かぶとん 江戸・東京の歴史散歩&池上本門寺

池上本門寺をベースに江戸の歴史・文化の学びと都内散策をしています。

養珠院お万の方と池上本門寺

2012-10-27 | 池上本門寺の歴史
養珠院お万の方(蔭山殿) ― 法華経篤信の人 ”お万様”
1580~1653 天正8年~承応2年8月21日 生年は天正5年(1577)説も。

徳川家康側室。徳川頼宣(紀伊徳川家初代)・徳川頼房(水戸徳川家初代)の生母。
実父・勝浦城主正木頼忠、養父・蔭山長門守氏広。母は北条氏女(岡本氏等、諸説あり)。実兄は紀伊徳川家の家老、三浦為春。

徳川家康 1543.1.31~1616.6.1 天文11年12月26日~元和2年4月17日
正木頼忠 ? ~1622 元和8年8月19日
蔭山氏広 ? ~1610 慶長15年6月24日
徳川頼宣 1602~1671 慶長7年3月~寛文11年1月10日
徳川頼房 1603~1661 慶長8年8月~寛文元年7月29日

三浦為春 1573~1652.8.5 天正元年~承応元年7月2日
心性院日遠(にちおん) 1572~1642 元亀3年~寛永19年

養珠院お万の方 略年表
1580 天正8年、小田原で生れる。(諸説あり)
1590 天正18年 〇豊臣秀吉の小田原征伐 〇小田原北条氏滅亡
         〇徳川家康、関東移封。江戸城に入る(八月朔)
この頃、伊豆・加殿(修善寺)、中伊豆各地に隠れ住む。
1595~6 慶長1、2年頃 家康の側室となる。

1598 慶長3年 兄・為春(正木改め三浦)、徳川家に出仕する。
1602 慶長7年 3月7日、長福丸(後の徳川頼宣)誕生。(伏見城)
        ○本満寺日乾、身延ニ十一世となる。
1603 慶長8年 2月 〇家康、征夷大将軍となり江戸に幕府を開く。
        8月10日、鶴千代(後の徳川頼房)誕生。(伏見城)
1604 慶長9年 ○日遠、身延ニ十ニ世となる。
1605 慶長10年 〇徳川秀忠、第2代将軍に就任。
1606 慶長11年 ○鎌倉法華寺、伊豆玉沢へ移転。お万の方、本堂の建立・寄進。
1607 慶長12年 家康、駿府に移住。頼宣・頼房、お万の方を伴う。
1608 慶長13年 ○日蓮・浄土両宗の江戸宗論(慶長法難)。
1609 慶長14年 ○師・心性院日遠の駿府法難。お万の方、身命を賭して救う。
1610 慶長15年 甲州大野(後の本遠寺)に、頼宣・頼房名で一大伽藍を寄進する。
1611 慶長16年 母・智光院没。
1614 慶長19年 大野山本遠寺(ほんのんじ)建立。開山・心性院日遠。
1615 慶長20・元和元年 〇大坂夏の陣
         ○心性院日遠、幕命により身延に再住す。
       駿府松野の寺を沓谷に移し、貞松山蓮永寺と称す。日乾を中興とする
1616 元和2年 徳川家康、駿府城にて逝去。(享年75)
        お万の方、静岡感応寺にて剃髪する。養珠院日心。
1619 元和5年7月 頼宣、駿府から紀州和歌山へ国替。入城式に同行する。
        8月、家康供養のため、身延山で法華経一万部読誦の大法要を催す
        駿府を去り、江戸紀州藩邸に移る。
1622 元和8年 父・頼忠没(紀伊和歌山)。お万の方、和歌山で越年。
1623 元和9年 〇徳川家光、第3代将軍に就任。
        亡母・智光院の十三回忌、妙法華寺にて千部会を修す。
1624 寛永元年 中伊豆各地、御礼参り。(支度金、三千両といわれる。)
        小石川興善寺の建立。水戸家祈願所、大野山の江戸宿泊所とす。
1629 寛永6年 〇紫衣事件、沢庵出羽に配流さる。
1630 寛永7年 ○身池対論 不受不施、受不施をめぐる池上と身延対立する。
        ○心性院日遠、幕命により池上本門寺に普山(池上・比企谷両山16世)
        養珠院、池上本門寺に杉苗一万本を寄進す。
1632 寛永9年 大石塔を駿河貞松山内に建立、寄進する。

1638 寛永15年 和歌山誠証寺の建立。
         心性院日遠報恩のため、供養塔を鎌倉妙本寺に建立す。
1640 寛永17年 家康の二十五回忌を大野本遠寺で修す
         七面山に参詣。女人禁制を解く。
1642 寛永19年 ○心性院日遠、遷化(71)。
1644 正保元年 女人として初めて身延七面山に登る。「七面山女人お踏み分け」
1648 慶安元年 飯高檀林講堂を再建す。
         家康三十三回忌菩提のため、和歌浦に大宝塔を建立す。
1649 慶安2年 家康三十三回忌追善のため、和歌山妹背山に題目石の碑を建立。
1650 慶安3年 家康の三十五年忌法要を大野本遠寺で行う。
1651 慶安4年 〇徳川家綱、第4代将軍に就任。
1652 慶安5年/承応元年 兄・三浦為春没(80)。和歌山了法寺に葬る。
        為春の百ヶ日法要を身延山で行う。
1653 承応2年8月21日 養珠院お万の方、江戸紀州藩邸で逝去。享年74(77)歳。
        江戸での葬儀の導師は池上18世日耀上人。本葬は大野山本遠寺。
        墓所 甲斐・大野山本遠寺。
池上本門寺・紀州徳川家墓所に養珠院お万の方の大きな供養塔がある。刻印「養珠院妙紹日心大姉」。これは池上・比企谷19世日豊上人の筆による。

〇近世以降、池上本門寺は不受不施、不受の問題で身延と対立し、徳川幕府の宗教政策とも絡んでおおきく揺れ動いた。後の寺運興隆・発展は、養珠院お万の方の尽力によるところが大きい。

〇お万の幼年・少女の頃のことは、ほとんど伝説・伝承の世界である。
〇家康の側室となった後、長福丸(徳川頼宣)誕生までの経緯は伝わらない。
 掟 「奥方の儀、何事によらず外様へ申すまじき事」
とはいえ、伏見城に住んでいた頃、京の日蓮宗寺院へ出入りする機会を得て法華信仰を深めていったようである。京都本満寺の日重上人(12世)、日乾上人(13世)に師事し、次いで日遠上人(14世)を生涯にわたり法華信仰の師と仰いだ。


養珠院お万の方の関わった寺院として塔堂の建立五十余ヶ寺、仏像神像の寄進三千余体と伝わる。なかでも特に外護丹精された寺院(日蓮宗)としては以下のようである。
■ 身延山久遠寺 総本山。恩師、日乾上人(21世)・日遠上人(22世)の縁。
■ 大野本遠寺 日遠上人の隠居地に、本格寺院として建立。養珠院お万墓所。
■ 玉沢妙法華寺 伊豆の地縁。加殿(修善寺)妙国寺での仏縁。
  駿府城のお万の居間が移築され、奥書院として現存する。
■ 貞松蓮永寺 駿府城鎮護の道場。


参考  Google 検索
    Wikipedia - 養珠院、他
参考図書
『池上本門寺史管見』 石川存静編 大本山池上本門寺
『女心仏心 ―養珠院お万の方の生涯―』 戸田七郎著 日蓮宗新聞社




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