悪影響を与える「魔の共振域」があり、その回転数でエンジンをホールドすると壊れてしまうということで、琢磨がその回転数を使うことが原因だったのでは、という分析もあるようですが、明確な答えにはなっていないようです。それでも、ニュルブルクリンクでは予選2位、インディアナポリスでは予選3位、決勝3位ということで、それ以外にも予選でトップ10以内が当たり前になっていましたので「今日はもしかしたら勝つかも」とか「今日はだめだったけど次はきっと」という期待を抱かせてくれるのでした。1994年の片山右京もそんな場面がありましたが、それ以上に表彰台、優勝が「夢ではない」と思わせてくれたのでした。日本人が表彰台に立ったのが1990年日本GPの鈴木亜久里以来ということで、日本GP以外での日本人の表彰台というのも2024年10月時点では唯一となっています。佐藤琢磨が表彰台に立ったインディアナポリスですが、琢磨が後にインディカーに参戦して二度の優勝を遂げたインディ500のコースの一部を拝借し、インフィールドにコーナーを配したつくりとなっていましたので、あまり高低差はありませんでした。それにしてもインディアナポリスと縁があるようですね。

 このシーズンを振り返ると、改めて「ジャパン・パワー」が何らかの形でサーキットにあふれていた時代だな、と思いました。ホンダだけでなく、トヨタはコンストラクターとして参戦していますし、ルノーはマイルドセブンの水色をまとっていました。タイヤにはブリヂストンがミシュランと「もう一つのバトル」を繰り広げていました。また、本書で興味深かったのは、ホンダのエンジニア、メカニックの中にその後も何らかの形でF1に関わっている人が多いことで、第4期で苦労の末、レッドブルと共に頂点に立った田辺豊治氏をはじめ、ハースの現代表・小松礼雄氏も当時はこのチームに関わっていました。

 その後のBARとホンダの関係ですが、最終的にホンダがBARのチームの株式を取得して、オール・ホンダが1968年以来誕生しました。2006年には一勝を挙げることができましたが、リーマンショックに端を発した恐慌もあり、ホンダは2008年で一度撤退します。BARではエンジン側と車体側の融合というか、開発の方向性でもなかなか足並みがそろわなかったのですが、車体もエンジンも、となった後も同じでした。2008年にロス・ブラウンがチームに加入、ここでみんなの方向性を一つに擦り合わせることが行われ、それがホンダ撤退後の「ブラウンGP」の成功に繋がっていくのが何ともやるせない感があります(ブラウンGPについては拙ブログでも書きましたが)。

 チームを指揮しながら、ホンダにすべて渡すことになったデビッド・リチャーズチーム代表のインタビューも一読の価値ありです。ビルヌーブのチームだったはずが、そのビルヌーブをクビにして、というくだりが「そういうことして追い出したのね」と思いましたし、それはビルヌーブとしばらく口を聞かなかったのもむべなるかな、という感じがしました。

 このシーズンはシューマッハ13勝、バリチェロ2勝、モントーヤ、トゥルーリ、ライコネンが各1勝ではありましたが、未勝利のBARがコンストラクターズ2位に入ったということは、チームのドライバー2人がいかによく頑張ったかを示しています。

 さて、このシーズンと言いますと、どうしても日本GPのことを書きたくなります。続きは次回に書きましょう。

1/43のミニカーです(ミニチャンプス製)。鈴鹿サーキット別注のものを購入しています。ラッキーストライクの「赤丸」部分がバーコードになっています。サーキットでタバコ広告を見かけることができたのはこの頃までです。

 

 

 

 

 

 

 

 


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T-TRAKジオラマ ローマ・マエストラーレ通りを作る(9)

2024年10月11日 | T-TRAKジオラマ ローマ・マエストラーレ通り

9-1  切通しの造形について

 切通し部分ですが、津川洋行製の材料、パーツを多用しました。

擁壁部分には津川洋行の「ニューデザインプラスチックペーパー」を使っています。成形色はグレーですが、GMカラーのねずみ色1号を吹き付けた後、ウェザリングを施しました。真ん中のあたりの高さのところに排水口があるという設定にしたので、ピンバイスで穴をあけて金属製のパイプを差し込み、水あかをウェザリングで表現しています。また、こういったところにお約束のグラフィティ(落書き)もあります。AFV関連のデカールでこういったものが多く出ていますが、右側のものはAKインタラクティブというメーカーのものです。このDJの横にはイタリア語で「無意味、無意味」と歌詞が書かれています。

左の緑のお化けは家人が考えたキャラクターを拝借しました。

なお、高架部分の作りも含めて、現物合わせになってしまった箇所があり、大きな隙間ができてしまいました。

看板の下側がそうなのですが、スチレンボードの端材をあてがい、プラ材をつけてダクトか配管の跡のような感じにしました。

なお、上部にある看板ですが、左側が「BIG FRUT」というゼリーキャンディーです。甘さと酸っぱさのバランスがよく、お土産で買うと喜ばれました。一時は輸入されて買うこともできたのですが、こちらはずっとイタリアでしか買えなくなっています。

隣は「サン・ベネデット」というミネラルウォーターで、こちらは日本でも売っています。炭酸がそれほど強くない炭酸水がお気に入りで、現地でもよく飲みました。

9-2  トンネル周辺

トンネルポータルも津川洋行製です。こちらは一度、Mr.カラー31番に塗って、そこにウェザリングを施しました。

また、教会の手前側にはサッカーのグラウンドを作りました。地面はタミヤの「情景テクスチャーペイント」にしました。芝生が随分と荒れています(汗)。ネットは建築模型の材料から持ってきました。1mmの丸棒を支柱にしています。

 

教会の周辺から古代の円柱が建つあたりは独特の舗装になっています。

こちらも津川洋行のニューデザインプラスチックペーパーの玉石です。古代ローマ街道の一部が現代に遺されているという感じですので舗装も摩耗しています。玉石の両脇には、カトーの側溝のふた部分のパーツを敷きました。石畳もそうですが、これはそれ以上に歩きにくそうです。

さらにこんな円柱があります。

実物なのかレプリカなのかは分かりませんが、古代ローマのマイルストーンです。パイプ状のプラ材を切り、プラ材の丸パーツを乗せ、アイボリーに塗った後でごく薄く溶いたグレーをちょぼちょぼと塗り、碑文ぽく作りました。実際には各都市までの距離とかが彫られていたようです。

 

9-3 高架部分

「マエストラーレ通り」から手前に延びる高架線ですが、スチレンボード、プラ材などから作っています。柱はプラ材です。コンクリの質感を出したかったのですが、鋼板を巻き付けた感じになってしまいました。高架やトンネルポータル上の柵というか壁については、やはり津川洋行のデッキガーター橋、グリーンマックスのデッキガーター橋のキットを加工して取り付けました。津川製品は茶色や緑色のモールドがありますが、塗装をして、ウェザリングも施しています。

 

さて、以前も書きましたが、上から見ると分かるように、行政機関は高架の方に半分近くはみ出していますし、教会もトンネルの上と言っていいような場所にあります(人形、車などを配置する前に撮影)。

行政機関の建物についてはいくら二階建てとはいえ、普通なら頑丈な基礎の上に建てるでしょう。教会についても静謐さを求められる環境ですから、ひっきりなしに列車の振動、騒音が出る場所の上に教会と言うのはあり得ないでしょう。19世紀に統一したイタリアはローマ・カトリック教会と折り合いが悪かった時期がありますので、教会なんて邪魔、とばかりにその下にトンネルを掘ったのかも知れませんね。

 

これで建物関係は完了、あとは人形、車を配置していくことになります。

なお、本ジオラマ裏側はこんな感じになっています。

左側3胸の建物の下から伸びている配線はトミーテックの電飾キットにつながっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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T-TRAKジオラマ ローマ・マエストラーレ通りを作る(8)

2024年10月08日 | T-TRAKジオラマ ローマ・マエストラーレ通り

 ジオラマの話に戻ってきました。建物をひととおり作って7月になりました。いよいよここから地面ということで、通常なら先に地面を作ってその上に建物を配置するのですが(実物だって土地に合わせて建物を建てたり、造成をするわけですから)、手順が逆になりました。

(再掲になりますが、建物を先につくったので、そこから建物の配置を考え、土台の設計に入りました。まだレールも敷設していませんね)

 

1 街並みの土台をつくる。 

最初に述べたように、街並みの部分は一段高くして、列車は切通しの下を走る、という配置にしましたので、まずは街並みの土台から作っていきます。モーリンのスタイロフォーム(3cm厚)を2枚重ね、さらに1cm厚のものを重ねて計7cmの高さの地面ができました。

 ジオラマ全体のルールとして、レールから4.5cmの高さを確保しなければならず、また、トンネルポータル等の高さと合わせるため、7cmの高さとしました。さらに街並み部分には路面電車のレールも敷きます。トミーテックのワイドトラムレールを敷く関係で、路盤の厚さ6mm程度を別に確保する必要があります。

右側がモジュールの手前側、列車が実際に走る部分です。構造的にはこのような形になっています。さらに、モジュールの右側に3軒並ぶファーラーの店舗付き住宅については照明も入れていますので、コードなどを逃がす切り欠きをつけました。

結構ギリギリまで悩んだのが建物や道路の配置でした。完成形では中央を左右に横断する大きな通りとしましたが、プランの段階では道路や路面電車はすべて手前側に持ってきて、列車が走る線路の上を高架にして道路や軌道敷を作ってしまおうか、と考えたこともありました(下図参照)。実際にGMの水平橋脚を横に並べてみようかな、などと考えたりもしました。

このような配置にしますと、上の路盤を支える橋脚が左右方向にたくさん並ぶ感じになります。そうしますと走る模型の方は橋脚越しに眺める感じになってしまいます。あくまでも車輌が主役で、モジュールはそのための舞台、と私は思いますので、なるべく走る車輌がクリアな視界で観られるようにと思い、配置を考えました。結局、右側1/3はトンネルとしつつ、奥から手前方向に延びるガード部分を設けつつも、全体の半分近くは視界に邪魔が入らず、列車が見られるようにしました。

配置もだいぶ固まってきました。

 

2 道路や路盤の仕上げを行う

ピンボケな写真で失礼いたします。本来、線路周りはバラストを撒いて木工用ボンドを水に溶いたもので固めていくのがセオリーですが、固着しなかったバラストが床に落ちたりすることもあります。養生はしていても動かすたびにそういうことが起きるのも何なので、線路の下に光栄堂の「アースモデルシート」という糊つきの情景シートを貼りました。建築模型の世界では光栄堂の製品は有名ですね。もちろん、模型に使えるものもたくさん出ています。アスファルト・道路用ということで、いちぱん暗めの色を使っています。こちらのシートはちょっとした空き地や建物の後ろなど、あちこちで使いました。

切通しの上、市街地の道路ですが、こちらはファーラーの「ローマの石畳」というシートを使いました。糊はついておりませんが厚みのある紙製で、平面なら十分に使えます。あらかじめウェザリングされたような色合いとなっているのも使いやすいところです。ただ、実際にはローマの石畳はもっと黒ずんでいます。

路面電車の路盤は、当初は製品のままでそこにウェザリングをして・・・と思ったのですが、ウェザリングかうまくできず、かえって汚くなってしまったこともあり、軌道敷として津川洋行のシーナリーペーパー、石積(灰)を貼っています。

実際にはローマの街のすべてが石畳になっているわけではなく、普通のアスファルト部分も見かけます(グーグルアースなどで確認してみてくださいね)。路面がある程度仕上がりましたので、ようやく建物を固定できるところまできました。

 

今回のジオラマを出展した「T-TRAKジオラマSHOW」ですが、併催と言いますか、メインの高校生のコンテストで表彰された作品の中には、来場者の目線からでは列車の走行がほとんど隠れてしまうものも見受けられました。さきほども申し上げたようにあくまで主役は線路を走る車輛で、モジュールはそのための舞台、という考えの私にとっては驚きでした。もちろん、表彰された作品が非常に緻密に作られており、実物の情景の解釈や再現も含め、情景模型としての完成度の高さは言うまでもなく、それを悪く言うつもりは全くございませんが、これは車輛が走っている様子がほとんど見えないものに高い評価をつけた審査員各位の「見識」と受け止めさせていただきます。TMSの山崎喜陽氏が見たら、どんな感慨を持たれるかな、などと思いました。それとも「今はまだ語るべき時ではない」と言われるのでしょうか。

 

 

 

 

 

 


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