工作台の休日

模型のこと、乗り物のこと、ときどきほかのことも。

ワールド工芸、廃業へ

2025年03月31日 | 鉄道・鉄道模型

 年度末にとても残念な話です。鉄道模型メーカーとして真鍮製品を得意としていたワールド工芸が廃業するというニュースを先日聞きました。1970年代に発煙装置を組み込んだ製品などを手掛けており、鉄道模型趣味誌には「発煙装置のワールド工芸」という広告が出ていたのを思い出します。

 やがて真鍮製の機関車などを手掛けるようになり、旧型電機や私鉄の電気機関車、SLなど他社であまり製品がないものを中心にリリースしていたように思いますが、特に90年代以降は真鍮製品ならではの精巧さで、ファンを獲得していたように思います。古典機などの製品化も積極的で、値段もあってなかなか手が出ませんでしたが、魅力的な製品もありました。

 今回の廃業の話、どのような理由なのか私は知りませんが、数十年と続けてきた鉄道模型メーカーとは言え、小さな企業だったでしょうから、会社を続ける、ということが難しくなる要因がいろいろあったのでしょう。鉄道模型メーカーとは言っても小さな所帯も多いですから、こういう話が続くのではと危惧しています。

 さて、ワールド工芸というと蒸気機関車や電気機関車のイメージが私などは強いですが、こんな変わったものもありました。

小田急のSSE車です。

連接車体も精密に再現されています。

 

 

下回りはトミックス製を使っています。

 

そしてディーゼル機関車も。

進駐軍が持ち込んだDD12です。

進駐軍の黒塗装、8500です。

そして国鉄の茶色塗装です。

私のコレクションの中でも、ワールド工芸の製品は、やはり異彩を放つものが多く、また「よくこの車輛を製品化してくれました」なものも多いです。ちょっと違った光を放つような製品をたくさん出していただき、ありがとうございました。

 

 

 


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祝! 100周年「JTB時刻表」

2025年03月25日 | 鉄道・鉄道模型

 JTBの時刻表が先日発売の4月号で100周年を迎えました。JTBの時刻表は大正14年に「汽車時間表」として刊行されてから鉄道や旅の歴史と共に歩んできました。JTBの時刻表はご存じの方も多いと思いますが、B5判で1000ページ近い本です。「時刻表ファン」という方もいて、私などがとても論じることなどはできませんし、このところは記念号などで購入する程度という体たらくですが、100周年をお祝いしなきゃ!という気持ちもあって、書店で購入した次第です。

 記念号ということで、タモリさんをはじめ鉄道にゆかりの深い著名人のインタビューが載っているほか(メンバー的に「タモリ電車倶楽部」なのはご愛嬌)、付録としてJR特急系統図と時刻表100年と日本の鉄道の歩みの年表が入っていました。「笑っていいとも!」時代の多忙だったタモリさんが金曜夜から最終の新幹線に乗ってしばしの週末の旅行に出るエピソードは「時間が無いなら自分で作り出すもの」という感がいたしました。

 さて、JTBの時刻表(個人的には「交通公社の時刻表」と言った方がなじみがありますが)ですが、我が家では泊りがけで家族旅行に出るときに長らく旅のお伴でありました。乗り換えなどがないような行先でも、数時間の列車の旅を退屈にさせないための親心だったのでしょう。私も、同じく鉄道好きの兄も、列車の中でよく広げていました。時刻表のおかげで漢字も覚えましたし、日本の地理に関しては少なくとも都道府県の位置関係を覚えましたし、いわゆる「本線」と名の付くところがどんなところを走っているのかを通して、都市の位置を学んだと思います。もちろん、列車の時刻をたどって、ここに書いてある列車に乗っていくと次はどれに乗ることができて、どこまで行けるだろうか?と言った誰もが行っているであろう、頭の中での旅や旅のルートも考えたりしていました。私もそうですが、行ったことのない場所、乗ったことのない路線に思いをはせながらページをめくった方も多いでしょう。

 長じて自分が高校生になり、自由に旅行ができるようになりますと、大きなバッグの一角に必ず時刻表を入れるスペースを作っておきました。スペースも、重さもそれなりにあるのですが、そういった不自由を楽しむのもまた、青春のひとこまだったということでしょう。これは大学生になっても続き、列車に乗ったときも、待つ間も、周遊券や青春18きっぷと共に旅を続けていくことになります。時刻を調べるだけでなく、以前は掲載されていた巻末のホテル・旅館の一覧から泊まりたいところを探して電話で予約する、といったこともよくやっていました。

 やがて就職して、旅の持ち物も少しずつ変わって行き、持っていく時刻表も小さくなりました。しかし、仕事では旅費の計算などで時刻表は必携で、後ろのページの運賃計算など、別の形でお世話になっておりました。こちらも「駅すぱあと」のようなソフトの登場で、職場で時刻表を買うということもいつの間にかなくなりました。

 プライベートでどこかに旅行するときでも、必要なときだけ交通新聞社の「コンパス時刻表」という小型のものを使うようになり、ますます「交通公社の時刻表」は遠くに行ってしましました。スマートホンがあれば時刻が検索でき、さらには指定席まで買えて変えてしまうのですから、紙の時刻表が遠くなってしまうのは致し方ないところです。

 それでも、久しぶりに開いたJTB時刻表ですが、長年見慣れた作りであることもあってか、久しぶりではありながら見やすく、探しやすい感じがしました。また、特急の運転系統図や後ろのページにある優等列車の編成表を見ながら、この区間のこの列車は何両編成で・・・なんていうことも確認でき、やはりこれだけの情報量は侮れず、しばしページを繰っておりました。国鉄の民営化以降、各地域でさまざまな車輌がデビューし、私などはなかなかついていけなくなってしまっておりますが、時刻表をみることで運用といったことも理解できます。たまには時刻表を買って「今」の鉄道を知ろう、と思いました。

 先日久しぶりに宮脇俊三氏の「最長片道切符の旅」を読んでおりましたが、ああいった旅行も時刻表をめくりながらでないと計画できません。また、前述のタモリさんの言葉として「旅の計画は時刻表でなければなりません。ネット検索では連続性が感じられず不安」というのがあり、まさに出版物としての時刻表の存在意義を言い表しています。以前のように駅名を順番に暗記できるほどの若い頭脳ではありませんし、遠近両用メガネをかけるくらい眼も老化しておりますが、これからも時刻表とおつきあいしていこう、と思うのでした。

 

 

 


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久しぶりに映画の話 「名もなき者」と、そして・・・

2025年03月16日 | ときどき映画

 今日は久しぶりに映画の話です。アメリカのシンガーソングライターであり、ノーベル文学賞受賞者であるボブ・ディランの若き日を描いた「名もなき者」を観てきました。

 舞台は1961年から1965年頃のアメリカということで、公民権運動、キューバ危機、ケネディ暗殺、ベトナムへの介入という時代です。ニューヨークにやってきた青年・ロバート・アレン・ジママンが歌手ボブ・ディランとして見いだされ、成功を手にし、そして・・・という物語です。この時代にアメリカの音楽界ではフォークミュージックの「復興」運動もあり、その中でディランもフォーク歌手というくくりで捉えられ、多くの聴衆の支持を得て、大きな成功を手にします。しかし、ジャンルにはめられるのを嫌う彼は、彼をメジャーに引き上げてくれたピート・シーガーが主催するフォーク・フェスのトリである行動に出る、というのがストーリーです。

 この映画、なんと言っても主演のティモシー・シャラメがディランそのもの、というくらい風貌などが似せて作っていました。音楽が好きで内気な青年が時間を経ても本質は変わらないところまで、彼自身のディラン像を作り上げていました。しかもあの特徴ある声や歌唱、演奏も吹き替えではなくシャラメ本人によるものだそうで、これも驚きでした。聞くところでは数年かけて体得していったということで、ものまねレベルではない感じがしました。

 ディランをめぐる人々もまた個性的でして、恋人のシルヴィ(本作のオリジナルキャラクターですが、モデルはスージー・ロトロといって、ディランのアルバム「フリーホイーリン」にディランと共にジャケットに映っている女性です)、ディランが登場した時点で既にメジャーとなっており、後に共同制作者でもあり、ディランと関係も持っていたジョーン・バエズ(態度がでかいところも含めて(失礼)モニカ・バルバロが好演)、その才能を評価し、ジャンルにとらわれない、という意味でもディランが自分の良き理解者として接し、心を通わせていたジョニー・キャッシュ、この時代には既に療養中の身ではありながら、見舞いに訪れたディランの才能を見抜いたウディ・ガスリー、フォーク歌手ピート・シーガーの日系人の妻トシ(初音映莉子が好演)は一歩離れたところからディランを見つめながら、時には理解者でもあり、ということで音楽と人間のドラマが展開します。本作のジェームズ・マンゴールド監督は事前にディラン本人と話す機会を持ったということですし、モニカ・バルバロはバエズ本人と電話で話す機会を持つなど、存命中の人物を採り上げる映画ということもあり「本人公認」となっているようです。主演のティモシー・シャラメに対してもディラン自身が好意的な評価をSNSでしたことも話題になりましたし、シルヴィ役のエル・ファニングはもともとディランの大ファンというのも興味深いところです。

そんな中でディランは流されず、時には自分の思いを強く通し、ということで「おいおい、そんなことしたら友達も恋人もなくしちゃうぞ」なわけですが、本人は「自分は作りたい曲を作り、歌いたい詩をそれに乗せて歌うだけ」で「歌手として生きることは社会運動でもなければ勝ち負けでもない」と思っていた節があるのではないでしょうか。自分の思いを通す、生き方を通す、というのはとても難しいし、覚悟もいるわけですが、それを20代の若者が体現していたということでしょう。

実在するミュージシャンの映画というと最近ではボヘミアンラプソディーが有名で、あちらは主人公の人生がジェットコースターのように展開しますが、本作はそこまでの派手さはなくとも、音楽が好きなら若い方であっても気に入ると思います。余談ですが「ボヘミアン~」のハイライトでもある1985年のライブエイドではアメリカ側のステージにディランもバエズも出演しています。当時のMTVで人気を博した演者に歓声が送られる中、二人とも「過去の人」になっていたというのが、まさに「時代は変わる」を体現してしまったように思います。

本作は私が生まれるよりさらに前の時代を描いているせいもあってか、タバコのシーンも多くて、今どき珍しいくらいだな、というのもまた、この数十年の変化でしょう。映画を観たのは寒い日でしたので、上映後はディランのように背中を丸め、ポケットに手を入れてニューヨークのグリニッジビレッジならぬ歌舞伎町を歩く「ボク・ディラン(Ⓒみうらじゅん)」でした。

 

映画の話をもうひとつ。昨年のイタリア映画祭で上映された「まだ明日がある(C'e ancora domani)」ですが「ドマーニ!愛のことづて」として公開されています。イタリア映画とて上映館も少ないようですが、じわじわ人気になってほしいな、と思っています。コメディエンヌでもあるパオラ・コルテレージ監督・主演作品ということもあり、ヨーロッパ映画、そして女性の権利というテーマの小難しさはコメディで包んでいますので、ヨーロッパの映画なんて、と食わず嫌いしないで観てほしいです。

 

 


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モデルで愉しむ、はじまりのマシン・・・ホンダRA271のお話 その4

2025年03月13日 | 自動車、モータースポーツ

前回まではホンダ初の(というか日本初の)F1マシン、ホンダRA271について書いてまいりましたが、今回は模型でこのマシンを見てまいります。

1/20ではエブロのダイキャスト製のミニチュアが発売されていました。

 

説明書もついています。

 

車体色のアイボリーホワイトも正確に再現されています。

説明書の写真でも分かるとおり、リアのエンジンなどが見えるあたりは、透明パーツとダイキャストのパーツを取り換えられるようになっており、透明パーツではエンジンなどの造りがよく見えます。

 

リアエンド部分

 

横置きエンジンと排気管が分かりますね。

 

コクピットも忠実に再現されています。

 

なお、今回の記事にあたっては、海老沢泰久氏の「F1地上の夢」(朝日文庫)を参考にしておりますが、海老沢氏はは中村良夫氏の「グランプリレース ホンダF1とともに」、「グランプリ1・2」を参考文献に挙げています。「F1地上の夢」に関しては週刊朝日に連載されていましたが、中村氏から「私の記事を引用されているが事実と違っている記載がある」と海老沢氏に指摘したところ「ノンフィクションの形はとりつつも海老沢流にアレンジしたフィクションの部分もある」と答えているそうです。「F1地上の夢」後半の第二期F1活動や、この本に続く「F1走る魂」などは海老沢氏がホンダチームのナンバー2と間違われるくらいチームに密着していたそうですので、事実を丁寧に拾い上げているのではないかと思います。いずれにしても参考文献にきちんと表記がありますので、一部で言われているような剽窃だ、盗用だというのとは違うように思います。中村氏、海老沢氏ともに既に故人であり、また優れた書き手でもいらっしゃったので、あえて書かせていただいた次第です。ただ、それぞれに違う視点、違うことが書かれているところもあるでしょうから、プロの方が記事をお書きになる際は、オリジナルに当たられた方が適当ではないかと思います。

RA271についてみてまいりました、なんとか今年の開幕戦までに間に合いました。おそらく、今年はホンダ初勝利60周年ということで、RA272があちこちで展示されることでしょう。RA272についても、また書いていきましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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いざ、初参戦。そして・・・ホンダRA271のお話 その3

2025年03月12日 | 自動車、モータースポーツ

こうしてできたF1マシンはオランダのザントフォールトサーキットでテストが行われました。2025年現在、マックス・フェルスタッペンの人気もあってオランダグランプリが開催されるサーキットですが、コースレイアウトは今とは異なります。

ホンダのマシンはさまざまな部分で重く、12気筒エンジンということもあって他のF1マシンに比べても著しく重くなりました。実に60キログラム以上重かったとも言われており、この重量との戦いは、その後のホンダの参戦でも大きな課題となります。このエンジン、横向きに搭載されたのも特徴でした。通常は(今日でも)エンジンはマシンの前後方向と平行にとりつけますが、この横向きエンジンのレイアウトは本田宗一郎のアイデアだった、という声もあります。

(こちらは実車ではなく、1/20の模型です。模型のことは次回紹介します)

レーシングカーと言うのは本来なら時間をかけて熟成するのが常道でしょうが、ホンダは早速これをレースに持ち込みます。できたからにはレースに出したかった、というのもあるようです。しかも、初戦の舞台がドイツ・ニュルブルクリンクのドイツGPというのは初陣を飾るチーム、ドライバーにとっては過酷なものでした。1周が22キロ余りと、昔のコースには長いところもありましたがこちらはその中でも特に長く、コーナーも多く、バンプもあり、ということで最も難しいコースとの評価でした。ドライバーのロニー・バックナムはレンタカーでコースを習熟します。レース以外に走る際には走行料を払わなくてはならないのですが、ドイツの関係者はホンダにかなり協力的で、最終的には無料パスまで発行してくれました。

それでもバックナムの経験不足については他のドライバーから危惧され、出走させるべきでない、という意見もあったそうです。最終的にはアメリカ人ドライバーの先輩たちが太鼓判を押してくれ、出走がかなうようになりました。

しかし、実際のF1マシンについてはそもそも細かな調整があまりできていないのと、マシンに過酷なサーキットゆえに練習走行、予選もままならず、主催者から特別に練習走行の時間を与えられて、ようやく最後尾グリッドに着くことができました。それでも、ポールタイムから1分(!)離される結果でした。

レースは22キロのコースを15周するもので、予選では上手く走れなかったのが決勝では思わぬ好走を見せ、一時は9位まで順位を上げたバックナムでしたが、結局は12周目でマシンを壊してしまい、ここで最初のレースが終わりました。

初戦は可能性を感じさせつつも、やはりほろ苦いデビューでした。でも、彼らの努力を見ていたのはレース関係者だけではありませんでした。チームが宿泊した宿屋では、夜遅くまでの作業で彼らが食べた夜食代についても、宿屋の女主人は請求しなかったそうで、ホンダ側が払いたい、と言っても「これは私たちからのささやかな賞金と思って」と言われたそうです。

RA271はこの後、イタリア、アメリカの2レースに出場しますが、いずれもリタイアに終わり、このマシンの挑戦はここまでとなりました。イタリアでは高速性能の高さを見せるものの冷却不足に泣かされました。馬力のあるいいエンジンさえ作れれば、後は楽勝、くらいに思っていたエンジニアもいたそうですが、エンジンだけでなく、車体の剛性、冷却、足回りなど、さまざまな要素で優れていないと勝てないのがレーシングカーです。まだ、F1マシンというものをホンダも完全には理解していなかったのでしょう。

実車の話はここまで。次回はRA271の模型の話をしましょう。

コクピット周りのクローズアップです。あちこちに打たれたリベット、独特な形状ののミラーなどに注目

(参考文献 前回までにご紹介したもの以外に 「ひとりぼっちの風雲児 私が敬愛した本田宗一郎との35年」中村良夫著 山海堂)

 


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